Novelis
← 目次

剣聖の記憶、落ちこぼれに宿る

第2話 第2話

第2話

第2話

朝の鐘が鳴った。

レンは寝台の上で目を開けた。眠れたのかどうかも定かではない。窓から差し込む薄い朝日が、壁に立てかけた木剣の罅を白く浮かび上がらせていた。あと半日もすれば、あの罅は意味をなさなくなるかもしれない。木剣で魔獣に挑むこと自体が、そもそも意味をなさないのだから。

身体を起こす。肩から腕にかけて昨夜の素振りの疲労が鉛のように残っていた。指を開くと、剥けた皮の下に薄赤い肉が覗いている。握れば痛む。だが痛みがあるうちは、まだ自分の身体だと信じられた。

寮の廊下は既に騒がしかった。実技試験の朝特有の高揚が、壁越しにも伝わってくる。上位クラスの生徒たちは腕試しの機会に目を輝かせ、中位の者たちは緊張しながらも互いを鼓舞し合っている。レンは誰とも目を合わせず、灰色の制服に袖を通した。

第二訓練場は学院の敷地でも最も広い。普段は上位クラスの大規模演習に使われる石造りの闘技場で、すり鉢状に掘り下げられた地面の周囲を高い石壁が囲んでいた。壁の上には観覧席があり、試験官の教官たちと上級生の一部が既に腰を下ろしている。空は晴れていたが、風が冷たかった。大陸北部の春は、まだ冬の牙を完全には引き抜いていない。

闘技場の中央に、鉄の檻が三つ並んでいた。中の魔獣は黒い布で覆われて見えないが、檻が時折がたりと揺れるたびに、周囲の生徒たちの顔がこわばった。低い唸り声が石壁に反響し、腹の底に響く。

「制御紋は三重に刻んである。暴走の心配はない」

主任教官のハルゲンが、太い声で受験者たちに告げた。白髪交じりの壮年の男で、右頬に古い傷跡がある。元は王国軍の中隊長だったと聞く。

「一人ずつ檻の前に立ち、魔獣の突進を受け止めるか、躱すか、反撃するかを見る。合格基準は生存行動が取れるかどうかだ。殺す必要はない。では、番号順に——」

名前が呼ばれていく。上位クラスの生徒が次々と檻の前に立ち、それぞれの方法で魔獣をいなしていった。剣で弾く者、魔術の障壁で押し返す者、身のこなしだけで躱す者。カイル・ヴェルムンドは火属性の魔術を正面からぶつけ、魔獣を檻の奥まで吹き飛ばした。観覧席から拍手が起きる。

レンの番号が近づいてくる。掌が汗ばみ、握った木剣がずるりと滑った。握り直す。罅が指の腹に食い込み、鈍い痛みが走った。

「——百十二番、レン」

名前を呼ばれ、闘技場の中央へ歩み出る。足音が妙に大きく聞こえた。観覧席のどこかで失笑が漏れた。適性値最低の平民が、木剣一本で魔獣の前に立つ。笑わない方が難しいだろう。

檻の扉が開く。飛び出してきたのは、灰色の毛並みの狼型魔獣だった。肩までの高さがレンの胸に届く。制御紋の青い光が額に刻まれ、攻撃力は抑えられているはずだ。はずだが、獣の眼はまっすぐにレンを捉え、明確な殺気を放っていた。制御されているのは力であって、意志ではない。

魔獣が地を蹴った。

速い。レンの目には灰色の塊が膨れ上がるようにしか映らなかった。木剣を構える暇もなく、咄嗟に横へ跳ぶ。爪が制服の袖を裂いた。転がりながら立ち上がり、木剣を正眼に構え直す。心臓が喉元まで跳ね上がっていた。

次の突進。今度は横ではなく上から——跳躍だ。レンは木剣を斜めに掲げて受けようとした。衝撃が腕を痺れさせ、膝が石畳に叩きつけられる。堪える。堪えきれず、押し倒された。背中に石畳の冷たさ。視界の上に、牙が迫る。

その瞬間、魔獣の額の制御紋が——明滅した。

青い光が赤に変わり、また青に戻り、再び赤く染まった。魔獣の身体が一瞬硬直し、直後、喉の奥から地鳴りのような咆哮が上がった。制御紋が砕けるように消えた。

「制御紋が——」

教官席から誰かが叫んだ。魔獣の体躯が一回り膨れ上がったように見えた。本来の力が解放されたのだ。訓練用の手加減はもうない。剥き出しの獣がそこにいた。

レンの身体は、反応する前に吹き飛んでいた。

後ろ足で蹴り上げられたのだと、後から理解した。身体が宙を舞い、闘技場の石壁に背中から叩きつけられた。肺の中の空気が一瞬で絞り出され、視界が白く弾ける。石壁を滑り落ち、地面に崩れる。口の中に鉄の味が広がった。

遠くで悲鳴が聞こえる。教官たちが動いている。だがそれらの音が急速に遠ざかっていく。意識が暗い水底に沈むように薄れていく。レンは石畳に頬をつけたまま、指一本動かせなかった。視界の端で、暴走した魔獣が檻を蹴り壊す音がした。他の檻の魔獣も呼応するように吠えている。

——ああ、終わったか。

意識が途切れる直前、不思議な静けさが訪れた。痛みも恐怖も、綿のように遠い。ただ暗闇だけが、深く、深く——

そして、奔流が来た。

暗闇の中に、閃光が走った。一つではない。無数の光の糸が網のように広がり、それぞれが映像を孕んでいた。

荒野に立つ男の背中。知っている。昨夜の夢で見た。だが今度は夢の曖昧さがない。男が振り返る。精悍な顔、深い皺、灰色の瞳。手にした剣が異様な光を放っている。この男を——知っている。名前は——

光の糸が弾け、次の場面が流れ込んだ。

少年が剣を振るっている。雪山の中腹、凍てつく風の中で、一振り、また一振り。師と呼ぶ老人が傍らに立ち、何かを告げている。言葉が聞こえた。「型を捨てろ。理を掴め」。少年の目が変わる。剣筋が変わる。

場面が切り替わる。青年になった男が、戦場に立っていた。屍の転がる平野で、百の敵を前にして、一歩も退かない。剣が弧を描くたびに三人が倒れた。やがて誰も近づかなくなった。「剣聖」——そう呼ぶ声が、遠くから聞こえた。

さらに流れる。壮年の男が、仲間と酒を酌み交わしている。笑っている。初めて見る笑顔だ。だがその仲間たちは一人、また一人と欠けていく。背中を預けた戦友が目の前で倒れる。腕の中で息絶える。男の顔から笑みが消え、二度と戻らなかった。

そして——紋様。

石の壁に刻まれた、見たこともない幾何学の文様が現れた。男はその前に立ち、剣を構えていた。表情は険しく、しかし迷いはない。何かを封じようとしている。何かを——止めようとしている。紋様が脈打つように光り、男の身体を光が包み——

映像が途切れた。

一瞬ではなかった。数十年分の人生が、数秒の間に全て流れ込んできた。剣の握り方、足の運び方、魔力の通し方、呼吸の間合い、戦場での判断、百を超える型の理論、そしてそのすべてを貫く一本の理。それらが言葉ではなく、身体の記憶として刻み込まれていく。脳が灼けるように熱かった。

——この男は俺だ。

確信があった。理屈ではない。骨の髄まで沁みた実感だった。この男の人生は自分の人生だ。この男が振るった剣は、自分の剣だ。

「——ん……」

白い天井が見えた。

鼻腔を刺す薬草の匂い。柔らかい寝台。窓から差し込む午後の光。ここが医務室であることを、レンは数秒かけて理解した。右手には包帯が巻かれ、胸を押さえると鈍い痛みが返ってきた。肋骨にひびが入っているのかもしれない。

身体を起こす。頭の中はまだ嵐の後のように騒がしかった。膨大な記憶の断片がぐるぐると渦を巻き、自分がどこまでレンでどこからあの男なのか、境界が曖昧になっている。

右手を持ち上げ、開いた。指の皮が剥けた、華奢な手。剣聖の——あの男の、節くれだった大きな手とは何もかもが違う。だがこの手で剣を握ったとき、どこに力を入れ、どこを抜くべきか。それが今ははっきりと「わかる」。

左手も持ち上げた。両の手のひらを見つめた。震えていた。恐怖ではなく、名前のない感情が胸の底から湧き上がっていた。

あの男は——剣聖と呼ばれた男は、何十年もかけて剣の理を究めた。才能ではなかった。血の滲む鍛錬と、仲間の死と、数えきれない敗北の果てに辿り着いた境地だった。その全てが、今この身体の中にある。

だが同時にわかる。記憶はある。理論はある。しかしこの身体は何も変わっていない。適性値二十三の腕と、十九の魔力。剣聖の技を知っていても、それを振るう器がない。

——それでも。

レンは自分の手を見つめたまま、声にした。掠れた、小さな声だった。

「知っている」

何が間違っていたのか。何が足りなかったのか。どこから始めればいいのか。初めて、地図が見えた。暗闇の中を手探りで歩いていた道に、かすかな、しかし確かな灯りが灯った。

医務室の窓の外で、騒ぎはまだ続いているようだった。暴走した魔獣の処理に教官たちが追われているのだろう。遠くから怒号と魔術の炸裂音が微かに届く。

レンは寝台に横たわり、天井を見上げた。あの男の——自分の前世の最後の記憶が、瞼の裏にちらついていた。石壁に刻まれた紋様。あの前で剣を構えた理由。それだけがまだ、霧の中に沈んで見えない。

だが今は、それよりも先にやるべきことがある。

包帯の巻かれた右手を握り、開く。握り、開く。その単純な動作の中に、昨日までは感じ取れなかった無数の情報が流れ込んでくる。筋肉の繊維の走り方、関節の可動域、魔力が通る経路の太さと詰まり。全てが手に取るように——いや、身体の内側から読み取るようにわかった。

足りないものは山ほどある。だが初めて、道が見えている。

レンは目を閉じた。明日から始める。この身体を、地図の通りに作り直す。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ

第2話 - 剣聖の記憶、落ちこぼれに宿る | Novelis