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剣聖の記憶、落ちこぼれに宿る

第1話 第1話

第1話

第1話

木剣が夜気を裂く音だけが、訓練場に響いていた。

振り下ろす。戻す。踏み込む。また振り下ろす。何百回繰り返したか分からない単調な動作を、少年は黙々と続けていた。握りの部分はとうに罅が入り、次の一振りで折れてもおかしくない。木の繊維が裂ける微かな音が、振るたびに掌を通じて伝わってくる。それでもレンの手は止まらなかった。止めてしまえば、この場所にいる理由すらなくなる気がしたからだ。

ガレリア魔法学院の第四訓練場。正規の訓練時間はとうに終わり、灯火の魔石も消えている。頭上に広がるのは早春の星空だけで、足元の石畳は夜露に濡れて冷たく光っていた。吐く息が白く立ち昇り、星の光に一瞬だけ浮かび上がって消える。遠くの本館からは上位クラスの生徒たちの談笑が微かに聞こえる。ガラス越しに漏れる暖かな光が、夜の庭を琥珀色に染めていた。あちら側の世界は暖炉の火と琥珀色の照明に満ちているのだろう。レンには関係のない場所だった。

素振りの合間に、自分の息が白く曇るのが見えた。春とはいえ、大陸北部の夜はまだ冬の名残を引きずっている。風が吹くたびに訓練場の隅に積もった枯葉が乾いた音を立て、それが妙に寂しく耳に残った。指先の感覚はとうに失せていたが、構わなかった。冷えた身体に意識を向ける余裕など、最初からない。

レンは木剣を正眼に構え直し、もう一度振った。乾いた風切り音。それだけだ。魔力を纏わせることもできず、ただの棒切れを振るだけの所作。学院の誰が見ても笑うだろう。実際、何度も笑われてきた。廊下ですれ違うとき、食堂で席につくとき、訓練の組み分けで名前が呼ばれるとき——視線の温度が、いつも周囲とは違った。

——適性値、剣術二十三。魔術十九。

入学時の測定で叩き出したその数値は、同期の平均の半分にも満たなかった。学院の歴史を紐解いても、両方の適性値がここまで低い生徒は珍しいらしい。教官は言葉を選んでいたが、その目は雄弁だった。なぜここにいるのか、と。

答えは単純だ。ここを出たら、行く場所がない。

祖母が生きていた頃は違った。大陸東端の寒村に小さな家があり、畑があり、祖母の煎じる薬草茶の匂いがあった。冬になると囲炉裏に薪をくべて、二人で黙って火を見つめた。言葉が少なくても寂しくはなかった。あの家にいるだけで、世界は十分だった。魔法の才がなくとも、剣の腕が立たなくとも、あの家に帰れば温かい食事と「おかえり」の声があった。

昨年の冬、祖母は逝った。

長く患っていたから覚悟はあったはずだ。秋口から咳がひどくなり、冬の入りには寝台から起き上がれなくなった。レンは学院を休んで看病したが、薬師を呼ぶ金もなく、自分にできることは薬草茶を淹れて枕元に座ることだけだった。けれど最期の朝、祖母が「お前は優しい子だよ」と微笑んだとき、レンは何も言えなかった。しわだらけの手が頬に触れた。その手は驚くほど冷たく、けれど指先だけがわずかに温かかった。優しいだけでは何も守れない。優しいだけでは、この世界のどこにも居場所を作れない。それを痛いほど知っていたから。

葬儀を終え、家を畳み、学院に戻った。他に行く場所がなかった。奨学枠で学費は免除されているが、それは成績ではなく「平民からの入学者を一定数確保する」という学院の方針に過ぎない。体のいい数合わせだ。貴族の子弟たちはそのことをよく知っていて、だからレンを蔑む。

「おい、そこの落ちこぼれ。まだやってるのか」

訓練場の入口から声が飛んできた。振り返ると、上位クラスの制服を着た二人組が松明を手にこちらを見ていた。カイル・ヴェルムンド。中位貴族の三男で、同期の中でも特にレンへの当たりが強い。松明の炎が揺れるたびに、金糸で刺繍された上位クラスの紋章がちらちらと光る。レンの着ている灰色の下位クラス制服とは、仕立ての段階から別物だった。

「消灯過ぎてるぞ。素振りなんかしたところで、お前の適性値は変わらねえよ」

隣の取り巻きが下品に笑う。レンは何も答えず、木剣を下ろした。言い返す言葉がないわけではない。ただ、言い返したところで何も変わらないことを知っている。拳を握れば指の皮が剥けた箇所が痛み、その痛みが怒りを押し留める蓋の代わりになった。

「聞いてるか? 明日の実技試験、お前も出るんだろう。今年は訓練用の魔獣を使うらしいぜ」

カイルの声に、初めてレンの手が止まった。

「魔獣?」

「知らなかったのか。掲示板に出てたぞ。中等部の実技試験に初めて生体魔獣を導入するってな。上位クラスなら問題ないが——お前みたいなのには地獄だろうな」

カイルはわざとらしく肩をすくめ、取り巻きと目を見合わせて薄く笑った。その笑みには悪意というよりも、もっと始末の悪いものが混じっていた。本気で心配する価値すらない相手を見る、純粋な無関心だ。

言い捨てて、二人は去っていった。松明の明かりが遠ざかり、再び闇が訓練場を包む。彼らの足音が石畳を叩く軽い響きが遠ざかり、やがて完全に消えた。レンは暗がりの中で立ち尽くしていた。

魔獣。的や魔法人形ではなく、生きた魔獣を相手にする実技試験。上位の生徒にとっては腕試しでも、レンにとっては意味が違う。適性値二十三の剣と十九の魔術で、魔獣にまともに対峙できるとは思えなかった。魔術で牽制することもできず、剣で決定的な一撃を与える力もない。二つの武器を持ちながら、どちらも使い物にならない。それがレンの現実だった。

だが、逃げるわけにもいかない。実技試験を棄権すれば単位が足りず、奨学枠の維持条件を割る。退学になれば、今度こそ行く場所がなくなる。

レンは木剣を握り直した。罅の入った柄が、掌の中で軋む。

——折れかけだ。この木剣も、俺も。

それでも振るしかない。折れたらそのとき考える。考えたところでどうにもならないかもしれないが、少なくとも今この瞬間、木剣を振ることだけは自分の意志でできる。誰に命じられたわけでもなく、誰に期待されたわけでもなく、ただ自分で選んでここに立っている。

その一点だけが、レンをこの場所に繋ぎ止めていた。

素振りを再開する。一振り、また一振り。形は拙く、魔力の気配もない。星明かりの下、少年の影だけが石畳の上で黙々と動いていた。

どれほどの時が経ったか。東の空がわずかに白み始めた頃、レンはようやく木剣を下ろした。全身が汗と夜露で冷え切っている。指の皮は剥け、掌に薄く血が滲んでいた。腕はもう上がらず、肩から先が別の生き物のように重い。それでも、振り続けたという事実だけが、わずかに胸の底を温めていた。

寮への帰り道、本館の掲示板の前を通る。足を止めた。松明の残り火に照らされた羊皮紙に、確かに記されていた。

『中等部第三次実技試験——試験形式変更の通達。本年度より訓練用魔獣(制御付き)を使用。全生徒必須参加。棄権者は当該科目の単位を不認定とする』

制御付き、という文言がかろうじて救いではある。だが制御が万全なら、わざわざ通達を出す必要もないだろう。レンの胸の奥で、冷たいものがゆっくりと広がった。

恐怖ではない。もっと静かで、もっと深い感情だ。どれだけ振っても、どれだけ足掻いても、自分の立っている場所は変わらない——そんな諦めに似た予感。

寮の自室に戻り、木剣を壁に立てかける。罅はさらに深くなっていた。明日までもつだろうか。もたなければ、素手で受けるしかない。

狭い寝台に横たわり、目を閉じる。毛布は薄く、汗で冷えた身体が芯まで震えた。祖母の顔が浮かんだ。「お前は優しい子だよ」。その言葉が、今は刃のように胸を刺す。優しいだけの人間が、この世界で生き延びる方法を、レンはまだ知らなかった。

眠りに落ちる間際、微かな夢を見た。知らない荒野に立つ、知らない男の背中。手には剣。刃が鈍い光を帯びていた。風に乗って、声が聞こえた気がした。低く、遠く、しかし不思議と耳に残る声だった。

——何を言っているのか、聞き取れない。

手を伸ばそうとした。だが指先が届く前に、荒野も男も砂のように崩れた。

意識が途切れる。

東の空はもう明るい。実技試験の朝が、すぐそこまで来ていた。

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