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銀花の聖女と灰青の騎士

第1話 第1話

第1話

第1話

誰にも名前を呼ばれない日が続くと、自分が本当にここにいるのか分からなくなる。

朝の鐘が孤児院の薄い壁を震わせて、私は目を開けた。天井の染みは昨日と同じ形をしていて、窓から差し込む光は相変わらず私の寝台だけを避けるように斜めに落ちている。隣の寝台はとうに空で、他の子たちはもう食堂に降りたのだろう。起こしてもらえなかったのは、今に始まったことではない。

寝台から降りて、冷たい石の床に素足を置く。春だというのに、この孤児院の朝はいつも底冷えがする。足の裏から這い上がってくる冷たさが、眠気の残る体を芯まで震わせた。王都から街道を三日も離れた辺境の村。名前すら地図に載っていないような場所に、この孤児院はある。私はここで育った。物心ついたときにはもうここにいて、自分がどこから来たのか、誰の子なのか、何も知らない。知っているのは、リーネという名前だけ。それすら、本当の名前なのかどうか。

食堂に降りると、長い木のテーブルに子どもたちが並んで座っていた。私の姿を認めた途端、一番手前に座っていた男の子が隣の子の袖を引いた。

「——来た」

小さな囁き。それだけで、私の周囲の席がひとつ、ふたつと空いていく。まるで水が引くように、子どもたちが距離を取る。椅子の脚が石の床を擦る音が、やけに大きく食堂に響いた。誰かが小さく舌打ちをしたのが聞こえた気がしたけれど、振り返る気にはなれなかった。

私は何も言わずに端の席に座った。配膳台に残っていたのは、冷めた麦粥とひとかけらの黒パンだけだった。

「リーネ、また遅かったのね」

院長のグレーテ先生が、帳簿から顔も上げずに言った。叱っているのではない。ただ事実を確認しているだけの声。私が遅れようが、来なかろうが、この人にとっては帳簿の数字がひとつ動くか動かないかの違いでしかないのだと、ずっと前から知っている。

「すみません」

「食べたら洗い物を手伝いなさい」

それだけだった。目が合うこともなく、会話は途切れた。冷めた麦粥を口に運ぶ。味はほとんどしない。舌の上でざらりとした穀物の感触だけが残って、喉の奥に重たく落ちていく。窓の外から風が吹き込んで、食堂の空気がわずかに揺れた。その風の中に、かすかに甘い匂いが混じっていた。

——花の匂いだ。

私は思わず窓の方を見た。裏庭の方角。あの花畑から風が来ている。それだけで、胸の奥の強張りがほんの少しだけほどけるのを感じた。

洗い物を終えて、私は裏庭に出た。

孤児院の建物の裏手、崩れかけた石壁に囲まれた小さな一角。そこが私の花畑だった。誰が耕したのでもない、誰が種を蒔いたのでもない。気がつけばそこに咲いていた銀色の花。茎は細く、花弁は薄い絹のように透き通っていて、風が吹くたびに鈴を振るような微かな音を立てる。図鑑にも載っていない花だった。院長に尋ねたことがある。「あれは何の花ですか」と。返ってきたのは、「さあ。勝手に生えたんでしょう」という素っ気ない一言だけだった。

不思議なことに、この花は私が触れると咲く。

正確に言えば、私が傍にいるとき、花は明らかに美しくなる。蕾は開き、色は深まり、茎はまっすぐに伸びる。他の子が近づいても何も起こらない。だから気味悪がられた。

「あの花に触ると呪われるんだって」

いつからか、そんな噂が子どもたちの間に広まった。最初に言い出したのが誰なのかは分からない。でも、噂はあっという間に孤児院中に染み渡って、私はますます一人になった。

否定しなかった。否定する理由もなかった。

花畑の隅にしゃがみ込んで、銀色の花弁にそっと指先を伸ばす。触れた瞬間、花がふるりと揺れて、閉じかけていた蕾がゆっくりと開いた。薄い花弁の奥から、甘くて冷たい、雪解け水のような香りが立ち上る。

「……おはよう」

声に出して言った。返事はない。けれど、花が風もないのにかすかに揺れたような気がして、私は少しだけ笑った。

ここでは誰も私を避けない。呪いだと囁かない。ただ静かに咲いて、私が来るのを待っていてくれる。少なくとも、そう思わせてくれる。

「リーネが花としゃべってるー」

石壁の向こうから、甲高い声が飛んできた。男の子が二人、壁の隙間からこちらを覗いている。

「やっぱり変だよ、あの子」

「銀の花の呪いだって。近づくと同じになるんだって」

私は顔を上げなかった。指先を花弁の上に置いたまま、聞こえないふりをした。唇を引き結ぶと、奥歯がかちりと鳴った。悔しいのではない。悲しいのとも違う。ただ、この手の痛みにはもう名前をつけられないほど慣れてしまっていて、それが一番つらいことだと、どこかで分かっていた。足音が遠ざかっていく。笑い声が小さくなって、やがて消えた。

風が吹いた。銀色の花が一斉に同じ方向に揺れて、さらさらと鳴った。まるで、大丈夫だよと言っているように。

「……うん」

私は小さく頷いて、花畑の真ん中に座り直した。空を見上げると、薄い雲が東に流れていくのが見えた。雲の向こうには王都があるらしい。行ったことはない。行きたいと思ったこともない。ここにいて、この花と一緒にいられるなら、それでいい。ずっとそう思ってきた。

それは諦めだったのかもしれない。あるいは、傷つかないための殻だったのかもしれない。でも私には、それ以外の生き方が分からなかった。

午後の陽が傾き始めると、花畑は柔らかな橙色に包まれる。この時間が一番好きだった。孤児院の子どもたちは表の庭で遊んでいて、院長は事務室にこもっている。裏庭には誰も来ない。世界に私と銀花だけが取り残されたような、静かで満ち足りた時間。

夕暮れの光が銀色の花弁を染めて、花はいつもとは違う色を見せる。銀と橙が溶け合って、名前のつけようのない色になる。その色を見るたびに、胸の奥がきゅっと締まる。きれいだと思う。きれいだと思える自分がまだいることに、少しだけ安堵する。

一輪一輪に水をやり、枯れた葉を取り除き、土の中の小石を拾い出す。花の世話をしている間だけ、頭の中が静かになる。「呪い」という言葉も、冷めた麦粥の味も、誰にも名前を呼ばれない寂しさも、全部遠くなる。

「もうすぐ日が暮れるね」

花に語りかけながら、最後の一輪に指先を触れた。

——そのとき。

指先に、これまでとは違う感触があった。

温かい、というのとも少し違う。花弁の奥から、何かが脈打つような微かな振動。驚いて手を引きかけて、けれど目が離せなかった。

私が触れた一輪の銀花が、花弁の縁からうっすらと光を帯びていた。

夕陽の反射ではない。花そのものが、内側から淡く発光している。乳白色の、月明かりを溶かしたような光。それは数秒だけ続いて、私が指を離すと、すっと消えた。

花畑はもとの夕暮れに戻った。風が吹いて、銀花がいつものように揺れている。何事もなかったかのように。

「……今の、なに?」

呟いた声は、自分でも聞き取れないほど小さかった。

心臓がどくどくと鳴っている。指先にはまだあの振動の名残が残っていて、じんじんと痺れるような感覚が手首まで這い上がってきていた。息を吸うと、空気がいつもより澄んでいるような気がした。花畑全体の匂いが一瞬だけ濃くなって、すぐにもとに戻った——ような気がした。何が起こったのか分からない。でも、あの光は確かに見た。目の錯覚ではない。あの温かさは、花弁の表面ではなく、もっと奥の——花の芯のようなところから伝わってきた。

もう一度触れてみようかと手を伸ばしかけて、やめた。怖かったのではない。あの光が本物だったのか、確かめるのが怖かったのだ。もし二度目に触れて何も起こらなかったら、たった今見たものが嘘になってしまう気がした。

夕闘の鐘が鳴った。食堂に戻らなければ、今夜の夕食すら残らない。

私は立ち上がり、花畑を振り返った。銀花は静かに揺れている。光はもうない。けれど——あの一輪だけが、他の花よりもほんのわずかに、強く輝いているように見えた。

気のせいかもしれない。

でも、石壁をくぐって孤児院に戻る足取りは、朝よりも少しだけ軽かった。

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