第2話
第2話
マリーが持ってきた書類は、期待していたよりもずっと少なかった。
「申し訳ございません、リゼリア様。お父様の書斎には管財官しか立ち入れませんので、侍女長にお願いして、閲覧の許可が出たものだけをお持ちしました」
丁寧に革紐で綴じられた冊子が三つ。領地の年次報告、公爵家の慈善事業の記録、そして社交暦。農政の実務書類は一枚もない。
『……まあ、そうよね』
十歳の令嬢が「農政の書類を」と言ったところで、核心の帳簿が出てくるはずもなかった。ゲームの知識があるとはいえ、この世界での私はまだ何の実績も持たない子供だ。信用は、これから積み上げるしかない。
けれど、手がかりがないわけではない。
年次報告を開いた。公爵家の紋章が箔押しされた表紙をめくると、領地の概況が端正な筆跡で記されている。人口、主要産業、年間の収穫高。数字の羅列を目で追いながら、ゲームの記憶と突き合わせていく。
ヴァルトシュタイン公爵領。王国北部に位置する広大な領地。肥沃な農地と深い森林を擁し、とりわけ薬草の産地として知られている――はずだった。
『おかしい』
報告書の数字が、ゲームで語られていた設定と噛み合わない。薬草の出荷量が、五年前と比べて三割近く減少している。代わりに増えているのは穀物の作付面積。誰かが意図的に、薬草畑を潰して穀物に転換しているのだ。
指先が、無意識に紙面を叩いていた。
ゲームでは「ヴァルトシュタイン領は豊かな薬草の産地」という一文で片付けられていた。けれど現実の帳簿は、その土台がすでに揺らぎ始めていることを示している。
『そして数年後、近隣領で疫病が発生したとき、薬草の備蓄が足りなくて被害が拡大する。ゲームではただの天災イベントだった。でも――原因はここにあったんだ』
穀物は毎年安定した収入をもたらす。薬草は栽培に手間がかかり、市場価格の変動も大きい。短期的な収益だけを見れば、転換は合理的な判断に見える。けれどそれは、領地の安全保障を切り売りしているのと同じだった。
紅茶が冷めていることにも気づかず、私は年次報告の行間を読み続けた。
---
午後の茶会の時間が近づいていた。
礼儀作法の稽古を終え、着替えを済ませたあと、私はマリーに案内されて東棟の応接間へ向かった。廊下には公爵家の歴代当主の肖像画が並んでいる。どの顔にも、銀灰色の髪と蒼い瞳という特徴が受け継がれていた。
父、ヴィルヘルム・ヴァルトシュタイン公爵。ゲームではリゼリアの背景として名前が出てくるだけの、影の薄い人物だった。娘の暴走を止められなかった無能な父親、という程度の印象しかない。
けれど現実の父は、王国有数の領地を治める大貴族だ。無能なはずがない。
応接間の扉が開くと、窓際の長椅子に腰掛けた父がこちらを見た。銀灰色の髪を後ろに撫でつけ、鋭い蒼い目が私を捉える。ゲームの立ち絵よりもずっと威圧感のある人だった。
「来たか、リゼリア。座りなさい」
「失礼いたします、お父様」
向かいの椅子に腰掛けると、侍従が紅茶を注いでくれた。父は黙ったまま、しばらく私の顔を観察するように見つめていた。居心地が悪い。この人は、何をどこまで見抜いているのだろう。
「お父様。一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」
「何だ」
「領地の薬草栽培についてです。年次報告を拝見したのですが、ここ数年で出荷量がかなり減っているように見受けられました。穀物への転作が進んでいるのでしょうか」
父の眉が、ほんの僅かに動いた。
「……年次報告を読んだのか。お前が」
「ヴァルトシュタインの名を継ぐ者として、領地の現状を知りたいと思いました」
沈黙が落ちた。父は紅茶のカップを持ち上げ、一口含んでから、ゆっくりと答えた。
「管財官のブルクハルトの進言でな。薬草は利幅が薄く、栽培に熟練の人手がいる。穀物のほうが安定した収入になる、と。間違ってはおらん」
「短期的にはそうかもしれません」
言葉が、自然と口をついて出た。
「けれど薬草は、疫病や飢饉のときに領民の命を守る備えでもあります。備蓄が減れば、いざというとき他領から高値で買い付けねばならない。結果として、穀物で得た利益以上の損失を被る可能性があるのでは」
父の目が細くなった。驚きではない。品定めをするような、値踏みをするような目だった。
「ブルクハルトと同じ議論をしたことがある。あれは『疫病など十年に一度だ』と退けたがな」
『十年に一度どころか、あと数年で確実に来る。ゲームのシナリオでは』
もちろん、そんなことは言えない。代わりに、前世の知識を別の形で差し出す。
「お父様。薬草の栽培効率を上げる方法があるとしたら、転作の必要はなくなるのではありませんか」
「効率を上げる、とは」
「たとえば、土壌の配合を見直すこと。薬草にも種類によって好む土質が異なります。酸性の強い土壌を好むものと、石灰質を好むものを同じ畑で育てれば、当然どちらかの収量は落ちる。区画ごとに土壌を最適化すれば、同じ面積でも収量は上がるはずです」
これは前世の聖女エリーゼの知識だった。治癒術のために薬草を扱い続けた経験が、栽培の基礎を教えてくれていた。もちろん、この世界の農学とすべてが一致するわけではない。けれど原理は同じはずだ。
父が、カップをソーサーに戻した。磁器が触れ合う小さな音が、静かな応接間に響く。
「リゼリア。その知識を、どこで得た」
心臓が跳ねた。
『しまった。踏み込みすぎた』
十歳の令嬢が知っていい内容ではなかった。慎重に言葉を選ぶ。
「……図書室の本で読みました。植物図鑑の中に、土壌と薬効の関係について記した古い文献がございましたので」
嘘ではない。おそらくこの屋敷の図書室には、そういった文献が実際にあるだろう。あとで確認しておかなければ。
父はしばらく黙っていた。紅茶の湯気が、二人の間でゆるやかに揺れている。
「面白い」
ようやく口を開いた父の声には、先ほどまでの硬さが少しだけ和らいでいた。
「だが、知識と実務は別だ。机の上の理屈が畑で通用するとは限らん。まずは報告書をもう少し丁寧に読み込むがいい。管財官への閲覧許可は、私から出しておこう」
書斎の扉を、正面から開ける鍵が手に入った。
「ありがとうございます、お父様」
深く頭を下げながら、胸の内で小さく拳を握った。これで、領地の実務データに直接触れられる。薬草栽培の現状を正確に把握し、改良計画の土台を作れる。
一歩だ。小さな、けれど確かな一歩。
---
茶会を終えて廊下に出ると、西日が肖像画の金縁を赤く照らしていた。長い影を踏みながら自室へ戻る道すがら、頭の中ではすでに次の手順が組み上がり始めている。
管財官ブルクハルトの帳簿を閲覧する。薬草の品種ごとの収量推移を調べる。転作が始まった時期と、その判断の根拠を精査する。そのうえで、土壌改良による増収計画を数字で示す。
感情ではなく、事実で語る。前世の聖女にはできなかったことを、公爵令嬢の権限と知識を使って、一つずつ形にしていく。
自室の前まで来たとき、ふと足を止めた。
扉の隙間から、灯りが漏れている。マリーが夕食の支度をしているのだろう。この屋敷で、この時間に私の部屋にいるのは彼女しかいない。
――前世でも、最後まで傍にいてくれた子。
あの断罪の場で泣いていたマリーの顔が脳裏をよぎり、胸の奥が軋んだ。今度こそ、あの子にあんな思いはさせない。そのためにも、負けるわけにはいかないのだ。
扉に手をかけたとき、背後から声がした。
「リゼリア」
振り返ると、廊下の奥に父が立っていた。茶会のときとは違う、もっと私的な――父親の顔をしていた。西日が逆光になって、表情の細部までは読み取れない。
「最近、目つきが変わったな」
低い声が、静かに廊下に落ちた。
心臓が一拍、強く打つ。
「……変わりましたでしょうか」
「ああ。まるで――」
父は言葉を途中で飲み込んだ。何かを言いかけて、首を横に振る。
「いや。よい変化だ。勉学に励みなさい」
踵を返した父の背中を見送りながら、私は息を詰めていたことに気づいた。
『まるで――何?』
その先の言葉が気にかかる。けれど今は、追いかけて問い質すときではない。
父は何かに気づき始めている。十歳の娘の中に、十歳ではありえない何かを。この違和感が疑念に変わる前に、成果という形で信頼を示さなければならない。
自室の扉を開けると、マリーが夕食の準備を整えて待っていた。
「おかえりなさいませ、リゼリア様。お茶会はいかがでしたか」
「とても実りのあるものだったわ、マリー。それと――明日から、管財官のところへ通うことになりそうよ」
マリーがまた目を丸くしている。慣れてもらうしかない。この先、もっと驚かせることになるのだから。
窓の外に目を向ける。夕焼けが領地の森を茜色に染めていた。あの森の向こうに、薬草畑が広がっているはずだ。まだ見ぬその景色を、明日からの私は数字と記録を通して知ることになる。
五年という猶予。短くはない。けれど、やるべきことの途方もなさを思えば、一日たりとも無駄にはできなかった。