第3話
第3話
管財官ブルクハルトの執務室は、東棟の奥まった場所にあった。
父の許可状を手に訪ねた初日、白髪交じりの管財官は私の顔を見て露骨に眉をひそめた。「公爵閣下のご指示とあらば」と渋々帳簿を出してくれたものの、その目は明らかに「いつまで続くやら」と言っていた。
あれから十日が経つ。
私は毎朝、礼儀作法の稽古が終わると管財官の執務室に通い、午後の茶会の時間まで帳簿と格闘する日々を送っていた。ブルクハルトはもう何も言わない。ただ、私が数字を追う横顔を時折ちらりと窺うだけだ。
帳簿の情報量は、年次報告の比ではなかった。
品種ごとの収量推移、農地の区画図、季節ごとの人件費、薬商への卸価格の変動。数字の海に溺れそうになりながら、一つひとつを手元の紙に書き写していく。ゲームの知識と前世の記憶を頼りに、現状の非効率がどこに潜んでいるかを洗い出すために。
そして見えてきたのは、思った以上に根の深い問題だった。
『薬草の品種が、そもそも偏りすぎている』
ヴァルトシュタイン領で栽培されている薬草は、大半が解熱草と鎮痛蘭の二種に集中していた。どちらも需要は安定しているが、収益性が低い。かつて高値で取引されていた止血苔や浄化蓮は、「栽培が難しい」という理由で十年ほど前に作付けを放棄されている。
けれど前世の記憶が告げている。止血苔の栽培が難しいのは、この地域の土壌が酸性に傾きすぎているからだ。石灰を適量混ぜるだけで発芽率は劇的に改善する。聖女エリーゼは、戦場の負傷者を癒すために自分の手でそれを育てていた。
帳簿を閉じ、窓の外に目を遣った。午前の日差しが、遠くの森の輪郭を鮮やかに浮き上がらせている。
あの森の手前に薬草畑がある。まだ自分の目で見ていない場所。数字だけでは掴めないものが、そこにはあるはずだった。
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日中は、ゲームの「悪役令嬢リゼリア」を演じた。
礼儀作法の稽古では完璧な所作を身につけながら、他家の令嬢との茶会では適度に高慢な態度を保つ。令嬢たちが流行りの刺繍の図案や、誰それの婚約話に花を咲かせている輪の中で、私は品のよい冷笑を浮かべて聞き役に徹する。
これは計算だった。
ゲームの筋書きでは、リゼリアは幼少期から傲慢で嫌われ者だったことになっている。もし突然「優しい公爵令嬢」に変貌すれば、周囲の違和感を招く。父はすでに何かに気づきかけている。これ以上、不自然な変化を見せるわけにはいかなかった。
だから表の顔は、ゲーム通りの冷ややかな令嬢。裏では領地の未来を設計する改革者。この二重生活を、社交界デビューまでの五年間で一つの成果に結実させる。
問題は、時間だった。
日中の稽古と社交、管財官のもとでの帳簿閲覧。それだけでは足りない。改革案を文書にまとめるには、夜の時間を使うしかなかった。
自室の書机に向かい、蝋燭の灯りの下で羽根ペンを走らせる。管財官の帳簿から書き写した数字を元に、薬草改良計画の骨子を組み立てていく。
第一に、土壌調査の実施。領地の薬草畑を区画ごとに調べ、酸性度と含有鉱物を把握する。
第二に、品種の再編。高収益だが栽培を放棄された薬草を、土壌改良とセットで復活させる。
第三に、備蓄制度の整備。平時から一定量の薬草を領内に蓄え、疫病や有事に備える。
第四に――ここで、ペンが止まった。
薬草の品質改良。収量を上げるだけでなく、薬効そのものを高める栽培法。これが計画の要になるはずだった。けれど、この世界の農学だけでは限界がある。
前世の記憶を探る。聖女エリーゼは、薬草をただ育てていたわけではなかった。治癒術を行使するとき、祈りとともに植物に魔力を注ぎ、薬効を高める技術を持っていた。
もちろん、今のリゼリアに聖女の治癒術は使えない。魔力の質が違う。けれど――
『待って。あのときの手順を、もう一度思い出して』
目を閉じた。炎の記憶の手前にある、もっと穏やかな記憶を手繰り寄せる。戦場の野営地で、傷ついた兵士たちのために薬草を煎じていた日々。薬効を引き出すために、摘み取る時刻を変え、乾燥の温度を調整し、調合の比率を一厘単位で追い詰めていった工程。
あれは、魔力だけの技術ではなかった。
聖女の治癒術の根幹にあったのは、植物の性質への深い理解だった。どの葉脈に薬効が集中するか、どの成長段階で有効成分が最大になるか、どの環境条件が品質を左右するか。魔力はそれを増幅する手段にすぎず、本当の技術は観察と知識の蓄積にあった。
ペンを取り直す。
前世では祈りで補っていた部分を、この世界の農学と組み合わせて再現する。摘み取りの最適時期、乾燥工程の温度管理、品種ごとの土壌条件。聖女の経験則を、公爵令嬢の言葉で文書化する。
羽根ペンが紙の上を滑る速度が上がった。書きたいことが、次から次へと溢れてくる。
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「リゼリア様」
控えめな声に、はっと顔を上げた。
書机の蝋燭はすでに半分以下に減り、窓の外は完全な闇だった。いつの間に、これほど時間が経っていたのか。
マリーが扉の隙間から顔を覗かせていた。手に小さな燭台を持ち、心配そうな目をしている。
「もう夜更けでございます。お身体に障りますわ」
「……あら、もうそんな時間。ごめんなさい、マリー。起こしてしまったかしら」
「いいえ。ただ、お部屋の灯りがまだ見えましたので」
マリーの視線が、書机の上に広がった紙束に落ちた。数字と図表と、びっしりと書き込まれた文章。十歳の令嬢の手遊びには、明らかに見えない代物だった。
「リゼリア様、毎晩こうしていらっしゃるのですか」
その問いに、一瞬だけ迷った。隠すべきか、明かすべきか。
けれどマリーの目を見て、迷いは消えた。この子は最後まで私の傍にいてくれた子だ。ゲームの世界でも、断罪の日でさえも。
「ええ。領地の薬草栽培を改良する計画を立てているの」
「薬草の……?」
「ヴァルトシュタインの薬草畑が痩せてきていることは、帳簿を見ればわかるわ。このまま放置すれば、いずれ領民が困る日が来る。その前に手を打ちたいの」
マリーは少しの間、黙って私を見つめていた。それから、ふっと息を吐くように微笑んだ。
「リゼリア様は、変わられましたね」
「そうかしら」
「前は――あの、失礼を承知で申しますが、前は、お稽古がお嫌いで、よく窓の外ばかり眺めていらっしゃいました。でも今は、まるで別の方のように。お目にかかるたび、ずっと何かを考えていらっしゃる」
父と同じことを言う。胸の奥がちくりと痛んだ。
「マリー。私は、ヴァルトシュタインの名に恥じない人間になりたいの。そのために必要なことを、しているだけよ」
嘘ではなかった。ただ、すべてでもない。
マリーは深く頷いて、「お茶をお淹れし直しますね」と部屋を出ていった。
一人になった書机の上で、提案書の草稿がほのかな蝋燭の灯りに照らされている。まだ荒削りで、数字の裏付けも不十分だ。けれど骨格はできた。
あとは肉をつけ、血を通わせるだけ。
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マリーが温かい茶を持って戻ってきたあと、私は一杯だけ口をつけてから再びペンを取った。マリーは何も言わず、暖炉の傍で静かに繕い物を始めた。追い出すこともせず、口を挟むこともせず、ただ傍にいてくれる。前世の断罪の日と、同じように。
草稿の最終節に取りかかる。薬草の品質改良――計画の核心であり、最も説明が難しい部分。
前世の知識をどこまで盛り込むか。あまりに詳細すぎれば、情報の出所を問われる。かといって曖昧にすれば、提案の説得力が損なわれる。
ペンの先を紙面に落とし、一行書いては消し、書いては直す。聖女の記憶を公爵令嬢の言葉に翻訳する作業は、想像以上に骨が折れた。
けれど不意に、ある記憶が鮮烈に蘇った。
戦場ではない。もっと前。聖女として王宮に召し上げられる前の、辺境の小さな村での記憶だ。枯れかけた薬草畑を前に、村の老婆が教えてくれた言葉。
『根を見なさい、エリーゼ。花や葉がどんなに立派でも、根が弱ければ薬にはならない。根が土を掴む力を育てるのが、本当の栽培というものよ』
根を見る。土を掴む力を育てる。
それは薬草だけの話ではなかった。
私がやろうとしていることも同じだ。華やかな社交界で目に見える成果を上げることではなく、誰の目にも触れない土の下で、根を張ること。帳簿を読み、知識を蓄え、計画を練る。この地味な作業の一つひとつが、やがて領地という大地に根を下ろす。
ペンが止まっていた手を、再び動かした。今度は迷いなく。
前世の薬草知識を、「古い文献に基づく仮説」という体裁で書き下ろす。土壌の酸性度による品種選定、摘み取り時期と薬効の相関、乾燥温度の段階管理。聖女エリーゼが身体で覚えた技術を、数字と論理の衣に包んで紙面に固定していく。
最後の一文を書き終えたとき、窓の外がうっすらと白んでいた。
『この知識、使える』
確信が、静かに胸の底に降りてきた。前世の聖女の記憶は呪いではない。この手で運命を書き換えるための、もう一つの武器だ。
暖炉の傍で、いつの間にかマリーが舟を漕いでいた。繕い物の針が膝の上に落ちかけている。
小さく笑って、自分の肩掛けをそっとかけてやった。
夜明けの光が、書机の上の草稿を淡く照らしている。薬草改良計画。まだ提案書と呼ぶには遠い、荒削りな設計図。けれどこの中には、二つの人生分の知識が詰まっている。
あとは、これを現実の畑で証明するだけだ。