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飾り婚約者と無口な騎士

第1話 第1話

第1話

第1話

三年という歳月は、人の心を鋼にするには十分すぎる時間だった。

大広間に響くワルツの旋律が、天井の硝子飾りを震わせている。幾重にも連なる燭台の灯りが貴婦人たちの宝飾を煌めかせ、笑い声と衣擦れの音が波のように寄せては返す。甘い香水と蝋燭の蝋が溶け合った匂いが、重たい空気となって肌にまとわりつく。王宮の舞踏会——王国きっての社交の華。けれどこの輝かしい光景の中に、私の居場所はない。

壁際の柱に背を預け、私は手にしたグラスの縁をそっと指でなぞった。指先に伝わる硝子の冷たさだけが、今の私に許された感覚のようだった。グラスの中の葡萄酒は、一口も減っていない。飲むためではなく、手持ち無沙汰を悟られぬための小道具。こんな技術ばかり上達してしまった三年間だった。

広間の中央では、エルヴィン殿下がカミラ嬢の手を取って優雅に旋回している。男爵令嬢の亜麻色の髪が弧を描くたび、殿下の口元に柔らかな微笑みが浮かぶ。見覚えのない表情だった。私と言葉を交わすとき、殿下はいつも窓の外か、手元の書類か、あるいは壁にかかった肖像画を見ていた。あの笑みが私に向けられたことは、ただの一度もない。

「まあ、リーゼロッテ様。今宵もお一人で?」

声をかけてきたのは、伯爵夫人の令嬢だった。扇の陰に隠しきれない好奇の目。その傍らにいるもう一人の令嬢が、口元を扇で隠しながら何かを囁いている。哀れんでいるのか、嘲っているのか。どちらでも構わない。

「ええ。殿下にはお相手がいらっしゃいますもの。私のような者がお邪魔しては申し訳ございませんわ」

完璧な微笑みを返す。声は穏やかに、姿勢は正しく、瞳に翳りは一切見せず。侯爵令嬢リーゼロッテ・フォン・ヴァイセンブルクは、いかなる時も気品を損なわない。そう振る舞うことが、ヴァイセンブルク家に生まれた者の務めだと、幼い頃から叩き込まれてきた。背筋を伸ばせ。顎を引け。微笑みは唇だけでなく目元から。どんな言葉を投げられても、最初の一呼吸で感情を飲み込め——母の教えは骨の髄まで染みついている。

令嬢が去ったあと、私は視線を広間の中央に戻した。三度目のワルツ。殿下はカミラ嬢以外の手を取る気配すらない。社交の慣例では、婚約者との一曲は欠かすべきではないとされている。一曲目が始まったとき、私は殿下の視線を待った。二曲目が始まったとき、まだ待っていた。三曲目の今はもう、待つことすらやめていた。それすら、もう守られることはないのだ。

「飾り婚約者」——社交界でそう囁かれていることを、私は知っている。知っていて、知らぬふりを通してきた。侯爵家の名誉のために。父の期待のために。そして何より、自分自身の誇りのために。

曲が終わる。拍手が沸き起こる。カミラ嬢が殿下の腕に寄り添い、甘えるように見上げる仕草。殿下がその頬にかかった髪をそっと払ってやる。親密な所作だった。婚約者のいる公の場で見せるには、あまりにも親密な。周囲の貴族たちが意味ありげに視線を交わす。その視線のうちの幾つかが、壁際の私を捉え、すぐに逸らされる。

——哀れまれることには、もう慣れた。

グラスを近くの給仕に渡し、私は背筋を正した。そろそろ頃合いだろう。早すぎれば惨めに映り、遅すぎれば未練がましい。退出の時機を計ることすら、この三年で身についた技術の一つだった。笑みの形を崩さぬまま、自然な足取りで柱の影を離れる。誰にも気づかれず、けれど逃げるようには見えないように。

広間を横切ろうとしたとき、一人の侍従が足早に近づいてきた。王太子付きの侍従——ハインリヒ。殿下の側近の中でも、比較的私に丁寧な態度を崩さなかった数少ない人物だ。

「リーゼロッテ様。夜分に失礼いたします」

ハインリヒは周囲に聞こえぬよう声を落とした。その目が一瞬だけ伏せられたのを、私は見逃さなかった。この侍従は、私に伝えるべき言葉の意味を理解している。理解していて、なお丁寧であろうとしている。その律儀さが、今は少しだけ胸に刺さった。

「明日、謁見の間にて、殿下がお話があるそうでございます」

謁見の間。私的な書斎でも、庭園の東屋でもなく、謁見の間。貴族たちが居並ぶ公の場。つまり殿下は、衆目の前で宣告するつもりなのだ。私がどんな顔をするか、どう取り乱すか——あるいはカミラ嬢の正当性を証人の前で示すために。

「承知いたしました。何時にお伺いすればよろしいでしょうか」

「午前の鐘の後に」

「かしこまりました。ハインリヒ殿、お伝えくださりありがとうございます」

侍従が去ったあと、私は一瞬だけ目を閉じた。

——ああ、ついに来たのだ。

驚きはなかった。むしろ、遅すぎたとさえ思う。カミラ嬢が王宮に出入りするようになって二年。殿下の態度が露骨に変わって一年。この結末は、とうの昔に見えていた。見えていて、自分からは動けなかった。侯爵家の娘として、王家との縁を自ら断つことは許されない。だから待つしかなかった。殿下の方から、終わりを告げてくださるのを。

目を開ける。大広間の喧騒は変わらない。誰も私の内側の嵐に気づかない。気づかせない。

踵を返し、広間を出た。回廊は舞踏会の熱気から切り離されたように静かで、私の靴音だけが石壁に反響する。等間隔に灯された松明が、長い影を廊下に落としていた。冷たい夜気が頬を撫で、大広間で纏っていた香水と蝋燭の匂いが少しずつ薄れていく。その代わりに、石と夜露の清涼な匂いが鼻腔を満たした。不思議と、こちらの方が呼吸しやすかった。

明日。謁見の間で、私は婚約破棄を告げられる。

不思議と、涙は出なかった。三年前、婚約が決まったときの高揚を思い出す。王太子妃になる——それは侯爵家の悲願であり、幼い私の夢でもあった。父が書斎で涙を浮かべていた。母が珍しく私を抱きしめてくれた。「お前ならできる」と、いつも厳しい母がそう言った。あの日の温もりを、私はまだ覚えている。王妃にふさわしい教養を身につけるため、外交、財政、農政、礼法、歴史。膨大な学びの日々は苦しくも充実していた。夜更けまで燭台の灯りの下で書物を開き、指先がインクで黒く染まるのも気にならなかった。すべては、この国の役に立つためだと信じていた。

けれど殿下が求めたのは、学識でも気品でもなかった。カミラ嬢の無邪気な笑顔と、聖女の血筋という肩書き。私が三年かけて磨き上げたものは、最初から殿下の目には映っていなかったのだ。

自室の扉の前に立つ。侍女のマルタが中で待っているはずだ。扉を開ければ、いつもの夜が始まる。髪を解き、夜着に着替え、明日の支度を整える。ただし明日は、婚約者としての最後の朝を迎えることになる。

取手に手をかけたとき、ふと気配を感じて振り返った。

回廊には誰もいない。松明の灯りが揺れているだけだ。けれど今、確かに——足音があった。私の歩調に合わせるように、半歩後ろを歩く静かな足音が。

首を傾げたが、深く考えることはしなかった。王宮には衛兵が巡回している。それだけのことだろう。

扉を開け、自室に入る。マルタが駆け寄り、舞踏会の様子を尋ねてくるのを、私はいつもの微笑みでやり過ごした。

「今宵も素敵な夜でしたわ」

嘘をつくことにも、もう慣れてしまった。

髪を梳かれながら、鏡の中の自分と目が合う。蒼い瞳に映るのは、完璧に整えられた侯爵令嬢の顔。三年間、この顔を崩さなかった。明日も崩すつもりはない。

——ただ一つだけ、決めたことがある。

明日、殿下が何を仰ろうと、私は泣かない。取り乱さない。ヴァイセンブルク家の誇りにかけて。

そしてもう一つ。

明日が終わったら、ようやく——自分のために生きることを、考え始めてもいいのではないだろうか。

鏡の中の私が、ほんの少しだけ、本物の笑みを浮かべた気がした。寝台に入り、目を閉じる。最後の夜は、不思議なほど穏やかだった。

回廊では、松明の影に溶けるようにして一人の騎士が立っていた。無表情のまま、閉じられた扉を見つめている。やがて音もなく踵を返し、闇の中に消えていく。

その男の名を、リーゼロッテはまだ知らない。

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