第2話
第2話
黒い霧の中を、俺は歩き続けた。
背後で鐘が鳴っている。警鐘だ。処刑場の広場から街の外縁へ、波紋のように伝播していく金属音。足音は追ってこない。誰も、あの黒い霧の中に踏み込む勇気がない。当然だ。触れた衛兵が声もなく崩れるのを、広場の全員が見ている。
ただ歩く、というだけのことが、ひどく不思議だった。十六年ぶんのリオンの足が、石畳の目地を無意識に避ける。貴族の歩き方だ。背筋をまっすぐに、踵から着く。体は忘れていない。一方で、頭の奥では学者の俺が街区の構造を勝手に分析している。中央広場、放射状の大通り、二本目の路地を右、その先の城門は──だめだ、検問が早い。東の古い水道橋の崩れた跡から抜ける。前世の俺が現代日本で、学会の余った時間に観光客の顔で歩いた、ヨーロッパのどこかの旧市街の地図と、この街の区画がほとんど同じだった。
ほとんど同じだ、というその事実が、歩きながら、少しずつ俺の背中を冷やしていく。
偶然、で片付けるには似すぎている。
しかし今は、そのことを考えている場合じゃなかった。水道橋の崩れた穴を潜り、城外の林に身を滑り込ませ、下草の匂いに肺を浸した瞬間、ようやく膝が笑った。そのまま倒れ込むようにして、俺は太い樹の根に背を預けた。黒い霧が音もなく解けていく。術式の維持を、体が勝手に切った。限界だったらしい。
息が浅い。心臓が、遅れて暴れ出している。
「──理論値通り、だった」
声に出して、自分で頷く。古代語でも貴族の公用語でもなく、前世の日本語でそう呟いたとき、胸の内側がひどく静かになった。
静かになったからこそ、わかった。考えなければならないことが、山のようにある。
膝の上で両手を組み、俺は目を閉じた。
まず、と頭の中で指を折る。まず、この体に起きたことの整理だ。脳裏に流れ込んでくる前世の知識が、いまだに波打っている。魔術史研究者としての三十年。読んだ論文、書いた論文、学会発表で叩かれた仮説、深夜の研究室で独り言ちた妄想。それらが順序を持たずに浮上しては沈む。浮上するたびに、この世界の魔術体系の「間違い」が、新しい角度から照らされる。
たとえば詠唱構造。この国の魔術師が使う呪文は、古代語から派生した「聖典語」で組まれている。研究者のあいだでは伝統的に「古代語の洗練形」と呼ばれてきた言語だ。とんでもない、と俺の中の学者が唾棄する。洗練なんかじゃない。あれは、古代語の一番重要な音素が、まるごと抜け落ちた劣化物だ。母音の後ろに滑らかに入るべき摩擦音。喉の奥で細く押し出される気息音。それらが「神聖さに欠ける」という理由で、千年ほど前に禁じられている。
禁じたのは誰か。神殿だ。
なぜ禁じたか。──わからない。ただ、禁じられた音素を取り戻すと、魔術の効率が、前世換算で十倍を軽く超える。俺はさっきの第七階梯で、それを我が身で検証してしまった。
次。魔力循環。この世界の魔術師は、体内の魔力を「丹田」に似た下腹の一点に集めて、そこから経路を伝って指先や杖へ送る。効率が悪い。悪すぎる。魔力は本来、血流に乗せて全身に希釈した方が、術式起動時の損耗が少ない。前世の論文で、俺は古代壁画の魔術師の姿勢を分析してその結論に至った。今、リオンの体でそれを試してみると、下腹に集めるよりも、掌の皮膚のすぐ下、毛細血管の層に薄く広げた方が、魔力が素直に反応する。
まるで、この体が、最初からそう使われることを前提に設計されているみたいに。
……設計。
その単語が脳裏に浮かんだ瞬間、俺は目を開けた。木漏れ日が、俺の前髪の先で揺れていた。風が出てきている。葉擦れの音が、遠くの鐘の音を覆い始めていた。
設計、という言葉を、俺はもう一度、口の中で転がした。舌の上に苦い味が残る。鉄錆にも似た、自分の血の味に近い苦さだった。
リオン・ヴァルトシュタインという十六歳の落ちこぼれが、前世換算で学者三十年分の知識をそっくり受け取り、しかもその知識を最短で実装できるだけの「素直な」体を持っていた。魔力測定で生涯最低値を叩き出したという公的記録まで、ある。公的記録があった、ということは、誰かが「こいつは脅威ではない」と油断していた、ということだ。──あるいは、「脅威になるまで誰にも気づかれないよう、仕込まれていた」ということだ。
嫌な仮説だった。学者としては、嫌な仮説ほど書き留めておかなければならない。俺は頭の中のノートの、一番上の行に、その仮説を鉛筆で薄く書き込んだ。証拠はまだ、ない。消しゴムでいつでも消せる濃さで。
それより今は、目の前の仕事だ。
俺は幹に手をついて立ち上がった。処刑用の麻布は薄くて頼りない。足は裸足で、小枝を踏むたびに鈍く痛む。第七階梯を一発撃った反動で、本来なら全身の骨が砕けていてもおかしくない。にもかかわらず、痛むのは足の裏の擦り傷だけだった。これもまた、あの「嫌な仮説」の証拠の一つとして、ノートに書き足す。
決めたのは、二つ。
一つ。前世の魔術史研究を、この世界で続ける。ただし、論文としてではなく、実装として。古代語の詠唱を、音素単位で組み直す。魔力循環を、血流に乗せる形で習熟させる。頭の中にある知識を、この体の反射にまで落とし込む。学者の俺なら、生涯をかけてもできなかった作業だ。だがこの体があれば、数ヶ月で済む。そう、直感が告げている。
二つ。そのあいだ、リオン・ヴァルトシュタインは死んだままにしておく。
処刑は失敗した。だが、広場で俺の顔を知っている人間は、ほとんどが恐怖で塗り潰された視界しか持っていないはずだ。黒い霧、宙に立つ影、炭化した縄。彼らの記憶に残るのは「化け物」の輪郭であって、リオン少年の顔立ちではない。大神官は別だ。あの男は間違いなく俺の顔を覚えている。だから、あの男の目が届かない場所で、別の名前を名乗る。
別の名前。
俺は、前世の研究ノートの余白に、かつて走り書きしていた仮名のことを思い出した。失伝古代魔術の再現実験を、もし誰にも知られずに行うとしたら、どんな名前で発表するか。酒の席の冗談として、同僚と決めた偽名だ。アルト。ドイツ語だか何かで「古い」を意味する言葉の、短縮形。語感が気に入っていた。
アルト、と口の中で呼んでみる。悪くない。リオンはまだ死ぬには若すぎるが、アルトなら、今日この瞬間に生まれたばかりの名前だ。一度、二度、舌で転がすうちに、その二音は驚くほど自然に俺の呼吸に馴染んだ。まるで、ずっと前から、俺がこの名前で呼ばれるのを待っていたかのように。
林の奥で、鳥が鋭く鳴いた。遠くない場所で、馬の蹄の音がする。追手か、それとも単なる街道の旅人か。俺は息を整え、木の陰から斜面の下を覗き込んだ。街道のほうではない。林の奥だ。蹄の音は、崩れかけた廃村の方角から聞こえていた。
廃村、と頭の中の地図が言う。かつて疫病で打ち棄てられた、地図上では空白になっている集落。身を隠すには、ちょうどいい。
俺は、裸足のまま、静かにその方角へ歩き出した。足の裏の擦り傷が、一歩ごとに薄く血を滲ませる。その血の一滴一滴が、下草の葉に赤い点を残していく。学者の俺が、その点の並びを見下ろして、小さく唇の端を上げた。
──追跡の痕跡としては、上出来だ。ここから先、俺はこの痕跡を、意図して消すことも、意図して残すこともできる。知識とは、そういうことだ。
廃村の屋根が、木々の隙間から覗いた。半分崩れた鐘楼。煤けた石壁。人の気配はない。ただ、井戸の滑車が風で軋む音だけが、規則的に響いている。俺はその軋みに歩調を合わせ、自分の呼吸を整えた。軋み、吸い、軋み、吐く。まるで打ち棄てられた村そのものが、久しぶりに訪れた客のために、鈍く心音を刻み直しているようだった。
今夜、この廃村のどこかで火を焚こう。火が起こせるかどうか、試してみる必要がある。初級の発火術でいい。ただし、この世界の魔術師が使っている劣化版ではなく、前世の俺が論文で再現した、正しい音素の、正しい循環の、正しい発火術で。
もし、それが一度で成功したなら──。
廃村の朽ちた井戸の縁に手をかけたとき、俺は自分の唇が、知らず知らず笑っていることに気づいた。石のざらついた冷たさが掌に沁みて、逆に胸の奥だけが妙に熱い。学者だった頃、査読者に散々叩かれて、それでも諦めきれなかった仮説が、今夜ようやく、実証される。胸の奥で、乾いた石と石が打ち合わさるような、小さな高鳴りがした。指先が、まだ唱えてもいない詠唱の形を、勝手になぞり始めている。
ただ、その高鳴りに紛れて、もう一つ、別の音が遠く聞こえた気がした。
ずっと遠い場所で、誰かが、俺のために頁を捲る音。読んだ覚えのない頁を、誰かが先回りして開いている音。
俺はその音のことを、今はまだ、考えないことにした。