第3話
第3話
春の大夜会の朝は、皮肉なことに、書類仕事で明けた。
隣国との通商条約更新期限の前倒し——その対応に追われた七日間は、夜会の準備どころではなかった。各国大使への照会書を起草し、過去十年分の関税率推移を表に纏め、港湾使用料の改定案を三通り用意した。外務卿補佐官は「助かる」の一言すら寄越さず、完成した書類だけが私の机から消えていった。いつものことだ。
けれど今朝、最後の清書にペンを走らせ終えたとき、私の中で何かが区切りを迎えた感覚があった。この七日間、大夜会のことを考える余裕がなかったのは、むしろ幸いだったのかもしれない。考えたところで、何も変わりはしないのだから。
「リーゼロッテ様、お支度のお時間でございます」
マルタの声に顔を上げると、窓の外はすでに夕焼けに染まっていた。今夜のために用意された淡い藤色のドレスが、寝台の上に広げられている。父が選んだ一着。控えめで、上品で、誰の記憶にも残らない——末席にふさわしい色だった。
「ありがとう、マルタ。自分で着替えるわ」
マルタは何か言いたげに唇を開きかけたが、小さく頷いて部屋を辞した。私は藤色の布地に手を伸ばし、それから衣裳部屋の方角にちらりと視線を向けた。
——今日は、まだ。
指先が藤色の絹に触れる。冷たく、滑らかで、何の感慨もなかった。
大広間に足を踏み入れた瞬間、光の洪水に目が眩んだ。
天井から下がる七つの大燭台が幾千もの蝋燭を灯し、磨き上げられた大理石の床に炎の揺らめきが映っている。楽団が奏でる弦楽の調べ。すれ違う貴族たちの衣擦れと香水。春の大夜会は、王国で最も華やかな夜だ。
私は人の流れに逆らわぬよう、壁際を辿って末席へ向かった。東端の柱の陰。案の定、補助卓には私の名札だけが置かれ、隣席はなかった。一人分の席。一人分の食器。一人分の白百合。宮廷の末席と同じ花が、ここにも活けられている。
柱の反対側から、大広間の全景が見渡せた。主賓席には第二王子カール殿下が座り、その隣でエミーリア嬢が花のように微笑んでいた。今宵のエミーリア嬢は桜色の絹に真珠の髪飾り、まさに春そのもののような装い。殿下は彼女の耳元で何事か囁き、エミーリア嬢が頬を染めて俯く。周囲の貴族たちが微笑ましげにその様子を眺めている。
この光景を、私は三年かけて少しずつ遠くから見るようになった。最初は隣席から。次に同じ卓から。昨年は三つ離れた卓から。そして今年は、柱の陰から。距離が開くたびに、痛みは薄れるものだと思っていた。実際には痛みの質が変わっただけだった。鋭い棘が、鈍い圧迫に変わっただけ。
宴が進み、歓談の時間になった。私は席を立たず、運ばれてきた料理に形だけ手をつけていた。仔羊の香草焼き。この一皿だけは宮廷料理長の腕が確かで、どの席に届いても味は変わらない。
「諸君」
殿下の声が、不意に大広間に響いた。楽団の演奏が止まる。殿下が壇上に立ち、杯を掲げていた。宴の中ほどでの挨拶は通例のことだが、殿下の声にはいつもと違う硬さがあった。大広間が静まり返る。
「本日は諸卿にお集まりいただいたこの席で、一つ、申し上げておくことがある」
心臓が不自然に静かだった。鼓動が速まるのではなく、むしろ止まったかのような錯覚。こういう時、人の体は動揺を先に知って、感情が追いつくのを待つのだと、どこかで読んだことがある。
「ヴァイスブルク公爵令嬢リーゼロッテとの婚約を、本日をもって破棄する」
言葉が大広間の空気を伝わり、天井の高みで反響した。幾百もの視線が一斉に動く気配。殿下の方を向いていた顔が、こちらを——柱の陰を探すように動いた。
殿下は続けた。杯を傾け、中の葡萄酒を一口含んでから。まるで味を確かめるような間を置いて。
「理由は——退屈だから」
笑い声が起きた。最初は一つ、二つ。堰を切ったように広がり、扇の陰で口元を隠す者、隠しもしない者。エミーリア嬢だけが困ったように眉を下げていた。その表情が本物かどうかを判じる余裕は、今の私にはない。
退屈だから。
三年間の全てが、その一語に集約された。外交書簡の山も、深夜の書庫も、インクに染まった指先も。殿下にとっては、退屈な時間だったということだ。
一拍。
足元の大理石の冷たさが、靴底を通して伝わってくる。背筋が自然と伸びた。三年間、宮廷の末席で姿勢を崩さなかった体が、最後の務めを果たそうとしている。
私は椅子を引き、立ち上がった。柱の陰から一歩踏み出す。大広間の視線が集まるのが分かった。末席の令嬢が、初めて満座の中心に立つ——その皮肉に気づいた者が、どれほどいただろう。
深く、正確な礼をとった。裾を持つ手は震えていない。三年前の婚約の宣誓で震えていた手が、今は凪いでいた。
「長らくお世話になりました、殿下」
声は大広間の隅まで届いたはずだった。高くもなく低くもなく、ただ正しい音量で、正しい言葉を。感謝でもなく恨みでもなく、ただ礼節だけを込めて。
「ご厚誼に心より感謝申し上げます。殿下のご多幸を、お祈りいたしております」
礼を終えて顔を上げると、一瞬だけ殿下と目が合った。殿下の表情に、予想とは異なるものが浮かんでいた。嘲りでも優越でもない——狼狽に近い何か。おそらく殿下は、私が取り乱すことを想定していたのだ。泣くか、怒るか、少なくとも声を震わせる程度の反応を。
その方が殿下にとって都合がよかったのだろう。婚約破棄の正当性を、私の乱れた姿で証明できるから。
けれど私は泣かない。怒りもしない。三年間、末席で学んだことが一つだけある。感情を見せれば、それは必ず他者の武器になる。
嘲笑が止んでいた。大広間を奇妙な静寂が覆っている。誰かが咳払いをした。扇を動かす音がやけに大きく聞こえた。殿下の隣でエミーリア嬢が居心地悪そうに身じろぎしている。
私は背筋を伸ばしたまま、踵を返した。
大広間の扉までの距離は、歩数にして四十二歩。長い距離だった。背中に視線が刺さる。けれど足を速めはしなかった。靴音が一定の間隔で大理石を打つ。その音だけが、沈黙の大広間に響いていた。
扉の前で、侍従が慌てて開け放つ。その目に浮かんでいたのは同情だったが、私は視線を合わせなかった。同情は今、最も不要なものだった。
扉が背後で閉まる。
廊下に出た瞬間、音が変わった。大広間のざわめきが厚い扉に遮られ、代わりに自分の呼吸だけが耳に届く。規則正しい吸気と呼気。まだ乱れていない。
石畳の廊下を歩く。松明の灯りが壁に影を落とし、その影が私の歩みに合わせて揺れた。窓の外に見える夜空には、春霞がかかって星が滲んでいる。
あの大広間に、もう私の席はない。
末席すら失われた。白百合の花も、補助卓の名札も、柱の陰の一人分の食器も。全てが今夜で終わった。三年間かけて削られ続けた居場所の最後の欠片が、殿下のたった一語で払い落とされた。
退屈だから。
廊下の角を曲がったとき、不意に足が止まった。
左手が、右手の甲を強く掴んでいた。いつからそうしていたのか分からない。爪が食い込んで、指の付け根が白くなっている。インクの染みが残る指。誰にも気づかれない仕事を積み上げてきた、この手。
震えてはいない。ただ、力が入りすぎている。
遠くで大広間の楽団が演奏を再開した音が、微かに廊下まで届いた。宴は続いている。私が去った後の空白は、もう埋められたのだろう。音楽と笑い声と葡萄酒が、何事もなかったかのように夜を満たしていく。
私は手の力を緩め、再び歩き出した。
馬車寄せに向かう回廊の途中、すれ違った近衛兵が一瞬足を止めた。何か声をかけようとした気配があったが、私が目礼だけで通り過ぎると、彼もまた沈黙を選んだ。
馬車に乗り込み、御者に公爵邸までと告げる。扉が閉まり、車輪が石畳の上を転がり始めた。窓の外を王城の灯りが流れていく。遠ざかる灯りの一つひとつが、この三年間の日々のように思えた。
車内の暗がりの中で、私は自分の手を膝の上に置いた。爪の跡が、うっすらと赤い半月を刻んでいる。
泣いてはいない。泣くものか。涙は何も変えない。涙は武器にはならない。涙は——末席に三年座り続けた女が、最後に見せてよいものではない。
馬車が石橋を渡る振動で、小さく体が揺れた。窓硝子に映る自分の顔は、思ったよりも平静だった。目の奥にだけ、何かが灯っている。怒りとも決意ともつかない、名前のない熱。
ふと、懐から取り出した懐中時計の裏蓋に指が触れた。母の形見。文字盤の針は、夜の九時を少し回ったところを指している。
大夜会はまだ続いている。あの大広間では今頃、舞踏が始まった頃だろう。殿下はエミーリア嬢の手を取り、最初の一曲を踊っているに違いない。
それでいい。
馬車が公爵邸の門をくぐった。車窓から見える邸の窓に、一つだけ灯りが点いている。私室の窓だ。マルタが待っているのだろう。
私は馬車を降り、夜気を深く吸い込んだ。春の空気は湿り気を帯びて、どこか甘い匂いがした。
衣裳部屋の奥で、深紅のドレスが待っている。
——明日の夜会。私は、あれを着る。