第2話
第2話
夢を見た。
銀色の花弁が降り注ぐ夢だった。空から、地面から、あるいは自分の内側から——どこから降ってくるのか分からない花弁が、音もなく私を包んでいた。怖くはなかった。むしろ、温かかった。母親の腕の中にいるような——そんな記憶があるのかすら定かではないのに、そう思った。手のひらの上に一枚が落ちた瞬間、花弁は淡い光になって溶けて、その光が指先から腕を伝い、胸の奥まで流れ込んでくるのが分かった。光が通った場所が、一瞬だけ熱くなって、すぐに凪いだ。痛みではなかった。何かが目を覚ますときの感覚に似ていた。そこで目が覚めた。
朝の鐘はまだ鳴っていなかった。窓の外は薄い藍色をしていて、東の空の端だけがうっすらと白み始めている。いつもなら鐘が鳴るまで寝台の中にいるのに、今朝は体が先に起き上がっていた。心臓が少しだけ早く打っている。夢の余韻なのか、それとも別の何かに急かされているのか。右手の指先に、まだあの感触が残っている。昨日の夕暮れ、あの一輪に触れたときの——花の芯から脈打つように伝わってきた、あの振動。一晩経っても消えていなかった。
素足のまま石の床を踏んだ。冷たさが足の裏を刺す。けれど今朝はその冷たさが、眠気を剥がすのではなく、意識をはっきりと研ぎ澄ませるもののように感じられた。
寝台のきしむ音を立てないように、そっと毛布を畳んだ。隣のベッドではマーラが寝息を立てている。起こさないように、壁に掛けた上着だけを手に取って部屋を出た。
誰にも会わなかった。廊下も食堂も静まり返っていて、自分の足音だけが壁に反響している。裏口の木戸を押し開けると、朝露に濡れた草の匂いが顔を撫でた。空気はひんやりと湿っていて、吸い込むと肺の奥が冷たくなる。遠くで鳥が一羽だけ鳴いていた。まだ仲間を呼ぶ声ではなく、夜の終わりを確かめるような、短い声だった。
花畑は、夜明け前の青い薄闇の中に沈んでいた。
銀花は眠っているように見えた。花弁を軽く閉じて、茎をわずかに傾けて、朝露の重みにしなだれている。いつもの姿だった。昨日の光など最初からなかったかのように、静かに、ただ静かに立っている。
やはり気のせいだったのだろうか。
安堵とも落胆ともつかない気持ちで、私は花畑の縁にしゃがみ込んだ。朝露が膝を濡らす。冷たい。でも、いつもそうするように、一番手前の花に指先を伸ばした。
おはよう、と心の中で呟いた。
指先が花弁に触れた。
——瞬間、世界が白くなった。
音はなかった。衝撃もなかった。ただ、触れた指先から光が生まれた。昨日のような淡い輝きではなかった。花弁の一枚一枚が内側から燃え上がるように発光して、その光が隣の花へ、またその隣へ、波紋のように広がっていく。一輪が、五輪が、十輪が。気がつくと花畑の銀花すべてが白銀の光を放っていた。
「——え」
声にならない声が漏れた。立ち上がろうとして、足がもつれた。尻もちをついたまま、目の前の光景を見つめることしかできなかった。
光は止まらなかった。花畑から溢れ出した輝きが、足元の土を、崩れた石壁を、朝露の一粒一粒を照らし出していく。影という影が消えて、夜明け前の薄闇が真昼のように明るくなった。銀花の一本一本が光の糸になって天に向かって伸びていく——そう見えた次の瞬間、花畑の中心から一筋の光の柱が立ち昇った。
まっすぐに。音もなく。まるで大地が天に向かって腕を伸ばすように。
光の柱は朝焼けの空を貫いて、薄い雲を割り、どこまでも高く昇っていった。私は座り込んだまま、それを見上げていた。涙が出ていた。なぜ泣いているのか分からなかった。怖いのか、美しいのか、それとも何か別の感情なのか、自分でも判別がつかなかった。ただ、胸の奥で何かが震えていた。花の芯から伝わってきたあの振動と同じものが、今は私自身の内側で脈打っている。
「なに、あれ!」
声が聞こえた。孤児院の二階の窓が開いて、子どもたちが顔を出している。
「光ってる——裏庭が光ってる!」
「なんだあれ、空まで届いてるぞ!」
次々に窓が開く。悲鳴のような声、何かを呼ぶ声、泣き声。足音が廊下を走り、裏口に殺到する気配。
「リーネ——リーネがいる!」
誰かが私を指さした。花畑の中に座り込んだまま動けない私を見て、子どもたちが石壁の手前で立ち止まった。誰も近づいてこない。光に照らされた彼らの顔は、いつもの蔑みでも嘲りでもなく、ただ純粋な恐怖に染まっていた。
「やっぱり呪いだ——」
「あの花が、あの花が——」
私は口を開こうとした。違う、と言いたかった。でも何が違うのか、自分にも分からなかった。これは呪いではない、と言い切れる根拠など何もなかった。自分が何をしたのかすら理解できていないのに。
「何の騒ぎです」
院長の声が子どもたちの頭の上を越えて届いた。グレーテ先生が寝巻きの上に上着を羽織っただけの姿で裏口に立っていた。光の柱を見上げ、花畑の中の私を見て、その目がわずかに見開かれた。私が院長の顔に感情らしきものを見たのは、これが初めてだったかもしれない。
「リーネ、あなた——何をしたの」
問いかけの形をしていたけれど、答えを求めている声ではなかった。院長自身も何が起きているのか分かっていないのだと、その声の震えで分かった。
「わかりません」
それだけ答えるのがやっとだった。声が掠れていた。自分の声がひどく小さく聞こえた。
光は少しずつ弱まっていった。柱の輪郭がぼやけ、空に溶け込むように薄れていく。花畑の銀花も、一輪、また一輪と光を収めて、朝露に濡れたいつもの姿に戻っていった。東の空はもうすっかり白んでいて、朝の光が斜めに裏庭に差し込んでいた。まるで何事もなかったかのように。
でも、何事もなかったことにはならなかった。
子どもたちの目が変わっていた。昨日まで私を避け、囁き、笑っていたその目が、今はまったく違うものを宿している。恐怖。畏れ。そして——距離。今までとは質の異なる距離が、私と彼らの間に横たわっているのが分かった。昨日までの距離には、まだ同じ場所にいるという前提があった。今はそれすらない。私は彼らとは違う何かになってしまったのだと——その目が、そう言っていた。
院長は子どもたちを食堂に戻すと、私に着替えて食堂に来るようにとだけ言った。いつもの抑揚のない声だったけれど、私を見る目だけが違っていた。何かを値踏みするような。あるいは、見慣れたものの中に見慣れないものを見つけてしまったときのような、そういう目だった。
花畑にひとり残されて、私は自分の手を見た。何も変わっていない。昨日と同じ、土で汚れた小さな手だった。けれど指先にはまだあの光のぬくもりが薄く残っていて、それが嘘でなかったことだけは分かった。
「……私が、やったの?」
答える者はいなかった。銀花は朝風に揺れて、さらさらと鳴るだけだった。
——同じ頃。
街道を三日隔てた王都の、白亜の尖塔が朝霧に浮かぶ神殿の最奥。
感知の間と呼ばれる円形の小部屋で、七人の神官が石の床に膝をついていた。部屋の中央に据えられた水晶球が先ほどまで白銀の光を放っていた。百年間沈黙を保っていたはずの聖花感知器が——光ったのだ。
「……これは」
最初に声を発したのは、末席の若い神官だった。震える指で記録書の頁を繰り、やがて手が止まった。
「百年前の記述と一致します。聖花覚醒——辺境、北東方面」
沈黙が落ちた。七人の視線が水晶球に集まる。光はすでに消えていた。けれど球の内側に、かすかな銀の残光が渦を巻くように漂っている。
上座に座る主席神官セドリックが、ゆっくりと立ち上がった。整った顔にはいかなる感情も浮かんでいなかった。ただ、組んだ手の指先だけが、白くなるほど強く握り込まれていた。
「——騎士団に早馬を。辺境の孤児院を確認させなさい」
その声は静かだった。静かすぎた。それが命令であると同時に、百年の沈黙が破られたことへの——恐れなのか、あるいは別の何かなのか。若い神官たちには、まだ量りかねていた。