Novelis
← 目次

白百合は二度咲く──竜帝の腕の中で

第2話 第2話

第2話

第2話

雪は夜通し降り続け、朝には王都の屋根という屋根を白く塗り替えていた。

 エレノアは白百合の礼装に袖を通し、大神殿の回廊を歩いていた。裾の縁には銀糸で百合が縫い取られ、胸元には聖女の印である白金の鎖。三年間、衣装箱の奥で眠り続けていた一式だった。侍女はいない。襟の留め具を自分の指で掛けるとき、爪の先が皮膚に食い込んで、小さな痣を作った。痣は白い肌によく目立った。  鏡の前には立たなかった。昨夜の痩せた女をもう一度見る勇気がなかった。ただ、胸元の鎖に指を添えて、そっと息を整えた。冷たい金属は、皮膚の上で少しも温まらなかった。  迎えの馬車が神殿前に停まる。御者は一礼もせず、扉だけを開けた。雪を踏む蹄の音が、いやに軽い。聖女を乗せる馬車にしては、車輪の軋みもどこか投げやりだった。  馬車が動き出すと、窓の外を王都の尖塔が流れていく。屋根の雪に朝日が差し、光の粒が散っていた。けれど、街路の石畳に目を落とせば、そこにはところどころ黒い染みが点々と残っている。治癒院から運び出された病人の吐瀉の跡だと、すぐに分かった。彼女が昨夜精製した聖水は、もう足りていない。  胸元の鎖を握り直す。

 ──大丈夫。きっと、今日から変わる。

 昨夜、鏡に向かって呟いた言葉を、もう一度、今度は唇の中だけで転がした。信じたい光の方を、自分の手で掬い上げるように。

 大聖堂の尖塔が近づいてくる。鐘が鳴っていた。婚約披露の日だけに鳴らされる、七連の慶祝の鐘。けれどエレノアの耳には、なぜかその音が、弔鐘のようにも聞こえた。

 神殿の大扉をくぐった瞬間、空気が変わった。

 香炉から立ちのぼる没薬の煙が、いつもより濃い。鼻の奥をちくりと刺す、甘く焦げた樹脂の匂い。三年前、初めてこの大聖堂に立ったあの日も、同じ香りがしていたはずだった。けれど、あのときの没薬はもっと澄んで、祈りの糸のように細く立ちのぼっていた。今日の煙は、何かを覆い隠そうとするように、重く、粘るように床を這っていた。  煙の向こうに、貴族たちが詰めかけて居並んでいるのが見えた。深紅、紫紺、金糸の礼装。扇の影から、無数の視線が彼女に向けられる。祝福の視線ではなかった。何かを値踏みする視線、あるいは、明日の噂話の種を探す視線。ひそやかな囁きが、羽虫の群れのように耳の縁をかすめていく。「あれが……」「まあ、ずいぶんとお痩せになって」「三年も籠もっておられたのでしょう」──言葉の切れ端が、足音のあいだに差し込まれて、靴底にまとわりついた。  エレノアは背筋を伸ばし、壇上へと続く紅い絨毯の上を歩き始めた。裾が絨毯を擦る音すらも、ざわめきに吸い込まれて届かない。一歩ごとに、膝の裏がかすかに震えた。空腹のせいか、緊張のせいか、もう自分でも区別がつかなかった。  壇上には、すでに王太子ユリウスが立っていた。  金の髪。青い瞳。三年前に初めて見たときと変わらぬ、彫像のような美貌。エレノアの胸は、反射のように小さく跳ねた。──けれど、次の瞬間、彼女の足が、わずかに止まった。  王太子の傍らに、もう一人、女が立っていた。  深紅の絹を纏い、豊かな黒髪を背に流した若い女。胸元には、聖女でもない者が身に着けるはずのない、小ぶりな白金の護符が揺れていた。王太子の肘に、彼女の指先がさりげなく添えられている。添える、というより、そこに自分の居場所があると当然に主張する指の置き方だった。  寵姫ミレイユ。  半年前、南方の踊り子上がりの娘として王宮に上がった、と噂で聞いた名。エレノアは直接会ったことがなかった。会う暇もなかった。祈禱と聖水精製と治癒の儀式の合間に、噂話を拾う時間など残されていなかったから。  なぜ、ここに。  婚約披露の壇上に、なぜ彼女が。しかも、あの白金は──聖女の鎖と同じ素材の、小さな双子のような護符は、いったい誰が、どの権限で、彼女の胸に掛けたのか。

 エレノアの歩みが、ほんのわずか、遅れた。

 その遅れを、ミレイユは見逃さなかった。  濡れたような黒い瞳が、まっすぐにエレノアを捉える。紅い唇の端が、ゆっくりと吊り上がった。笑みではなかった。笑みの形をした、何か別のものだった。──獲物を見定める猟犬が、舌の先で唇を舐めるような、そういう動き。  エレノアは息を呑んだ。呑んだ息は、喉の奥で氷の粒に変わった。胸の奥で、何かが警鐘のように小さく鳴っている。三年間、病人の脈の乱れを指先で読み続けてきた聖女の勘が、今、自分自身の心臓の上で同じ乱れを数えていた。  壇上の階段を、一段ずつ登る。登るたびに、ミレイユの視線が皮膚の上を這い回る感触がした。祭服の下、骨の浮いた鎖骨、落ち窪んだ鎖骨の影、そのすべてを、値踏みされている。見られている、というより、測られている。この女が、何を持ち、何を失い、何を差し出せるのか。そして、何を奪えるのか。  王太子は、微笑んでいた。けれどその微笑みは、エレノアに向けられているのではなかった。視線の先は、彼女の肩のわずかに上──ミレイユの方に、うっすらと戻っていた。まるで、そちらに灯る小さな火から、目を離したくないとでもいうように。  エレノアは所定の位置に立ち、膝を軽く折った。礼装の裾が、絨毯の上で花のように広がった。その一瞬だけ、自分がまだ聖女であるという事実に、縋るような気持ちになった。

「殿下。お召しのままに、参じましてございます」

 声は震えなかった。長年の訓練が、今日もまた彼女を裏切らない。けれど、その声の芯には、彼女自身にしか聞こえない細い罅が、すでに一本、確かに走っていた。  王太子は短く頷いた。頷いただけだった。労いの言葉も、三年ぶりの婚約者への挨拶も、なかった。目を合わせることすら、なかった。  そのとき、ミレイユが、王太子の袖をそっと引いた。

 ほんのわずかな動作だった。けれど、大聖堂の貴族たちの視線は、一斉にその指先に吸い寄せられた。  ミレイユは、爪先立つように伸び上がり、王太子の耳元に唇を寄せた。黒髪が一房、絹の肩から滑り落ちる。甘い香油の匂いが、没薬の煙を押しのけるように、ふわりと壇上に広がった。場違いなほど濃い、花と蜜を煮詰めたような香りだった。  何を囁いたのか、エレノアの位置からは聞こえない。  ただ、囁きのあいだ、ミレイユの瞳はずっと、エレノアの方を見ていた。見ながら、微かに笑っていた。囁きの言葉が、自分に向けた刃であると、はっきり知らせるために。

「──視えましたの」

 その一言だけが、風に乗ってエレノアの耳に届いた。  視えました。  何が。誰に。  問い返す暇はなかった。王太子の肩が、ぴくりと跳ねた。金色の睫毛が、一度だけ伏せられる。それから、ゆっくりと持ち上がった青い瞳は──もう、エレノアの知る色ではなかった。  瞳の奥に、暗い光が灯っていた。  澄んだ青の底に、墨を一滴垂らしたような、濁った影。それは疑念にも似ていたし、怒りにも似ていた。けれど、いちばん近かったのは、決意、だった。  何かを決めた男の目だった。いや──何かを決めさせられた男の目、と言った方が近いのかもしれない。  王太子ユリウスは、ミレイユの肩をそっと抱き寄せ、彼女の額に軽く唇を落とした。貴族たちのあいだから、小さなどよめきが漏れる。扇の陰で交わされる囁きが、ひときわ鋭くなる。壇上のエレノアの眼前で、ためらいもなく。

 エレノアの指先が、礼装の裾を握った。絹は冷たく、汗ばんだ手のひらの下で、しわを作った。握りしめた指の関節が、白を通り越してほとんど青くなっていた。  ──視えた、とは。  不吉な予感が、背骨の芯を、霜のようにゆっくりと下っていく。寵姫が「神託」を騙るという噂は、前から耳にしていた。半年前から治癒院の数字が合わなくなった原因のひとつは、彼女の「神託」のせいではないかと、若い神官の一人がそっと教えてくれたこともあった。「聖女さま、あの方の言葉を、王太子殿下が信じ始めておられます」──震える声で、彼はそう言った。あのときは、まさか、と笑って流したのだ。祈りに戻らねばならない、病人が待っている、と。  笑って、流した自分の迂闊さが、今ようやく、氷の刃となって首筋に当たっていた。あの若い神官の怯えた横顔を、どうしてもっと、真剣に受け止めなかったのだろう。

 王太子が、ゆっくりとエレノアの方へ向き直った。  青い瞳の奥の暗い光が、まっすぐに彼女を捉える。その視線は、三年間の婚約者に向けるものではなかった。壇上の聖女に向けるものでもなかった。  ──値踏みされている。明日の薪として、どれだけ燃えるかを。

 大聖堂の鐘が、七連の慶祝の最後の一打を鳴らし終えた。  余韻が高い天井に吸い込まれていく。その静寂のなかで、王太子の唇が、ゆっくりと動き始めた。  エレノアには、まだ、その唇が何の言葉を形作ろうとしているのか、分からなかった。分かりたくなかった。  ただ、胸元の白金の鎖が、皮膚の上で、ふいに、ひやりと重さを増した。  まるで、自ら剥がれ落ちる日を、もう知っているかのように。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ

第2話 - 白百合は二度咲く──竜帝の腕の中で | Novelis