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白百合は二度咲く──竜帝の腕の中で

第1話 第1話

第1話

第1話

祈りの祭壇に爪を立てて、エレノアはようやく立ち上がった。

 夜明け前の大神殿は、凍った石のように静まり返っている。祭壇に灯した白百合の蝋燭だけが、揺れる炎でその場を照らしていた。結界維持の祈りを終えたばかりの指先は、感覚がない。血が通っていないのだと、ぼんやり気づく。爪の先が青白く変色して、まるで自分のものではないように見えた。息を吐けば、それは白い霧となって祭壇の上に漂い、蝋燭の炎をわずかに歪ませる。床の石畳から這い上がってくる冷気が、祭服の裾を通り抜け、膝の裏の皮膚をじりじりと刺した。  それでも、彼女は微笑を絶やさなかった。聖女は微笑むもの。そう教えられてきた。微笑まぬ聖女は聖女に非ず、と幼い頃から神殿長に繰り返し囁かれてきた言葉が、凍えた頬の筋肉を無理やり持ち上げる。  回廊の奥から、足音が近づいてくる。神殿長の老いた執事だった。石畳を打つ杖の音は、遠くからでも彼女の肩を小さく跳ねさせるほど、鋭く響いた。

「聖女様。治癒院より、急患が三十人。聖水精製の追加をお願いしたいとのことでございます」

「──わかりました。すぐに参ります」

 声が、喉の奥で掠れた。喉仏の奥に砂でも詰められたような痛みが、言葉のあとに遅れて這い上がってくる。執事は礼を取り、振り向きもせず去っていく。労いの言葉はなかった。ご苦労様でしたの一言も、水を一杯差し出す手もなかった。当然のように、彼女はそれを受け入れた。受け入れることに慣れてしまった自分に、今朝初めて、薄く鳥肌が立った。  昨日、何を口にしたか。もう思い出せない。水を飲んだ記憶すら、曖昧だった。乾いた舌を上顎に押し当てると、かさついた紙を舐めたような味がした。一昨日の夕、祈禱の合間にかじった堅焼きパンの欠片──あれが最後の食事だったろうか。それとも、あれは三日前だったか。日付の境目すら、祈りの反復のなかで溶けて失せていた。

 自室に戻ったエレノアは、祭服の裾を引きずるようにして化粧台の前に座った。裾が石畳を擦る音が、やけに大きく耳についた。侍女はいない。聖女に侍女をつける予算はない、と半年前に神殿長が言った。あのとき彼は、経典を撫でながら「聖女様は神に仕える身、人の手を煩わせては徳を損ないます」と微笑んでいた。鏡を覆っていた白布を、指先でそっと払う。白布の下から、埃の匂いと、かすかに錆のような鉄の匂いが立ちのぼった。  息が止まった。

 見慣れぬ女が、そこにいた。  落ち窪んだ眼窩。血の気の失せた唇。浮き出た鎖骨の線が、祭服の襟元から覗いている。頬はこけ、そこに影が深く刻まれていた。こめかみには、見覚えのない青い血管が幾筋も浮き、髪の生え際には白いものが数本、蝋燭の光に拾われてちらついている。十八の乙女の顔ではなかった。  エレノアはゆっくりと、自分の頬に触れた。冷たい。骨が当たる感触がした。指の腹の下で、頬骨の角がはっきりと稜線を描いている。皮膚と骨のあいだに、あるはずの柔らかな肉が、まるでなかった。鎖骨の窪みに指を這わせれば、そこには小さな水溜まりのような影ができるほど深く落ち窪んでいた。去年までは、ここに母の形見の銀の鎖が心地よく収まっていたはずだ。今はその鎖さえ、皮膚の上で居場所を失い、祭服の下で冷たく泳いでいる。

 ──これは、誰。

 鏡の中の女と目を合わせたまま、彼女は動けなかった。喉の奥で、悲鳴になりそこねた音が小さく鳴った。それは祈禱の詠唱にも似て、けれど祈りの言葉をひとつも含んでいなかった。

 治癒の儀式。結界維持。聖水精製。異端審問の浄化。農村へ巡行。王家の祝祭。国葬の祈り。神託。新月の禊ぎ。すべて、たった一人で。指折り数えれば、片手では到底足りない。両手でも足りない。  倒れた日もあった。血を吐いた朝もあった。祭壇の白布に飛び散った赤い染みを、自分の手で洗い落とした夜もあった。それでも神殿は彼女に祭壇を空ける暇を与えなかった。「聖女ならば当然のこと」と、神殿長は祈禱書を差し出すだけだった。王太子殿下さえ「そなたの役目だろう」と笑うだけだった。その笑みの涼やかさを、彼女は美徳と信じてきた。

 献身だと、信じていた。白百合の聖女と呼ばれることを、誇りにしていた。胸に抱く百合の冷たさを、神の愛撫だと思い込もうとしてきた。  けれど、鏡の中の女は、献身を捧げた聖女の顔をしていない。  餌を削られた家畜の顔をしていた。  屠られる前夜の、静かに諦めた牛の目だった。

 エレノアの指先が、小さく震えた。震えは手首から肘へ、肘から肩へと、細い稲妻のように駆け上がっていく。やがてそれは背骨の芯に達し、祭服の下で音もなく全身を揺らした。  ──これは、搾取ではないか。

 生まれて初めて、その言葉が胸を掠めた。舌の上に転がすだけで、ぞっとするような言葉だった。舌先が痺れ、上顎にひりつく酸の味が広がった。不敬だ、と内側の声が叱責する。殿下のためであり、民のためであり、神のためではないか、と。民のために祈れぬ聖女に、生きる価値などあろうかと。叱責の声は神殿長の抑揚そのままで、幼い日に暗唱させられた戒律の一節を、耳の奥で容赦なく鳴らし続けた。  けれど鏡の中の女は、それに頷かなかった。  頷けるほどの肉が、頬に残っていなかった。

「……聖女様」

 扉の向こうから、侍従の声がした。エレノアは反射的に白布を鏡に戻し、祭服の襟を整える。指先が勝手に動き、乱れた髪を耳の後ろへ撫でつけた。長年の習いは、意志より早かった。背筋はひとりでに伸び、唇の端はあるべき角度に吊り上がる。恐ろしいほど滑らかに、仮面が戻ってきた。

「──入りなさい」

 滑るように入ってきたのは、王宮付きの若い伝令だった。深紅の封蝋を押した書状を恭しく捧げ持っている。それを差し出す手つきにさえ、どこか急いた気配があった。伝令の頬は紅潮し、外套にはまだ雪の粒が溶け残っていた。雪の中をよほど急いで駆けてきたのだろう。溶けかけた雪が絨毯に小さな染みを作り、馬の汗の匂いがかすかに漂った。

「王太子殿下より、御命令でございます。明日正午、大聖堂にて婚約披露の儀が執り行われます。聖女様は白百合の礼装にて、壇上にお立ちくださいますよう」

 婚約披露。  王太子ユリウスと自分の、正式な婚約を内外に知らしめる日。三年前から延期され続けてきた、その儀式。延期の報せを受けるたび、胸の奥で小さく何かが折れる音を聞きながら、それでも「殿下にはご事情がおありなのだ」と自分に言い聞かせてきた、その儀式。  ようやく。  胸の奥で、小さな灯火のようなものが揺れた。凍えきった指先に、ほんのわずかだが血の気が戻ってくるような気さえした。婚約者として正式に認められれば、この孤独な奉仕に誰か隣り合ってくれるかもしれない。殿下はきっと、民の前で労いの言葉をくださるだろう。聖女ではなく、妻として扱ってくれる日が来るかもしれない。温かい食事を、同じ卓で。眠れぬ夜に、同じ窓から月を。彼の手が、ただ一度でいい、自分の骨ばった指を包んでくれたなら──それだけで、この冷えきった身体のどこかに、まだ人間のぬくもりが残っていることを確かめられる気がした。  そう思いたかった。そう信じたかった。縋るように、そう願った。

「──承りました。必ず、参ります」

 声は震えなかった。微笑みも崩れなかった。長年の訓練が、こういうときだけは彼女を裏切らない。伝令は安堵したように一礼し、扉の外へ消えていく。足音が遠ざかるのを待って、エレノアは書状を胸に抱き、ゆっくりと息を吐いた。封蝋の赤が、祭服の白にじんわりと熱を移すようだった。その熱は、ほんとうは蝋の残熱にすぎないと分かっていた。それでも彼女は、胸に抱いた指の力をほんの少し強め、まるでそこに殿下の心臓の鼓動があるかのように、しばらく目を閉じていた。

 窓の外では、雪が降り始めていた。  白い粒が音もなく祭壇の屋根に積もっていく。冬の到来は早かった。例年よりずっと早い。結界が薄くなってきている証拠だと、彼女だけが知っている。明日の儀式の後、また一晩中祈り続けなければならないだろう。婚約披露の晴れ姿のまま、誰にも見られぬ祭壇で、一人きりで。  それでも、彼女は白布を再び払い、鏡の中の女に向き直った。

「──大丈夫。きっと、明日から変わるわ」

 鏡の中の痩せた女は、答えなかった。  ただ、その落ち窪んだ瞳の奥で、何か小さな光が、消えかけの蝋燭のように揺らいだ。  信じたいと願う光と、もう信じてはいけないと囁く光とが、同じ目の中で戦っていた。どちらが勝つのか、エレノア自身にもまだ分からなかった。ただ、負けた方の光が消えたとき、自分の中で何かが決定的に終わるのだということだけは、奇妙な確信として胸に落ちていた。

 窓の外、雪はいっそう強くなる。  大聖堂の鐘が、遠く低く、明日を告げて鳴り始めた。

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