第2話
第2話
午前の鐘が、王宮の尖塔から澄んだ音色を降らせた。
謁見の間へと続く回廊を歩きながら、私は自分の足音を数えていた。一歩、二歩、三歩。規則正しく、迷いなく。石畳に落ちる靴音は、まるで他人のもののように冷静だった。こういうとき、体は心よりずっと正直に振る舞いを覚えている。三年間の王妃教育が骨の髄まで刻んだ所作は、こんな朝にさえ私を裏切らない。
身支度には、いつもより時間をかけた。マルタが不思議そうな顔をしていたが、何も尋ねなかった。長年仕えてくれた侍女は、言葉にせずとも主の機微を察する聡さを持っている。藍色のドレスを選んだのは、ヴァイセンブルク家の紋章色だからだ。今日という日に、私は侯爵令嬢として臨む。王太子の婚約者としてではなく。
謁見の間の大扉が見えてきたとき、ふと背後に気配を感じた。昨夜と同じ——けれど今朝は、私の意識がそれを捉えた。振り返ると、五歩ほど後ろに一人の騎士が立っている。黒髪を短く刈り上げ、飾り気のない革鎧を纏った長身の男。瞳は暗い灰色で、表情というものがほとんど読み取れない。
見覚えがあった。父の屋敷で何度か見かけた——確か、護衛騎士の一人。名前は、思い出せなかった。三年間、殿下のことばかり考えていた私は、自分の周囲にいる人間をろくに見ていなかったのだ。
騎士は何も言わなかった。ただそこに立っている。松明の灯りが届かない影の側に、当然のように。
「——参りましょう」
誰に言うともなく呟いて、私は大扉に向き直った。
扉が開かれると、謁見の間には既に多くの貴族が居並んでいた。
予想していた以上の人数だった。公爵家、伯爵家、子爵家。王国の名だたる家門の当主や令息令嬢が、広間の左右に整然と並んでいる。天井から下がる水晶の灯架が冷たい光を注ぎ、磨き上げられた大理石の床に幾何学模様の影を落としていた。正面の玉座の前に、エルヴィン殿下が立っている。その半歩後ろに、亜麻色の髪の女性——カミラ・フォン・リンデン嬢。
これほどの衆目を集めたのは、やはり見せしめのためだ。
理解した瞬間、不思議と心が凪いだ。怒りでも悲しみでもなく、澄んだ水のような静けさが胸の内に広がっていく。なるほど、殿下は私が取り乱すところをこの場の全員に見せたいのだ。侯爵令嬢が涙を流し、膝を折り、哀れに縋る姿を。そうすることで、婚約を破棄した自身の正当性を証明しようとしている。
——あいにくですが、殿下。その思惑通りにはなりません。
広間の中央を歩く。視線が四方から突き刺さる。同情、好奇、侮蔑、愉悦。それらすべてを肌に受けながら、私は一切の感情を顔に出さなかった。背筋を伸ばし、顎を引き、視線はまっすぐ前へ。母に教わった通りの完璧な歩み。
殿下の前で足を止め、礼をする。
「お呼びに預かりましたリーゼロッテ・フォン・ヴァイセンブルクでございます。殿下のお言葉を謹んで承ります」
殿下は私を見下ろした。その瞳には、申し訳なさも躊躇いもなかった。ただ、早く済ませたいという苛立ちにも似た光があった。三年間の婚約を終わらせるにしては、あまりにも軽い目だった。
「リーゼロッテ・フォン・ヴァイセンブルク」
殿下の声が広間に響く。よく通る声だった。こういうとき、王族の声というものは残酷なほど美しく響くものだ。
「私は本日をもって、そなたとの婚約を破棄する。理由は——そなたが王太子妃にふさわしくないと判断したためだ」
一拍の沈黙が落ちた。
広間の空気が凍りつく。いくら予測されていたこととはいえ、公式の場での宣告は重い。貴族たちの息を呑む音が、さざ波のように広がっていく。
そしてその沈黙の中で、カミラ嬢の唇がわずかに弧を描くのを、私は見逃さなかった。勝ち誇った笑み。扇の陰に隠すことすらしない、無防備なほどあからさまな歓喜。聖女の血筋を持つと称される令嬢の、あまりにも人間的な表情だった。
——三年間、この方に負け続けたのだ。
その事実が、不思議なほど冷静に胸に落ちた。怒りではなく、ただの認識として。殿下がカミラ嬢を選んだ。それが結論だ。過程がどうであれ、理由が何であれ、王太子が決めたことは覆らない。ならば私がすべきことは一つしかない。
一呼吸。感情を飲み込む。母の教え通りに。
「——承知いたしました」
私は深く、丁寧に一礼した。謁見の作法に寸分の狂いもない、完璧な礼。
「三年間、殿下のお側に置いていただきましたこと、心より感謝申し上げます。殿下と次代のお妃様の行く末に、天の加護がありますよう」
顔を上げたとき、殿下の表情にかすかな戸惑いが走るのが見えた。想定していた反応ではなかったのだろう。泣き崩れることも、弁明することも、縋ることもしない婚約者の姿は、殿下の筋書きにはなかったはずだ。
広間がざわめいた。貴族たちが互いに顔を見合わせている。哀れな令嬢の醜態を期待していた者たちの目に、今映っているのは——毅然と背筋を伸ばした侯爵令嬢の姿だ。
「では、失礼いたします」
最後にもう一度、礼の作法に則った一礼を残し、私は踵を返した。
背中に視線が突き刺さる。カミラ嬢の笑みが消えたのを、振り返らずとも感じ取れた。殿下が何か言いかけた気配があったが、私は足を止めなかった。止まれば、すべてが崩れる。今この瞬間だけは、足を止めてはならない。
大扉を抜けた。
回廊の冷たい空気が肌を打つ。謁見の間の重苦しい熱気から解放された途端、全身から力が抜けそうになった。膝が笑っている。指先が冷たい。唇の端を噛んで、かろうじて歩調を保つ。
——泣くな。まだ誰が見ているかわからない。
十歩。二十歩。回廊の角を曲がり、ようやく人目から完全に離れたとき。
不意に、肩に温もりが触れた。
柔らかな布の重み。使い込まれた革と、かすかな鉄の匂い。見下ろすと、濃紺の外套が私の肩にかけられていた。飾り気のない、実用本位の騎士の外套。
振り返ると、あの騎士が立っていた。先ほど回廊で見かけた、無表情の護衛騎士。いつの間に後ろにいたのか、足音すら聞こえなかった。
「……これは?」
「謁見の間は冷える」
それだけだった。説明も、気遣いの言葉も、同情の眼差しもない。ただ事実を述べるように、短く。
冷える。確かに、私は今震えている。けれどそれは回廊の寒さのせいではないことを、この騎士は知っているのだろうか。知っていて、あえて寒さのせいにしてくれたのだろうか。
「……ありがとうございます」
声が掠れた。慌てて咳払いをする。今この瞬間に誰かの温情に触れるのは、危険だった。凍らせていた何かが溶け出しそうになる。
「お名前を伺ってもよろしいですか」
「グレン」
姓を名乗らなかった。騎士としては異例の簡素さだ。けれど今の私には、その素っ気なさがかえって心地よかった。身分も経緯も問わず、ただ名前だけ。対等とも無礼ともつかない、不思議な距離感。
「グレン殿。この外套は、後ほどお返しいたします」
「急がなくていい」
騎士——グレンは、それきり口を閉ざした。私の三歩後ろに下がり、影のように佇んでいる。謁見の間から私が出てくるのを、ずっと待っていたのだろうか。昨夜の回廊でも、舞踏会の帰りでも、気づかぬところでこの男は——。
考えを振り払い、私は歩き出した。王宮を出なければ。ヴァイセンブルク家の馬車が待っているはずだ。父にも報告しなければならない。これからのことを、考えなければならない。
けれど外套の温もりが、思考を乱す。
使い込まれた布地は騎士の体温を残していて、肩から背中にかけてじんわりと熱が広がっていく。三年間、殿下から一度も受け取れなかった類の——ささやかで、実直で、見返りを求めない温もり。
馬車が見えた。御者が扉を開けて待っている。私は外套の襟をかき合わせ、一段を上がった。振り返ると、グレンが馬車の脇に立ったまま、こちらを見ていた。いや、見ているのかどうかすらわからない。あの灰色の瞳は、何も語らない。
「グレン殿」
「——何か」
「昨夜、回廊にいらしたのも、あなたですか」
一瞬の間。それから、ほとんど頷きとも言えないほどわずかに、顎が動いた。
何も言わずに見守っていたのだ。昨夜も、今日も。
馬車の扉が閉まる。御者が手綱を取り、車輪が石畳の上を転がり始めた。
揺れる車内で、私は外套を握りしめていた。指が震えている。寒さではない。今度こそ、寒さではないと自分でもわかっていた。
泣かなかった。泣くものかと決めていた。ヴァイセンブルク家の誇りにかけて、一滴たりとも。
——けれど。
騎士の外套に染みついた温もりが、凍りついた胸の奥にじわりと触れるたび、目の奥が熱くなる。殿下の冷たい宣告よりも、カミラ嬢の勝ち誇った笑みよりも、貴族たちの好奇の視線よりも。名も知らぬ騎士の、たった一言の方がずっと深く、私の心を揺さぶっていた。
——謁見の間は冷える。
ただそれだけの言葉が。ただそれだけの外套が。
指先が布地を手放せない。この温もりを失ったら、今度こそ何かが決壊してしまう気がした。
馬車の窓の外を、王都の街並みが流れていく。見慣れた景色が、今日は少しだけ違って見えた。三年間見上げ続けた王宮の尖塔が、少しずつ遠ざかっていく。
涙は、誰にも見せなかった。
けれど外套を握る指の震えだけは、どうしても止まらなかった。