第2話
第2話
框を上がると、足の裏に木の温もりが伝わった。冷え切った体がその感触に驚いたのか、一瞬だけ膝が震えた。
老婆——タエと名乗った——は振り返りもせず、薄暗い廊下を進んでいく。壁板の隙間から湯気が細く漏れ、硫黄と古い木の匂いが入り混じっている。廊下の右手に並ぶ障子はどれも閉じていて、人の気配はほとんどない。宿屋というより、誰かの古い家に迷い込んだような静けさだった。
突き当たりの引き戸をタエが開けると、小さな厨房が現れた。土間の竈にはまだ火がくすぶり、鉄鍋の中で粥がゆるく煮えている。棚には欠けた椀が数枚、壁には年季の入った杓子や菜箸が掛かっている。宮廷の厨房とは比べるべくもない。銅鍋の列も、磨き上げた調理台も、香辛料の棚もない。あるのは竈と、鍋と、最低限の器だけだった。
タエが粥を椀によそい、黙ってユーリの前に置いた。塩すら入っているか怪しい、白い粥だった。
「食べな。話はそれからだ」
ユーリは手を合わせ、匙を口に運んだ。米の甘みだけが、じんわりと舌に広がる。何の変哲もない粥だった。味つけと呼べるものはなく、米と水だけで炊いたものだ。だが三日間ほとんど何も食べていなかった体には、それが沁みた。熱い粥が喉を通り、胃に落ちていくのを感じながら、ユーリはゆっくりと椀を空にした。
タエは向かいに座り、自分は食べもせず、ユーリの食べる様子をじっと見ていた。
「あんた、どこから来た」
「——遠くから」
「ふうん」
それ以上は聞かなかった。ただ空になった椀を下げ、代わりに白湯を出してくれた。湯飲みの縁が欠けていた。その欠けた部分を指で確かめながら、ユーリは厨房を見回した。竈の火の扱いは悪くないが、鍋底に焦げつきが残っている。棚の調味料は塩と、固くなった味噌がわずか。油壺はほとんど空だった。
この厨房で出せる料理には、限りがある。いや、限りがあるという言い方は正しくない。限りしかない。それがこの宿の食事の味気なさに直結しているのだと、料理人の目はすぐに見抜いた。
翌朝、ユーリは日の出とともに目を覚ました。
タエに宛がわれた部屋は、廊下の奥の四畳半だった。布団は薄かったが、温泉の熱が床下を通っているのか、底冷えはしなかった。障子を開けると、朝靄の中に山の稜線が浮かんでいた。谷間に溜まった白い霧の上を、小鳥の声が滑っていく。
宮廷では、この時刻にはもう厨房に立っていた。仕込みの段取りを頭の中で組み立て、下働きの者たちに指示を出し、火を入れる順番を確認する。それが十五年間の朝だった。今はその段取りがない。代わりにあるのは、谷を渡る風の音と、遠くで湯が湧く微かな響きだけだった。
ユーリは鞄から包丁を一本取り出し、外へ出た。
裏手に山道があった。道と呼ぶには頼りない、獣の踏み跡のような細い筋が、雑木林の奥へ続いている。朝露に濡れた下草を分けて進むと、すぐに山菜が目に入った。蕨の若芽が拳を握るように巻いている。その傍に、うるいの青い葉が地面を覆っていた。こごみの渦巻きも見える。宮廷の食材庫に並んでいた乾燥山菜とは違う、水気を含んだ生の姿だった。
膝をつき、指で土を確かめた。黒く湿った腐葉土は柔らかく、爪の間に入り込む。冷たくて、温かい。山の体温のようなものが指先に伝わってきた。
蕨の根元に刃を当て、丁寧に切り取る。力は要らない。茎が自ら離れるような、そんな角度がある。宮廷では決して使わなかった技術だが、体が覚えていた。料理人になる前、まだ田舎の村にいた頃に祖母と山に入った記憶が、指先を導いている。
山菜を籠の代わりに前掛けの裾に包み、さらに道を登ると、小さな沢に出た。幅は三歩ほど。水は透き通り、底の石が朝日を弾いている。その浅瀬に、岩魚が二尾、ゆらゆらと尾を振っていた。
ユーリは靴を脱ぎ、沢に足を入れた。水の冷たさが足首を噛む。息を止め、じっと待った。魚の動きを目で追い、流れの癖を読む。やがて岩魚が岩陰に寄った瞬間、手を滑り込ませ、一気に掬い上げた。銀色の腹が朝日を受けて光る。もう一尾も同じ要領で獲った。指の間で魚が跳ねる感触が、不思議と懐かしかった。
宿に戻ると、タエは帳場で帳面を繰っていた。客の少なさを数字が語っているのだろう、眉間の皺が深い。ユーリは声をかけずに厨房に入った。
竈に火を起こし、山菜の下処理を始める。蕨は灰汁抜きが必要だが、うるいとこごみはさっと洗えばいい。岩魚は腹を裂き、内臓を取り除いた。川魚の捌き方は宮廷で学んだものではない。これも祖母に教わった、子どもの頃の記憶だ。
ここで、ユーリはふと手を止めた。
裏口の向こうに、木の樋が見える。宿の壁沿いに設えられたもので、中を温泉の湯が流れていた。湯気が細く上がっている。あの湯気は——。
竈の隅に、使い古された蒸籠が積まれていた。埃を被っているが、竹の編み目はまだしっかりしている。ユーリはそれを手に取り、樋の上にかざした。温泉の蒸気が蒸籠の底から立ち上り、手のひらを温かく包む。温度は竈の蒸気より低いが、安定している。そして何より、この蒸気には鉱物の匂いがある。ただの水蒸気とは違う。
ユーリは山菜を蒸籠に並べた。うるいの葉を広げ、その上にこごみを置き、岩魚を一尾、塩だけを振って載せる。蓋をして、樋の上に据えた。
待つ時間は、静かだった。竈の火が爆ぜる音と、蒸籠から漏れる蒸気の音だけが厨房に満ちる。宮廷では百もの工程を同時に管理していた。火口の数だけ時間が走り、一秒の遅れが皿の出来を左右した。だが今、ユーリの前にあるのは蒸籠ひとつだけだ。その蒸籠が発する微かな音の変化に、耳を澄ませる。山菜から水が出始めた音。魚の皮が蒸気で張る音。それぞれが違う。
やがて蓋を開けると、湯気の中から色が立ち上った。うるいの葉は鮮やかな翠色を保ったまま、しんなりと柔らかくなっている。こごみの渦巻きは解けかけて、中の薄緑が覗いている。岩魚は皮に薄く塩の結晶が浮き、身はほろりと崩れそうなほど繊細に火が通っていた。温泉の蒸気で蒸したことで、ほんの微かに、鉱物の風味が素材の輪郭を縁取っている。
味つけらしい味つけはしていない。塩と、温泉の蒸気と、山の恵みだけだ。器もなかったので、蒸籠のまま食卓に出した。
タエは帳面を置いて、蒸籠を覗き込んだ。何も言わず、箸を取った。まずうるいの葉を一枚、口に運ぶ。次にこごみ。そして岩魚の身をひと箸。
老婆の咀嚼は、ゆっくりだった。ひと口ごとに何かを確かめるように顎が動く。ユーリは黙って立っていた。評価を求めているわけではなかった。ただ、この素材がこの土地にあること、この蒸気がこの宿にあること、それを知ってほしかっただけだ。
タエの箸が止まった。
最初、ユーリにはその震えが何なのか分からなかった。老婆の肩が細かく揺れている。怒っているのだろうか。不味かったのか。だが顔を上げたタエの頬を、涙が伝っていた。
「——じいさんの味だ」
しわがれた声が、厨房の空気を震わせた。
「死んだじいさんが、こうやって蒸してたんだよ。あの蒸籠で。あの湯気で」
タエは袖で目元を拭ったが、涙は止まらなかった。何年も使われていなかった蒸籠。壁沿いの樋。温泉の蒸気。それらはすべて、亡くなった誰かが遺した厨房の記憶だったのだ。
ユーリは何も言えなかった。自分が作ったのは、ただの山菜と川魚の蒸し物だ。特別な技法も、珍しい食材も使っていない。この土地にあるものを、この土地の蒸気で蒸しただけだ。なのにタエの涙は止まらず、老婆はしばらく顔を伏せたまま、肩を震わせていた。
やがてタエは顔を上げ、残りの岩魚を最後のひと口まで食べ終えた。蒸籠の底に残った汁まで、椀に移して飲んだ。
「あんた、名前は」
「ユーリ、です」
「ユーリ。——今晩も作れるかい。常連が来る」
その言葉は、問いかけの形をしていたが、頼みごとの響きを持っていた。ユーリは蒸籠に目を落とした。竹の編み目に染みた蒸気が、まだ微かに温かい。知らない土地の、知らない老婆の、知らない亡き人の記憶に触れてしまった。それが重いのか、温かいのか、まだ分からなかった。
「——はい」
頷いたとき、裏口の樋を流れる温泉の音が、少しだけ大きく聞こえた気がした。