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湯けむり厨房と忘れた味

第1話 第1話

第1話

第1話

湯気の向こうに、十五年が沈んでいった。

乗合馬車の硬い座席が、もう三日も背骨を軋ませている。ユーリは額を窓枠に預けたまま、流れていく景色をぼんやりと眺めていた。平野はいつしか山あいの道に変わり、車輪が石を噛むたびに体が跳ねる。向かいに座った行商人が気遣わしげにこちらを見ていたが、ユーリは目を合わせなかった。話しかけられたら、何を答えればいいのか分からなかった。どこから来たのか。どこへ行くのか。どちらの問いにも、まともに応じる言葉を持っていなかった。

荷物は、革の鞄がひとつだけだ。中には着替えと、使い込んだ包丁が三本。柄の木目はすり減り、刃は何百回と研いで薄くなっている。宮廷料理長の肩書きも、王城の厨房に並んでいた百を超える調理器具も、すべて置いてきた。正確には、置いてくるしかなかった。

三日前の夜のことを思い返す。新王即位の祝宴。ユーリが手がけた七皿のうち、三皿目の子羊の煮込みに毒物が混入されていたと、侍従長が宣告した。身に覚えなどあるはずがない。あの煮込みはユーリ自身が仕込みの段階から一度も手を離さなかった。香味野菜を刻み、骨ごと鍋に沈め、火加減を調え、仕上げの香草を散らすまで——すべてこの手でやった。だが弁明の機会は与えられず、衛兵に両腕を掴まれて裏門から放り出された。夜明け前の石畳は冷たく、膝をついたとき、掌の皮が擦り剥けた。その傷は今もまだ薄く赤い。

十五年だ。十五年間、あの厨房に立ち続けた。先代の王に仕え、王妃の好む塩加減を覚え、第一王子が苦手な香草を把握し、第二王女の誕生日には毎年、蜂蜜と檸檬のタルトを焼いた。すべての皿が「正解」でなければならなかった。王族の舌は正直で、そして残酷だった。わずかな失敗も許されない厨房で、ユーリはいつからか、自分が何を美味いと感じるのかを考えなくなっていた。

馬車が大きく揺れ、ユーリは額をぶつけて目を開けた。窓の外の空気が変わっている。湿り気を帯びた風に、かすかな硫黄の匂いが混じっていた。

「終点だよ。ユバナ温泉郷」

御者の声に、残っていた乗客が腰を上げる。ユーリも鞄を抱えて降りた。

馬車の停留所は、山に挟まれた谷間の入口にあった。石造りの小さな屋根の下に、木の看板が掛かっている。文字はところどころ掠れていたが、「ユバナ温泉郷」と読めた。谷の奥へと続く一本道の両脇に、古びた建物がまばらに並んでいる。屋根の隙間から白い湯気が立ち上り、夕暮れの山肌を淡く染めていた。

空気が、重い。王都の乾いた風とはまるで違う、水と鉱物と木々の匂いを含んだ空気だった。ユーリは無意識に深く息を吸い込んだ。肺の奥に、温かい湿気が沁みる。三日間、埃と馬の汗の匂いばかりを吸っていた体が、その温もりに微かに震えた。

そのとき、腹が鳴った。

ぐう、と。情けないほど大きな音だった。

ユーリは思わず自分の腹を見下ろした。いつから何も食べていないのか。馬車の中で干し肉をひと切れ齧った記憶があるが、それが昨日のことだったか、一昨日だったかも曖昧だ。

宮廷にいた頃は、腹が鳴ることなどなかった。賄いの時間は決まっていたし、味見という名目で常に何かを口に運んでいた。空腹を感じる暇すらなかった、というのが正確かもしれない。毎日が締め切りに追われるようなもので、王族の食事の時刻から逆算して仕込みを進め、配膳が終われば次の献立の準備に取りかかる。腹が空いたかどうかなど、考える余裕がなかったのだ。

だから、この音は新鮮だった。体が正直に、何かを求めている。ユーリは少しだけ可笑しくなって、口元が緩んだ。三日ぶりに、表情が動いた気がした。

だが、現実はすぐに追いついてくる。

鞄の中を探っても、硬貨は数枚しかない。追放の夜、手元にあった僅かな私財をかき集めただけだ。乗合馬車の運賃でほとんど消えた。宿を取るには足りず、まして食事など望むべくもない。

ユーリは停留所の屋根の下に立ち尽くしたまま、谷間の道を見渡した。夕暮れが深まり、山の稜線が藍色に沈んでいく。湯気だけが白く浮かび上がり、温泉郷は静かに夜の支度を始めていた。

行く宛てがない。

この馬車に乗ったのも、行き先を選んだわけではなかった。王都の外れで、一番安い便に飛び乗っただけだ。終点がどこかも知らなかった。ただ、王都から離れたかった。あの城壁の中に自分の居場所はもうないと、体が分かっていた。

足が重い。三日間ろくに眠れなかった体が限界を訴えている。石段に腰を下ろそうとして、ふと顔を上げた。

谷の奥、道がゆるく曲がるあたりに、橙色の灯りが見えた。

他の建物はもう戸を閉じているのに、そこだけが光を漏らしている。二階建ての、古い木造の建物だった。壁板は風雨に晒されて灰色に褪せ、軒先の提灯がひとつ、弱々しく揺れている。宿屋だろうか。屋根の向こうから湯気が上がっているから、温泉を引いているのかもしれない。

ユーリは立ち上がった。宿代がないことは分かっている。だが、あの灯りの下まで行けば、せめて軒先で夜露はしのげるかもしれない。それだけの理由で、足が動いた。

砂利を踏む音が、静かな谷間に響く。歩くたびに硫黄の匂いが濃くなり、湯気が肌をなでる。宮廷の大理石の床とは何もかもが違う。足元は不揃いの石で、壁は苔むし、どこからか水の流れる音がする。

建物に近づくと、中から微かに物音が聞こえた。鍋か何かを火にかける音。そして——油が跳ねる小さな音に混じって、焦げた穀物の匂いが漂ってきた。粥でも炊いているのだろう。素朴で、どこか懐かしい匂い。宮廷の厨房で使っていたバターや香辛料の華やかさとはまるで違う、剥き出しの、飾りのない食の匂いだった。

ユーリの腹が、もう一度鳴った。今度はさっきより小さく、切なげな音だった。

提灯の灯りに照らされた入口の引き戸は、半分だけ開いていた。その隙間から、温かい空気がこちらに流れてくる。湯気と炊きものの匂いが混じり合った空気は、重たくて優しかった。ユーリは鞄の紐を握り直して、一歩を踏み出した。

引き戸の奥に、小さな土間があった。上がり框に草履が二足。壁には古い木札が掛かっていて、宿の名前らしき文字が読めたが、墨が薄れてほとんど判別できない。土間の隅に薪が積まれ、その上に猫が一匹、丸くなって眠っていた。

奥の方から、しわがれた声が聞こえた。

「誰だい。戸を開けっ放しにするんじゃないよ」

声の主は見えない。だがその声には、怒気よりも疲れのほうが多く滲んでいた。ユーリは喉の奥で言葉を探した。宮廷では、いつも用意された台詞があった。「お召し上がりください」「本日の献立でございます」。だが今、この場所で口にすべき言葉を、ユーリは持っていなかった。

長い沈黙のあと、ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。

「——すみません。泊まる金は、ありません」

我ながら馬鹿な言葉だと思った。宿に来て、金がないと告げる人間がどこにいる。追い出されて当然だ。王都なら、衛兵を呼ばれていただろう。

だが奥から返ってきたのは、予想とは違う響きだった。

足を引きずるような音がして、土間の奥から小柄な老婆が姿を現した。白髪を無造作に束ね、染みだらけの前掛けをしている。鋭い目がユーリを頭からつま先まで眺め回した。革の鞄、埃だらけの外套、擦り剥けた掌。その視線は値踏みというより、何かを確かめるように丁寧だった。

老婆は一度だけ鼻を鳴らし、それから言った。

「料理はできるかい」

ユーリは目を瞬いた。なぜ、それを。鞄の形から包丁が入っていると見抜いたのか、それとも——ただの偶然か。問い返す前に、老婆の目がユーリの右手に留まっているのに気づいた。包丁を握り続けてできた、中指と薬指の付け根の硬い胼胝。料理人の手を、この老婆は知っているのだ。

答えを待たず、老婆は背を向けた。

「厨房を手伝うなら、泊めてやる。飯もつけてやるよ」

その背中を見つめたまま、ユーリは動けなかった。厨房。その言葉が、重く響いた。三日前まで立っていた場所と同じ名前の、けれどまるで違う場所。

提灯の灯りが揺れ、老婆の影が土間の壁に伸びた。奥の方で、粥の煮える音がことことと聞こえている。

ユーリは草履を脱ぎ、框に足をかけた。

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