第3話
第3話
医務室を出たのは翌朝のことだった。
肋骨の罅は治癒魔術で塞がれていたが、胸の奥に鈍い痛みが残っている。廊下を歩くだけで呼吸が浅くなり、階段を上がれば膝が笑った。それでもレンの足は訓練場へ向かっていた。頭の中に灯った地図が、じっとしていることを許さなかった。
早朝の第四訓練場には誰もいない。昨日の魔獣暴走の影響で通常訓練は二日間の休止が告げられており、生徒たちは寮に引きこもるか、食堂で昨日の騒ぎを語り合っているかのどちらかだろう。レンにとっては好都合だった。人の目がない場所でなければ、試したいことが試せない。
石畳の上に立ち、素手で構えを取った。木剣は寮に置いてきた。罅だらけの木剣では、今やろうとしていることの邪魔になる。
まず、前世の——剣聖の基本の構えを再現しようとした。右足を半歩引き、重心を落とし、両腕を自然に垂らす。記憶の中では呼吸ひとつで全身の力が連動し、どこからでも剣を抜ける態勢が完成するはずだった。
身体が、従わなかった。
重心を落とせば膝が震え、右足を引けば股関節が軋む。剣聖の構えは数十年の鍛錬で練り上げられた筋肉と関節の柔軟性を前提としていた。十五歳の、適性値最低の、ろくに栄養も摂れていない身体には、構えの入口にすら立てない。
次に、魔力の運用を試みた。剣聖は魔力を剣に纏わせるのではなく、身体の内側を流すことで筋力と反射速度を底上げする技法を使っていた。理論は完全に頭に入っている。魔力を丹田から脊柱に沿って流し、四肢の末端まで行き渡らせる——
魔力が、動かなかった。正確には、動いたが途中で詰まった。脊柱の中ほど、肩甲骨の間あたりで流れが澱み、そこから先へ押し出そうとすると鈍い頭痛が走る。無理に通せば経路が傷む。剣聖の記憶がそう警告していた。
レンは構えを解き、石畳の上に座り込んだ。息が上がっている。たったこれだけのことで。
だが——落胆はなかった。むしろ、奇妙な昂揚があった。
昨日までのレンは、何が間違っているかすら分からなかった。素振りを千回繰り返しても剣が速くならない理由がわからず、魔術の基礎練習を何度やっても的に当たらない原因がわからなかった。闇の中で壁にぶつかり、壁の形すら見えないまま、ただ拳を打ちつけていた。
今は違う。壁の形が見える。どこに罅があり、どこを押せば崩れるかが見える。
魔力が脊柱の中ほどで詰まる。それは経路そのものが細いからだ。学院の教本は魔力を「外に放出する」訓練ばかり教えるが、剣聖の記憶は教えている——まず内側の経路を広げなければ、どれだけ放出の型を練っても水は細い管を押し通されるだけだと。レンの魔力量が低いのではない。管が細すぎて、流れる量が制限されているのだ。
レンは目を閉じ、呼吸を整えた。剣聖が若い頃に行っていた経路拡張の鍛錬法を、記憶から引き出す。魔力を放出せず、体内で循環させる。ゆっくりと、水が石を穿つように、少しずつ経路を押し広げていく。派手さのかけらもない地味な作業だ。外から見れば、少年が目を閉じて座っているだけにしか見えないだろう。
だが、三十分ほど経った頃、微かな変化を感じた。肩甲骨の間で澱んでいた魔力が、ほんのわずかだが先へ流れた。針の穴を通すような量。それでも確かに、昨日までは塞がっていた場所を魔力が通過した。
レンは目を開けた。自分の手を見下ろす。何も変わっていないように見える。だが内側では、確かに何かが動き始めていた。
その日から、レンの訓練は根本から変わった。
素振りをやめたわけではない。だが闇雲に回数を重ねるのではなく、一振りごとに身体の使い方を意識した。剣聖の記憶が示す正しい筋肉の連動——足の裏から始まり、脛、腿、腰、背中、肩、腕、そして剣先へと力が伝わっていく連鎖。その一つひとつの繋ぎ目を、自分の身体で確認しながら振る。百回の素振りが十回になった。だがその十回は、昨日までの千回よりも身体に深く刻まれた。
魔力の経路拡張は毎朝と毎晩、各一刻ずつ行った。地味で、痛みを伴い、目に見える成果はすぐには現れない。だが三日目には肩甲骨の澱みが明らかに薄くなり、五日目には魔力が両腕の肘まで滑らかに流れるようになった。指先まではまだ遠い。それでも管は確実に広がっていた。
訓練の合間に、学院の基礎魔術教本を読み返した。以前は文字を追うだけで頭に入らなかったそれが、今は別の書物のように読めた。教本の記述がどこで正しく、どこで端折っていて、どこで根本的に効率が悪いかが、剣聖の知識と突き合わせることで鮮明に浮かび上がる。
七日が過ぎた。
魔獣暴走事件の後始末がようやく落ち着き、中等部の再試験が告示された。実技試験を完了できなかった生徒——つまり暴走に巻き込まれたレンを含む数名——に対する救済措置だ。今度は魔獣ではなく、的を使った基礎魔術の精度試験。全生徒の前で行われる。
再試験の朝、レンは訓練場の隅で静かに順番を待っていた。周囲の視線は相変わらずだ。同情と侮蔑が半々に混じった目で、誰もレンに話しかけない。カイルが取り巻きに何か囁き、くすくすと笑う声が聞こえた。
「——レン」
名前が呼ばれ、射撃台に立つ。二十歩先に木製の的が据えられている。基礎魔術——魔力弾を的に当てるだけの、最も初歩的な試験。上位の生徒なら欠伸をしながらこなす内容だ。レンはこれまで一度も的の中心に当てたことがなかった。そもそも的に当たること自体が稀だった。
深く息を吸い、右手を前に伸ばす。掌に魔力を集中させる。以前の自分なら、教本通りに掌の表面に魔力を溜め、それを一気に押し出そうとしていた。だが今は違う。
魔力を掌の表面ではなく、腕の内側の経路を通して指先まで流す。管はまだ細い。だが七日間の鍛錬で、肩から指先まで途切れずに魔力を通せるようになっていた。量は少ない。だからこそ、散らさない。
指先に魔力が集まる。教本が教える「放出」ではなく、剣聖が剣に力を乗せるときと同じ要領で、魔力に方向と意志を与える。矢を射るのではなく、指で指し示すように。
放った。
淡い光が一直線に飛び、的の中央やや左に命中した。木板が乾いた音を立てて揺れる。威力は大したことがない。上位の生徒が放てば的ごと吹き飛ばすところを、レンの魔力弾はかろうじて表面を焦がした程度だ。
だが、当たった。
観覧席がわずかにざわめいた。それは驚きというよりも、信じられないものを見たときの戸惑いに近い。適性値十九の少年が、的の中心付近に魔力弾を命中させた。まぐれだと誰もが思っただろう。レン自身も、まぐれではないことを証明するすべを持たない。
だがレンの意識は観覧席に向いていなかった。自分の右手を見つめていた。今の感覚を、身体が覚えている。魔力の通り道、力の乗せ方、放つ瞬間の指先の角度。全てが噛み合った、たった一射。これを百回、千回と再現できるようになれば——
「——次」
主任教官ハルゲンの声で我に返った。射撃台を降り、生徒たちの列に戻る。すれ違いざま、ハルゲンの目がレンを捉えた。一瞬だけ。だがその一瞬に、七日前までとは明らかに異なる色があった。怪訝。あるいは——わずかな関心。
レンは足を止めず、列の最後尾に戻った。胸の中で、小さな火が揺れていた。消えそうなほど小さいが、確かに熱を持っている。
道は長い。身体はまだ脆く、魔力の管はまだ細い。剣聖の技の百分の一も再現できていない。だが初めて、足元の石が動いた。昨日までと今日で、自分が違う場所に立っている。その実感が、レンの内側に静かに根を下ろしていた。
寮への帰り道、訓練場の脇を通りかかったとき、見慣れない影が目に入った。夕暮れの第四訓練場で、誰かが一人で木剣を振っている。レンは足を止めた。
それは少女だった。亜麻色の髪の間から、獣のものに似た尖った耳が覗いている。振るう木剣は荒々しいが、足運びには野生の獣を思わせるしなやかさがあった。制服の袖から覗く腕には、人間のものとは異なる薄い獣毛が光を受けて金色に光っている。
獣人の混血。学院にいることは知っていた。だが話したことはない。レンと同じか、それ以上に孤立している生徒がいるということだけを、噂として聞いていた。
少女がレンの視線に気づき、木剣を止めた。警戒するような、値踏みするような目がこちらを射る。レンもまた、同じ目で彼女を見ていたかもしれない。
互いに、何も言わなかった。レンは踵を返し、寮へ歩き出した。
だが数歩進んだところで、ふと振り返った。少女は既に素振りを再開していた。夕陽の中で、一人きりの木剣が風を切る音だけが響いている。その音を、レンは知っていた。自分がずっと、夜の訓練場で立てていたのと同じ音だ。