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落ちこぼれは処刑台で覚醒する

第3話 第3話

第3話

第3話

井戸の縁の冷たさが、掌を伝って肘まで這い上がってきた。

 俺はゆっくり手を離し、廃村の広場の中央まで歩いた。割れた石畳の継ぎ目から、膝丈ほどの雑草が伸びている。その葉の一枚を千切り、指の腹で潰してみた。青臭い匂いが鼻をつく。生きている。水脈はまだ死んでいない。火を焚くには、ちょうどいい土地だ。

 広場の隅に、誰かが置き去りにしていった薪の山があった。朽ちかけているが、芯はまだ乾いている。俺はその一本を拾い上げ、石畳の上に横たえた。裸足の指先が、石の窪みに溜まった夜露を冷たく吸う。

 さて、と前世の俺が呟く。

 正しい音素。正しい循環。正しい発火術。

 今夜、ここで、千年ぶんの間違いを一つだけ訂正する。

 俺は薪の前にしゃがみ込み、右手を差し出した。掌を、薪の一尺ほど上に翳す。指先は震えていない。震える理由がない。震えるべきは、千年前にこの音素を禁じた連中の方だ。

 息を吸う。肺の底まで、夜の林の匂いを引き込む。濡れた落ち葉の甘い腐臭。遠くで朽ちかけている樹皮の、かすかな酸味。そのすべてが、喉の奥でひとつの冷たい粒になって沈んでいく。俺はその粒を舌の裏に転がしながら、ゆっくりと瞼を伏せた。

 魔力を、下腹ではなく、掌の皮膚のすぐ下の毛細血管へ薄く流す。この世界の魔術師が「ありえない」と切り捨てる経路だ。ありえないのではない。誰も試さなかっただけだ。血流に乗った魔力は、驚くほど素直に、俺の掌の表層でひとつの薄い膜になった。産毛の一本一本が、見えない水面に洗われるように、静かに逆立っていく。

 膜の上で、音素を組む。

「──

かたちを、と」

 古代語。ただし、聖典語では抜け落ちている喉の奥の気息音を、きちんと入れる。舌の根の浅い位置で、摩擦音をひとつ噛ませる。それだけだ。それだけの、千年ぶんの訂正。発音の瞬間、舌先に薄荷めいた痺れが走り、奥歯の奥で、かすかに金属の味がした。体が、正しさを覚えている。

 薪の表面で、ぽ、と音がした。

 音だけだった。光はない。煙もない。俺は身を屈めて、薪の表面を覗き込む。朽ちた樹皮の一点が、橙色の点になっている。その点が、呼吸するようにゆっくりと広がり、ひとつの炎に育っていく。安定している。ひどく、安定している。揺らぎの周期が、俺の脈拍と不思議なほど噛み合っていた。まるで、俺自身の心臓が、薪の上で外部器官として燃えているかのようだった。炎の芯の根元に、ごく細い青の層が一枚だけ透けている。完全燃焼の合図だ。薪が軋む音さえしない。ただ、夜の底で、小さな橙がひとつ、息をしている。その呼吸の一拍ごとに、俺の胸郭の奥も、同じ律動で密やかに震えた。

 前世の俺なら、ここで論文の下書きを始めている。

 今世の俺は、代わりに、ただ一度だけ、短く笑った。

 笑ってから、背筋が冷えた。

 一度で、成功した。

 この世界で「発火」を一度で成功させるには、数年の鍛錬がいる。聖典語の詠唱は長く、魔力の丹田集中には集中力の訓練がいる。見習い魔術師は、まず薪を黒く焦がすところから始め、煙を出し、ようやく炎を得る。俺は、そのすべてを、飛ばした。というより、そもそも別の道を歩いた。別の道の方が、まっすぐだった。ただそれだけのことだ。

 ただそれだけのことが、この世界の魔術師の生涯を無意味にする。

 炎の揺らぎを見つめながら、俺は次の実験に移ることにした。発火術で済ませるつもりは、最初からなかった。今夜の本番は、別にある。処刑台で片手間に放ったあの第七階梯を、もう一度、落ち着いた状態で、正確になぞり直すこと。あれが本当に「理論値通り」だったのか、それとも死の淵の火事場だったのか。学者としては、確かめずにはいられない。

 俺は立ち上がり、広場の中央から、半ば崩れた鐘楼の方へ歩いた。鐘楼の下に、石造りの古い祭壇が残っている。苔むして、刻まれていた神の名前はもう読めない。ちょうどいい。読めない神の祭壇の上で、読めないはずの術式を検算する。

 祭壇の上に、右の掌を置いた。

 石の冷たさが、指の関節を静かに噛む。吸い付くような冷たさだった。掌の線の一本一本に、石の内側の湿り気がじわりと染み込んでくる。その感触は、前世の夜、大学の地下書庫で古い石板に触れたときの記憶と、驚くほどよく似ていた。あのときも俺は、読めない神の名を、指の腹でなぞっていた。指先に残る紙魚の匂いと、蛍光灯の点滅の音まで、ひどく鮮明に蘇ってくる。

 俺は目を閉じ、処刑台で起きたことを頭の中で巻き戻した。落下の風。首の縄。裂けた記憶。舌の上で組み上がった詠唱。「黎明せよ」──そうだ、あのとき俺は、音素を一つ、省略していた。省略していたのに、発動した。省略しても発動する構造だった、と言うべきか。それはつまり、俺の知る古代語体系の中で、あの第七階梯は「冗長なほど安全側に設計されていた」ということだ。

 なら、省略を戻したら、どうなる。

 正確に、正確に、俺は舌の上で音素を並べ直した。気息音、摩擦音、喉の奥の浅い震え。丁寧に、一音ずつ。唇の内側に、鉄錆めいた味がじんわりと滲む。緊張ではない。喉の粘膜が、千年ぶりに正しい振動を取り戻そうとして、軋んでいるのだ。祭壇の石が、掌の下で、ほんの僅かに温度を変えた気がした。石が、術式を理解しつつある。いや、理解なんかしていない。世界の側が、正しい鍵穴に刺さった鍵を認めているだけだ。

「黎明せよ」

 無詠唱ではなく、今度は、声に出した。

 祭壇の周囲の空気が、音もなく沈んだ。沈んだ、としか言いようのない感覚。気圧でも温度でもない、何か別の層が、俺の足元に向かってゆっくり頭を下げた。耳の奥で、遠い海の底のような無音がひとつ、膨らんでは萎む。鼓膜の裏で、自分の血流の音だけが、やけに大きく鳴っていた。掌の下の石が、ひとつの呼吸を吐き出すように、ふ、と熱を帯び──冷めた。

 それだけだった。

 光も、霧も、崩壊もない。

 俺は掌を離し、祭壇を見下ろした。苔むした表面の中央に、掌の形をした苔の空白ができている。そこだけ、千年ぶんの苔が、音もなく蒸発していた。灰すら残らない消え方。処刑台の縄が炭になったあの派手さとは、対極にある静けさ。指先でその空白の縁をなぞると、石の肌理は乾いた陶器のように滑らかで、ほんのわずかに温もりが残っていた。人肌よりも、ほんの少しだけ低い温度。指の腹を押し当てると、温もりは掌の奥へ、ゆっくり、ゆっくりと吸い込まれていった。

 ──抑制が、効いた。

 前世の論文で、俺は散々書いた。第七階梯の本質は破壊力ではなく「世界への干渉深度」だ、と。深度を保ったまま、現象のスケールを任意に絞れるか。絞れるなら、それは真の意味で実用段階の術式になる。絞れないなら、永遠に禁呪のままだ。

 絞れた。

 掌の空白を指でなぞりながら、俺は長く息を吐いた。喉の奥が、ようやく、この世界の空気と同じ温度になった気がした。学者の俺が、査読者のいない場所で、初めて自分の論文に自分で丸をつけた瞬間だった。前世で飲み残したインスタントコーヒーの味が、なぜか舌の根に蘇った。冷めきって、酸味だけが残った、あの夜明け前のマグカップの味だ。誰にも読まれない論文を、それでも書き続けていた頃の味。

 顔を上げる。

 炎はまだ、広場の薪の上で静かに燃えていた。揺らぎの奥で、橙色の光が、崩れた石壁に俺の影を長く引き伸ばしている。影は一つだけだ。当たり前のはずのその一つが、やけに孤独に見えた。石壁の罅の中で、炎の照り返しだけが、誰かの視線のように静かに瞬いている。

 復讐じゃない、ともう一度、自分に言い聞かせる。証明のためだ。証明のためには、生き延びなければならない。生き延びるためには、名前を捨てなければならない。名前を捨てるためには、明日の朝、この廃村を出て、どこか遠くの辺境都市の門を、何食わぬ顔で潜らなければならない。

 アルト、と俺は小さく呼んでみた。

 自分の声が、自分のものでないように、夜気の中でほどけていく。舌の上で、その二音はまだ他人行儀に転がった。けれど、悪い響きではなかった。前世の名前よりも、ずっと軽い。軽いということは、背負い直せるということだ。

 炎が、応えるようにほんの少しだけ、芯を高くした。

 そのとき、林の奥で、馬の蹄の音がまた聞こえた。今度は、さっきより近い。一頭ではない。二、三頭。街道を外れて、明らかに廃村の方へ向かってきている。俺は炎の上に掌をかざし、一呼吸で火を消した。煙すら立てずに、炎は石畳の上から綺麗に引き抜かれた。掌に残ったのは、わずかな温みと、橙色の残像だけだった。

 祭壇の陰に身を沈めながら、俺は、頭の中のノートの新しい頁に、ただ一行だけ書き込んだ。

 ──追手か、旅人か。どちらにせよ、アルトという名前を、今夜、一度、誰かの前で試すことになるかもしれない。

 蹄の音が、林の闇の向こうで、ゆっくりと輪郭を持ち始めていた。

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