第1話
第1話
縄が首に食い込んだ瞬間、俺は自分の名前を思い出した。
床板が抜ける。視界が落下する。観衆の嘲笑が耳の奥で潰れる。──リオン・ヴァルトシュタイン。名門の末子。魔力測定、生涯最低値。禁呪使用の冤罪。処刑、確定。
馬鹿げた筋書きだ。十六年しか生きていないのに、もう終わる。
そう、思ったはずだった。
「……嘘だろ」
落下の途中、脳の奥で何かが裂けた。裂け目から濁流が噴き出す。別の人生。別の言語。別の景色。満員電車のアナウンス音。古びた図書館の、陽に灼けた背表紙の列。指先に残る羊皮紙の乾いた匂い。終電間際に研究室で啜ったインスタントコーヒーの苦味。論文の締切。白衣の同僚が笑いながら投げてよこしたチョコレートの銀紙。そして、何十万ページにも及ぶ「魔術史」の文字列が、脳の裏側で一斉にページを捲る音。
──俺は、現代日本で魔術史を研究していた学者だった。
死の直前まで、失伝した古代魔術体系の復元に取り憑かれていた男。名前は、ここでは意味を持たない。重要なのは、その男の頭の中身が、たった今、落ちこぼれ貴族リオンの脳に丸ごと流し込まれたという事実だ。流し込まれた、というより、叩き込まれた、という方が近い。頭蓋の内側を太い釘で打ち抜かれたような鋭い痛みが、一拍遅れて首筋まで走る。目の奥で火花が散り、鼻腔の奥にまで鉄錆の匂いが込み上げてくる。舌の根が痺れ、奥歯がかちかちと鳴った。十六年ぶんのリオンの記憶と、三十年以上を生き抜いた学者の記憶が、同じ器の中で押し合いへし合いしている。どちらも自分だった。どちらも自分のものとは思えなかった。
首の骨が折れるまで、あと〇・三秒。
まずいな、と冷静な声が頭の中で言った。学者の声だ。思考速度が異様に速い。体感時間が引き伸ばされている。走馬灯の応用か。いや、どうでもいい。考えろ。助かる手段は。落下の風が耳朶を撫でる。観衆の歓声が、水中のように歪んで遠ざかる。心臓の鼓動が、腹の底で一度、やけに大きく鳴った。
──ある。
一つだけ、ある。
この世界の魔術体系は、根本から間違っている。俺は、前世の研究でその結論に到達していた。詠唱構造、魔力循環、術式起動。全部、中途半端に継承された劣化コピーだ。「禁呪」と呼ばれているものの正体も、今ならわかる。禁呪じゃない。ただの、失伝した基礎技術。教科書の最初のページに載っているべき、ごく当たり前の一行目。それを「触れてはならないもの」として封じてきたのが、この国の千年だ。
なるほど、と俺は呟いた。なるほど、なるほど、なるほど。乾いた笑いが、喉の奥から泡のようにせり上がる。首に食い込んだ麻縄の繊維が、一本一本、皮膚を焼くように熱い。涙腺の奥が勝手に痙攣し、視界の端がちかちかと明滅する。それでも頭の芯だけは、凍った湖の底のように静かだった。怖くない、と気づいて、俺は自分で自分に驚いた。怖くないどころか、少しだけ、楽しいとすら思っている。学者だった頃、生涯をかけても触れられないと諦めていた領域が、いま、目の前で扉を開けている。
「──黎明せよ」
古代語。舌の上で転がした瞬間、術式が組み上がる感覚があった。音もなく、光もなく、ただ、世界の側が勝手に譲歩していく感覚。空気の密度が、ほんの一瞬だけ、俺の都合のいい方へ傾ぐ。無詠唱。第七階梯。魔力効率、前世換算で〇・三パーセント。片手間もいいところだ。
縄が、炭になった。
ぼろりと崩れた黒い粉が風に散る前に、俺の足は虚空を踏んでいた。そのまま、ゆっくりと立ち上がる。処刑台の床板の割れ目の上、二十センチほどの空中に。爪先の下で、何もないはずの空気が、硬い石畳のように俺の体重を押し返している。
観衆が静まり返った。
笑い声が途中で凍りつく。石を投げようとしていた少年の手が、石ごと硬直する。指の隙間から小石がぽろりと落ちて、石畳の上で乾いた音を一度だけ立てた。最前列で腕を組んでいた衛兵の瞳孔が、音を立てそうな速度で開いた。誰かが息を呑む。誰かが後ろの人間の肩を掴む。誰かが、意味をなさない祈りの言葉を口の中で転がし始める。広場のどこかで、赤ん坊の泣き声が不自然にぷつりと途切れた。風が止まり、処刑台の旗が、半端な角度で空中に貼り付いたように見えた。
「な……」
誰かの声。何なのか、誰なのか、もうどうでもいい。俺は自分の手を見下ろした。細い指。青白い皮膚。爪の根元に滲んだ、縄で擦れたときの血の薄い線。魔力測定で生涯最低値を叩き出した、落ちこぼれの体。
こいつに、第七階梯が通った。
──理論値通りだ。
背筋が寒くなる。喜びじゃない。ぞっとしたのだ。この世界の魔術師は、生涯をかけてもここに届かない。白髪の宮廷魔術師が血を吐きながら挑んで、それでも届かない高みだ。俺は一歩で来てしまった。前世の知識を「当てはめた」だけで。まるで、子どもが大人用の刃物を無造作に掴んで、そのまま切れ味を確かめてしまったような、嫌な手応えがある。指先がわずかに震えているのは、寒さのせいじゃない。自分で自分が、どこまで行けてしまうのか、まだ底が見えないからだ。
処刑台を黒い霧が這い上がった。俺が発動しっぱなしにしていた術式の余波だ。触れた警備兵が、声も上げずに膝から崩れる。兜の庇の下で、白目がゆっくり裏返るのが見えた。死んではいない。意識だけを刈り取った。そういう術式を、俺は組んでいた。無意識に。片手間に。──無意識に、というのが一番恐ろしい。俺の脳は、もう「そういうもの」として、この世界の法則を書き換え始めている。
広場の端で、大神官の白い法衣が凍りついていた。俺を断罪したあの男。金糸の刺繍が、陽光を受けて鈍く揺れている。唇が震えている。何か小さく呟いた。聞こえないが、口の形でわかる。
──まさか、と。
まさか、じゃないだろ、と俺は胸の中で返した。あんたらが間違えてたんだ、ずっと。魔術の歴史を、魔術の定義を、魔術の可能性を。全部。その「まさか」を封じるために、どれだけの人間を処刑台に送ってきた。俺で何人目だ。俺の前で炭にならなかった縄は、何本あった。
逃げなければならない、と学者の声が急かす。今の術式発動は派手すぎた。すぐに追手が来る。国が総力を上げてくる。たった一人の十六歳を殺すために、軍が動く。神殿が動く。王が動く。
わかってる。
でも、その前に一つだけ。
俺は、自分を名門の恥と罵った家族の顔を、観衆の中に探した。父の冷えた横顔。母の伏せた睫毛。兄の、俺を見るときだけ歪む口元。いない。来ていない。当然だ。恥の処刑なんか見に来るわけがない。……そうか。来ていないのか。
なぜか、それで少しだけ冷静になれた。胸の奥で握りしめていた熱い塊が、す、と体温に馴染んでいく。怒りでも、悲しみでもない。ただの、諦めに似た澄んだ空白。
復讐じゃない、と俺は決めた。今この瞬間に。炭化した縄の残骸を踏みながら、黒い霧の中を歩き出しながら、決めた。この力を、復讐なんてくだらないことには使わない。家族の顔を一人ずつ焼くために、こんな知識を取り戻したわけじゃない。
証明のためだ。
この世界の魔術は間違っている。正しい形を、俺が取り戻す。そしてそのついでに、俺を殺そうとしたこの国の頂点を──下から、静かに、喰らう。根を張るように。水が岩を割るように。誰も悲鳴を上げる暇さえないほど、丁寧に。
広場の石畳に、初めて足の裏がついた。ひやりとした感触が、薄い処刑用の麻布越しに伝わる。観衆が後ずさる。誰も、俺に触れようとしない。触れられない。黒い霧が、俺の歩幅に合わせて従順に裾を引く。
「……失礼するよ」
前世の癖で、そう呟いてしまった。ここの言葉じゃない。誰にも通じない。それでよかった。通じないからこそ、この一言は、まだ俺だけのものだ。あの研究室の、誰も聞いていない独り言の続きだ。
黒い霧が、俺ごと街の空気に溶けていく。大神官の叫び声が遠ざかる。鐘が鳴り始める。遅い。何もかも、決定的に、遅い。
一歩目は、もう踏み出していた。
──ただ、その一歩目の先で、俺はまだ気づいていなかった。なぜ前世の記憶が「今」返ってきたのか。なぜ古代語の術式が、教わってもいないのに舌に馴染んだのか。なぜ、生涯最低値のはずの体が、第七階梯の反動で砕けもしなかったのか。この転生が、本当に「偶然」なのかどうかを。
遠い王都の神殿の奥で、凍りついた大神官が、暗がりに向かって跪こうとしていたことも。その暗がりの中で、ひどく満足げな溜息が一つ、零れていたことも。