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深紅のドレスと隣国の王太子

第1話 第1話

第1話

第1話

宮廷の末席には、いつも同じ花が活けられている。白百合。控えめで、主張がなく、誰の目にも留まらない——私にふさわしい花だと、侍女頭が気を利かせたのだろう。花弁の縁がわずかに茶色く変色しているのは、替えられるのが他の席より遅いからだ。誰も気にしない花は、枯れかけていても気づかれない。

春の陽射しが高窓から斜めに差し込む執務室の片隅で、私は今日も外交書簡の整理に追われていた。羊皮紙の束を年代順に並べ替え、条約の草稿に誤字がないか確認し、各国大使への返書の下書きを清書する。本来であれば外務卿の補佐官が担う仕事だが、いつの間にか私の手元に積み上がるようになって、もう二年近くになる。最初は「殿下の婚約者が国政に関心をお持ちとは殊勝なこと」と言われた。今はもう、誰も何も言わない。書類が私の机に置かれ、片付いた書類が回収されていく。そこに私という人間がいることは、工程に含まれていない。

誰も感謝はしない。そもそも、この仕事が私の手で回っていることを知る者が何人いるだろう。

「あら、まだいらしたの」

廊下を通りがかった侯爵令嬢が、扇の陰で口元を隠した。絹の扇に描かれた牡丹の花が、ひらひらと揺れる。隣を歩く子爵令嬢がくすくすと笑う。

「末席の令嬢は勤勉でいらっしゃること。殿下のお気持ちがエミーリア様に移られたのも無理はないわ。あのように華のある方と比べてしまえば」

聞こえるように囁くのは、もはや嫌がらせですらない。宮廷における私の立ち位置を確認する、ただの習慣のようなものだ。

私は顔を上げず、ペンを走らせ続けた。インクの匂いが鼻先をかすめる。鉄と樫の実を煮詰めた、少し苦い匂い。この匂いの中にいる時だけ、私は自分が確かに何かを成していると思える。ペン先が羊皮紙の繊維を引っかけて、かすかな音を立てた。二人の足音が遠ざかっていく。絹の衣擦れと、残り香の薔薇水。彼女たちが去った後の執務室は、少しだけ広くなった気がした。

第二王子カール殿下の婚約者——その肩書きは、もう三年になる。けれど肩書きが示す意味は、年を追うごとに薄れていった。最初の一年は殿下の隣を歩くことを許された。二年目には公務の同席が減り、代わりに書類仕事が増えた。三年目の今、私の席は文字通り宮廷の末席にある。

殿下の傍らにはいつも、男爵令嬢エミーリア・ヴェーバーの姿がある。蜂蜜色の巻き毛に、薔薇色の頬。笑い声は鈴のように澄んでいて、殿下はその声を聞くたびに目を細める。かつて私に向けられていたはずの眼差しと同じだと気づいたのは、いつだったか。いや、あの眼差しが本当に私に向けられていたことなど、あったのだろうか。

午後の鐘が三度鳴り、私は最後の書簡に封蝋を押した。赤い蝋が紋章の形に固まるのを確かめてから、席を立つ。指先についた蝋の欠片を爪で剥がすと、その下にインクの染みが現れた。消えない。もう何層にも重なって、指先そのものが仕事道具のようになっている。廊下に出ると、遠くの回廊から笑い声が聞こえた。殿下とエミーリア嬢だろう。春の庭園は花盛りだと、今朝侍女のマルタが言っていた。花を愛でるお二人の姿は、さぞ絵になることだろう。

私はその反対の方向へ、静かに歩き出した。石畳を踏む自分の靴音だけが、長い廊下に反響していた。

公爵邸に戻ると、夕暮れの光が西の窓から長く伸びていた。使用人たちが会釈をして通り過ぎるが、誰も足を止めはしない。この邸で私に用がある者は少ない。兄は領地経営に忙しく、父は書斎から滅多に出てこない。

私室の扉を閉めると、ようやく肩の力が抜けた。背中がじわりと痛む。宮廷では決して見せない——姿勢を崩すという小さな自由を、ここでだけ許す。

「お帰りなさいませ、リーゼロッテ様」

マルタが温かい紅茶を差し出してくれた。この邸で唯一、私の帰りを待っていてくれる人。幼い頃から私の世話をしてくれている侍女で、母が亡くなった後はほとんど母代わりのような存在だった。差し出されたカップの持ち手が、ちょうど右手で受け取りやすい角度に向けられている。こういう小さな気遣いの一つひとつが、マルタなのだ。

「今日も遅くまで。お体に障りますわ」

「書簡の量が多かっただけよ。隣国との通商条約の更新時期が近いから」

マルタは何も言わなかったが、その目が「それはあなたの仕事ではないでしょう」と語っていた。私は視線を逸らして、紅茶に口をつけた。

紅茶を一口含むと、林檎と蜂蜜の香りが広がった。マルタが私のために特別に調合してくれる茶葉。宮廷では味わえない、小さな贅沢。温かさが喉を通り、冷えた体の芯にゆっくりと沁みていく。

カップを置いて、私は衣裳部屋の奥へ向かった。防虫の香草が仄かに薫る暗がりの中、他の衣装とは離して掛けられた一着がある。

深紅のドレス。

亡き母、クラーラ・フォン・ヴァイスブルクが最後の夜会で纏った一着。当時の流行ではなく、二十年前の古典的な仕立て。裾に施された銀糸の刺繍は月桂樹の葉を模しており、燭台の光を受けると仄かに輝く。母はこのドレスを着て、隣国の大使を相手に一晩で通商協定の骨子をまとめ上げたという。

私は柔らかな布地にそっと触れた。絹の冷たさが指先に伝わる。三年間、季節ごとに虫干しをし、ほつれた刺繍を繕い、この一着だけは手放さずにきた。布地を通して、微かに母の香——すみれの花水の残り香のような——が漂う気がするのは、きっと思い込みに過ぎない。けれどその思い込みが、私には必要だった。

「春の大夜会では、せめてこれを着たいわ」

声に出すと、それは願いというより独り言に近かった。大夜会は王家主催の最も格式高い催し。本来なら王子の婚約者として相応の席が用意されるはずだが、今の私に何が用意されるのか。末席か、あるいは——。

「リーゼロッテ」

父の声が、廊下から私の名を呼んだ。低く、抑揚のない声。感情を削ぎ落とすことに慣れきった、政治家の声だった。

書斎に通されると、父は窓を背にして立っていた。アルヴィン・フォン・ヴァイスブルク公爵。この国有数の名門貴族の当主であり、私の実の父であるが、その表情にはいつも政治的な計算しか浮かんでいない。逆光で表情は読み取れなかったが、読み取る必要もなかった。こういう呼び出しの後に温かい言葉が続いた試しはない。

「大夜会の件だが」

前置きも、座れという言葉もない。父との会話はいつもこうだ。

「目立つな。殿下とエミーリア嬢の機嫌を損ねるような振る舞いは慎め。婚約が続いている以上、我が家にとって殿下との関係は重要だ。おまえ個人の感情で揺るがせてよい話ではない」

私は黙って頭を下げた。この三年間、何度同じ言葉を聞いただろう。目立つな。従順でいろ。婚約を維持しろ。父にとって私は娘である前に、公爵家と王家を繋ぐ楔だった。楔が自ら輝く必要はない。ただ打ち込まれた場所に、黙って留まっていればいい。

「それから、あの古いドレスを着るなどという考えは捨てろ。時代遅れの衣装で嘲笑を買えば、家の品位に関わる」

心臓が小さく跳ねた。母のドレスのことを、どこで知ったのだろう。マルタが漏らすはずはない。おそらく別の使用人が衣裳部屋で見かけたのだ。唇の内側を噛んだ。痛みが、喉の奥から込み上げるものを押し留めてくれる。

「……承知いたしました、お父様」

それ以上の言葉は飲み込んだ。反論しても父の判断は変わらない。それは三年間で学んだ数少ない確かなことの一つだった。

書斎を辞し、廊下を歩きながら、私は自分の手を見下ろした。インクの染みがまだ残っている。今日一日分の仕事の痕跡。誰にも認められず、誰の記憶にも残らない労働の証。

私室に戻ると、マルタが心配そうな顔で待っていた。父との会話の内容を察したのだろう。私は首を横に振って微笑んだ。大丈夫、いつものことだから。マルタはそれ以上問わず、ただ毛布を一枚、寝台の足元に重ねてくれた。春とはいえ、夜はまだ冷える。

寝台に横たわり、天蓋の暗がりを見つめる。宮廷の末席。嘲笑。冷えていく婚約者の眼差し。父の命令。その全てが今日も私の上に積み重なり、静かに沈んでいく。

それでも、と私は思う。

衣裳部屋の奥で、深紅のドレスが待っている。母の誇りが織り込まれたあの一着が。

いつか、あれを纏える日が来る。

その日、私は末席にはいない。

——春の大夜会まで、あと七日。その招待状はまだ、届いていなかった。

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