第1話
第1話
――熱い。
全身を舐める炎の舌が、肌を、髪を、骨の髄までを焼き尽くしていく。叫びたいのに喉はとうに潰れていて、声にならない悲鳴だけが頭蓋の内側で反響する。
『エリーゼ。聖女エリーゼ。あなたの罪は――』
あの声が聞こえる。処刑台の上から群衆を見下ろしたとき、最前列で微笑んでいた女の声。私が王国のために祈り、癒し、命を削って守った民の前で、あの女は清らかな涙を流してみせた。
『哀れな偽聖女に、神のお慈悲がありますように』
嘘つき。
私を陥れたのはお前だ。私の祈りを奪い、私の名誉を穢し、私を炎に――
「――っ!」
目が覚めた。
息が荒い。額に張りつく髪が汗で濡れている。心臓が肋骨を叩く音が、静寂の中でやけに大きく響いた。
天蓋つきの寝台。繊細なレース飾りの帳が、朝の光を柔らかく透かしている。シーツは上質な絹で、指先が触れるたびにひんやりと滑る感触が、夢の中の灼熱とはあまりにもかけ離れていた。
ここは、どこ。
身体を起こそうとして、違和感に気づく。手が小さい。腕が細い。身体全体が、記憶よりもずっと幼い。
寝台の脇に置かれた姿見に、恐る恐る目を向けた。
銀灰色の髪。冬の湖を閉じ込めたような蒼い瞳。整った顔立ちには、年相応の幼さと、どこか冷ややかな気品が同居している。
知っている。この顔を、私は知っている。
記憶が――洪水のように押し寄せた。
前世でもなく、処刑台の上の記憶でもない。もっと別の、奇妙な知識。画面の向こう側から眺めていた物語。『聖剣のフィアンセ』。前世の私が暇潰しに遊んでいた乙女ゲームの、最も嫌われた登場人物。
公爵令嬢リゼリア・ヴァルトシュタイン。
聖女ヒロインを虐げ、嫉妬に狂い、最終章で王太子に断罪されてすべてを剥奪される――哀れな悪役令嬢。
『……嘘でしょう』
鏡の中の少女が、私と同じ顔で唇を震わせた。
二つの記憶が脳裏でぶつかり合う。聖女エリーゼとして生き、裏切られ、焼かれた記憶。そして画面越しに知っていた、この物語の結末。悪役令嬢リゼリアは聖女を虐待した罪で、婚約破棄、爵位剥奪、社交界追放。待ち受けるのは、形を変えた二度目の破滅だ。
――いいえ。
拳を握る。小さな手に、爪が食い込むのがわかった。
同じ結末など、二度と迎えてたまるものですか。
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寝台から降りると、足の裏に冷たい大理石の感触が伝わった。窓の外には、広大な庭園が朝霧に煙っている。手入れの行き届いた薔薇の垣根、遠くに見える馬場、そしてヴァルトシュタイン公爵家の紋章が刻まれた鉄柵。
ゲームの中では背景の一枚絵でしかなかった場所が、質量を持って目の前に存在していた。薔薇の青い香りが風に乗って鼻先をくすぐる。これは画面越しの物語ではない。私の、現実だ。
記憶を整理する。リゼリアの現在の年齢はおそらく十歳前後。社交界デビューまでにはまだ数年の猶予がある。ゲームの本編が動き出すのは、ヒロイン――ルナリアが王都の学院に入学してからだ。
ルナリア。
その名前を心の中で転がした途端、炎の記憶が蘇りかけて、奥歯を噛んで堪えた。
前世の聖女エリーゼを処刑台に送った女。そしてこの世界では、清楚で健気なヒロインとして王国中の寵愛を集める存在。ゲームを遊んでいたときは何の疑問も抱かなかった。けれど今、二つの人生の記憶を重ね合わせれば、真実は残酷なほど明瞭だった。
あの柔らかな微笑みの裏に、何が潜んでいるか。誰よりもよく知っている。
『告発してやりたい。今すぐ、あの女の仮面を剥がして――』
感情が喉元までせり上がる。けれど、前世の私はまさにそうして負けたのだ。正しさを叫び、真実を訴え、それでも誰にも信じてもらえなかった。感情は武器にならない。少なくとも、この世界では。
深く息を吸い、吐いた。
冷静に考えろ、リゼリア。お前が今持っている手札は何だ。
一つ、ヴァルトシュタイン公爵家の令嬢という身分。政治力、財力、社交界における発言力。ゲームでは悪役のための舞台装置にすぎなかったこの家の力は、正しく使えば盾にも剣にもなる。
二つ、ゲームの知識。この先何が起こるか、誰が何を企むか、物語の筋書きを知っている。
三つ――前世の記憶。聖女エリーゼが持っていた治癒と薬草の知識。王国を救うほどの力はもうないけれど、この世界の技術水準から見れば、十分に価値のある専門知識だ。
感情ではなく、事実を積み上げる。実績という、誰にも否定できない武器を。
前世の私にはそれができなかった。清く正しいだけの聖女には、政治の泥を掻き分ける術がなかったから。
けれど今の私は、公爵令嬢だ。
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控えめな扉の音がして、振り返ると、侍女が一人、盆を手に部屋へ入ってきた。栗色の髪をきちんと結い上げた、リゼリアと同じ年頃の少女。
「おはようございます、リゼリア様。お加減はいかがですか。随分とうなされていらっしゃいましたけれど」
心配そうに覗き込んでくるその顔に、ゲームの記憶が重なる。マリー。リゼリアに最後まで仕えた唯一の侍女。断罪の場面でさえ、泣きながらリゼリアの傍にいた少女だ。
喉の奥が、不意に詰まった。
「……大丈夫よ、マリー。少し、夢見が悪かっただけ」
自分の声が予想以上に幼くて、少しだけ可笑しかった。けれどマリーは安堵したように微笑んで、盆をサイドテーブルに置いた。
「よかった。本日は午前中に礼儀作法のお稽古、午後はお父様との茶会のご予定でございます」
礼儀作法。茶会。公爵令嬢の日常を構成する、退屈だけれど欠かせない歯車たち。ゲームでは「悪役令嬢が傲慢に振る舞う場面」としてしか描かれなかった時間。
けれど今の私にとっては、意味が違う。
社交界デビューまでの数年間。この時間をどう使うかで、すべてが変わる。
礼儀作法の稽古は、社交界という戦場で生き残るための鎧。父との茶会は、公爵家の情報を得るための窓口。どちらも、ゲームのリゼリアが無為に浪費した貴重な猶予だ。
「マリー」
「はい、リゼリア様」
「お稽古の前に、お父様の書斎から領地の農政に関する書類をいくつかお借りしたいの。取り次いでいただけるかしら」
マリーが目を丸くした。無理もない。十歳の令嬢が農政の書類を所望するなど、普通はありえないことだ。
「あの……農政、でございますか?」
「ええ。ヴァルトシュタインの名を背負う以上、領地のことを知らないでは済まされないもの」
我ながら、十歳の口から出る台詞ではなかった。けれどマリーは戸惑いながらも「かしこまりました」と頷いてくれた。
侍女が去った部屋で、もう一度鏡を見る。
銀灰色の髪の少女が、静かな決意を湛えた目でこちらを見つめていた。
『今度こそ、私は負けない。感情ではなく、事実で。実績で。この世界の運命を、自分の手で書き換えてみせる』
処刑の炎に焼かれた聖女は、もういない。
ここにいるのは、公爵令嬢リゼリア・ヴァルトシュタイン。
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窓の外で、朝霧が晴れ始めていた。庭園の薔薇が陽光を受けて色づく。美しい朝だった。けれど頭の片隅では、もう一つの記憶が棘のように引っかかっている。
ゲームのヒロイン、ルナリア。聖女の称号を与えられ、王太子アルヴィンの心を奪い、そしてリゼリアを断罪する少女。
彼女が王都に現れるまで、あと何年。
指折り数える。社交界デビューが十五歳。学院入学が十六歳。ルナリアが学院に編入してくるのが――
五年と少し。
短いようで、長い猶予。この時間の中に、領地改革を形にし、社交界での足場を築き、ルナリアの「善意」を崩す証拠を用意する。そのすべてを収めなければならない。
盆の上の紅茶に手を伸ばした。まだ湯気が立っている。一口含むと、花のような香りが口の中に広がった。この世界の紅茶は、驚くほど美味しい。
――前世では、最期に水の一杯すらもらえなかったのに。
その対比が、ひどく胸に沁みた。
カップを戻し、背筋を伸ばす。
さあ、始めましょう。まずは、この家のことを知ることから。
礼儀作法の稽古も、父との茶会も、すべてが布石になる。前世の聖女エリーゼには持てなかった武器を、一つずつ、この手に。
扉の向こうから、マリーの足音が近づいてくる。おそらく、農政の書類を手に。
小さな一歩。けれど確かな、運命への反逆の始まりだった。