Novelis
← 目次

深紅のドレスと隣国の王太子

第2話 第2話

第2話

第2話

婚約が決まった日のことは、今でも鮮明に覚えている。

あれは三年前の秋、収穫祭の夜だった。王城の中庭に金木犀の香りが満ちて、篝火が夜空を赤く染めていた。石畳に落ちた花弁が篝火の光を受けて金色に揺れ、まるで地上にもう一つの星空が広がっているようだった。カール殿下は私の手を取り、満座の貴族たちの前で婚約の宣誓をなさった。あの時の殿下の指先は温かく、声は朗々として、まるで詩を詠むように私の名を呼んだ。

「リーゼロッテ・フォン・ヴァイスブルク。そなたを我が伴侶として迎えることを、ここに誓う」

私は十五歳だった。頬が熱くなるのを必死で堪えながら、教わった通りの礼をした。裾を持つ手が震えていたのを、殿下は気づいていただろうか。いいえ、きっと気づいていた。宣誓のあと、殿下はそっと私の手を握り直してくださった。その力加減は強すぎず弱すぎず、「大丈夫だ」とでも言うような静かな優しさがあった。あの頃の殿下は、そういう細やかさを持っていらした——少なくとも、私にはそう見えた。

最初の一年は、夢のようだった。殿下の隣を歩き、公務に同席し、夜会では殿下の腕に手を添えた。私が緊張で言葉に詰まれば、殿下がさりげなく話題を引き取ってくださった。政務について意見を求められることもあった。隣国との国境紛争の調停案を進言した折、殿下は「おまえには外交の目がある」と仰った。

その言葉が、私を変えた。

認められたいと思った。殿下の隣に立つに相応しい人間になりたいと。だから外交文書を読み漁り、各国の通商慣例を暗記し、大使たちの交渉術を陰ながら学んだ。宮廷の書庫に通い詰め、燭台の蝋が溶け尽きるまで羊皮紙と向き合った。指先がインクで染まり、爪の間に黒い跡が残った。それを隠すために手袋を嵌める回数が増えたが、殿下はそのことに気づかれなかった。

変化が訪れたのは、二年目の冬だった。

男爵令嬢エミーリア・ヴェーバーが社交界にお披露目されたのだ。蜂蜜色の髪を揺らし、大輪の花のように笑う令嬢。殿下が彼女に目を留められたのは、冬至の舞踏会だった。「面白い娘だ」——殿下がそう零されたのを、私は隣で聞いていた。

面白い。それは殿下が私に向けたことのない言葉だった。

それから殿下の視線は、少しずつ、しかし確実に移っていった。公務の同席が減り、夜会での会話が短くなり、やがて殿下の隣席にはエミーリア嬢が座るようになった。代わりに私の机には書類が積まれた。殿下が興味を失った外交案件の処理が、名目のない形で私に回されてくる。指示書はなく、ただ書類が置かれる。片付ければ次が来る。拒む理由もなかった。婚約者としての役割が一つずつ削ぎ落とされていく中で、この仕事だけが私を宮廷に繋ぎ止めていた。

三年目に入ると、もはや体裁すら整えられなくなっていた。殿下とエミーリア嬢が庭園を散策される姿を、廊下の窓から見かけることが日常になった。宮廷の者たちは最初こそ気まずそうに視線を逸らしていたが、やがてそれも慣れに変わり、今では誰もが当然のこととして受け入れている。

それでも婚約は破棄されない。公爵家と王家の結びつきは政治的に有用であり、殿下にとってもまだ利用価値があるのだろう。私が裏方で外交実務を回し続けている限り。

先月の隣国との関税交渉では、相手方の大使が提示した税率表に二箇所の矛盾があった。数字を突き合わせて指摘したのは私だが、報告書に私の名前はない。外務卿補佐の名で殿下に上がり、殿下の裁可で決着する。工程の中に私はいない。ただ数字だけが、正しく処理されて流れていく。

その仕組みを、私自身が整えたのだ。感傷に浸る暇があるなら、次の書簡を開く。それが三年間で身につけた処世術だった。

午後の執務を終えて公爵邸に戻ると、玄関の広間に見慣れない銀の盆が置かれていた。王家の紋章が刻印された封蝋。私は足を止めた。

「リーゼロッテ様、本日、王城より」

マルタが盆を差し出す。その声にかすかな緊張が混じっていた。

封を切ると、厚手の招待状が現れた。春の大夜会——王家主催の最も格式高い催し。

宛名を確認する。リーゼロッテ・フォン・ヴァイスブルク。続いて席次の指定書に目を通した。

末席。

正確には、大広間の東端、柱の陰に設けられた補助卓の一席。主賓席からは対角線上にあたり、壇上の王族の顔は豆粒ほどにしか見えない位置だ。かつて私が座っていた殿下の隣席には、当然のようにエミーリア・ヴェーバーの名が記されていた。

「……今年も、ですか」

私が呟くと、マルタの表情が歪んだ。招待状を覗き込み、席次を確認し、そしてその目にはっきりと怒りの色が浮かぶ。

「あんまりでございます。リーゼロッテ様は殿下の正式なご婚約者でいらっしゃるのに。末席などと——いいえ、これは末席ですらありません。あの柱の陰は、昨年ご不興を買った辺境伯が座らされた席ではございませんか」

「マルタ、声が大きいわ」

「大きくもなります! 三年間、殿下のお仕事を陰で支えてこられたのはリーゼロッテ様です。先月の関税交渉だって、あの矛盾を見つけたのは——」

「それは表に出ていない話よ」

マルタの言葉を遮った。声は穏やかに保ったつもりだったが、指先が招待状の縁をわずかに強く掴んでいた。紙が微かに撓む。

「表に出ていないからこそ、悔しいのです」

マルタの声が、小さく震えた。この人は私よりも先に、私のために憤ってくれる。それがどれほど救いになっているか、きちんと伝えたことがあっただろうか。

「ありがとう、マルタ。あなたがそう言ってくれるだけで十分よ」

私は招待状を文机の上に置いた。王家の紋章が、夕陽を受けて鈍く光っている。

末席。柱の陰。誰の目にも留まらない場所。三年かけて私が追いやられた先の、正確な座標が、金の縁飾りに囲まれた紙の上に記されている。

着替えを済ませ、マルタに下がってもらってから、私は衣裳部屋の前で立ち止まった。

扉の向こうに、母のドレスがある。父には着るなと言われた。目立つなと命じられた。その通りにするのが、これまでの三年間の私だった。

けれど今、招待状の席次を見て、心の中で何かが静かに軋んでいる。

末席に座ること自体は構わない。慣れている。問題は、あの席に座って、何を成すのかということだ。末席の令嬢が、末席のまま夜会を終える。それを繰り返して、いったい何が残るというのだろう。

私は扉を開けた。防虫香草の薫りの中、深紅の布地がかすかに揺れた。銀糸の刺繍が、差し込む月明かりに一瞬だけ煌めく。

指先で裾に触れる。この三年間繕い続けてきた刺繍の感触。月桂樹の葉の一枚一枚が、母の——そして私自身の手仕事で保たれている。布地は母が纏っていた頃より幾分褪せているけれど、銀糸だけは今も変わらぬ光を宿している。まるでこのドレスだけが、時の流れに抗うように。

まだ着ない。今はまだ、その時ではない。

けれど私はこのドレスの前で、一つだけ確かなことを知った。

あと七日。あの大広間で、私は試される。末席のまま消えるのか、それとも——。

衣裳部屋を出ると、廊下の窓から王城の尖塔が見えた。夜の帳に沈む王城は、どこか冷たい宝石のようだった。あの城の中で、私の三年間は数字と文字の中に埋もれている。外務卿の報告書の行間に、条約の付帯条項の一文に、誰も読まない議事録の欄外に。

その全てを、殿下は知らない。

知らないまま、一週間後の大夜会で、殿下はエミーリア嬢と微笑み合うのだろう。そして私は柱の陰で、その光景を見届けることになる。

あるいは——見届けないことも、できるのかもしれない。

寝台に入っても、なかなか寝付けなかった。枕に頬を押し当てて目を閉じると、瞼の裏に浮かぶのは三年前の殿下の横顔ではなく、今日整理した通商条約の数字の羅列だった。輸入関税率、港湾使用料、穀物の作況指数。それらが私の頭の中で静かに組み合わさり、一つの地図を描いていく。

この国の外交を、末席から支えてきた三年間。その重さを、誰よりも知っているのは私自身だ。

大夜会まで、あと七日。

——翌朝、宮廷に届いた急報が、私の机に真っ先に回された。隣国との通商条約、更新期限の前倒し。対応できる者が他にいないことを、書類の流れだけが正直に語っていた。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ

第2話 - 深紅のドレスと隣国の王太子 | Novelis