第3話
第3話
王太子ユリウスの唇が、ゆっくりと開いた。
大聖堂の空気が、その一瞬、石のように固まったのをエレノアは感じた。没薬の煙さえ、貴族たちの頭上で動きを止めたように見えた。高い天井のステンドグラスを透かして落ちてくる朝の光が、壇上の紅い絨毯に青と金の斑を作っている。その斑の上に、彼女の白百合の影が、細く頼りなく横たわっていた。 エレノアは胸元の白金の鎖に、指を添えようとした。添えようとして、指が止まった。鎖は、もう温まることを諦めた金属のように、ただ重かった。 王太子の青い瞳は、まだ濁っていた。濁ったまま、ミレイユの腰に回した腕をほどこうとしない。寵姫の指先は、王太子の袖の刺繍の上を、猫の爪のように小さく往復している。爪が絹を撫でるたび、ユリウスの喉仏が一度ずつ、小さく上下した。 何かを、飲み下している。 言うべき言葉を、あるいは、言うべきでない言葉を。エレノアにはもう、どちらが飲み下されたのか、見分けがつかなかった。
「──皆の者」
王太子の声が、大聖堂の石壁に跳ね返った。 よく通る、澄んだ声だった。三年前、初めて拝謁の間で聞いたときと、同じ響き。けれど、その声の裏側に、今日は細い糸のような震えがあった。耳のいい者にしか聞こえない震え。三年間、病人の呼吸を数え続けてきた聖女の耳だけが、その一本の糸を拾い上げた。 糸は、決意の糸ではない。縋る糸だった。誰かに背中を押されて、自分でも半ば信じ切れていない言葉を、無理やり口から押し出そうとしている男の糸。 エレノアは、膝を軽く折ったまま、顔を上げた。
「本日は、我が婚約披露の儀として集うていただいた。──だが」
だが。 その一語で、貴族たちのざわめきが、さっと引いた。扇が止まる。裾の衣擦れが止まる。没薬の煙だけが、また、のろのろと床を這い始めた。
【展開】
「だが、神はこの儀を、祝福してはおられぬようだ」
王太子の指が、ゆっくりと持ち上がった。 その指先は、まっすぐに、エレノアを指していた。
「白百合の聖女エレノア。──そなたに、問いたき儀がある」
大聖堂が、息を呑んだ。 貴族たちの視線が、壇上の一点に突き刺さる。紫紺の礼装の老公爵が扇を取り落とし、石畳に乾いた音を立てた。その音が、静寂のなかで異様に大きく響いた。 エレノアは、動けなかった。動けなかったのではない。動いてはならない、と三年間の訓練が命じていた。聖女は、壇上では石になる。石のまま、王太子の言葉を受け止める。 受け止める。 受け止めた先に、何があるのかを知らぬまま。
「半年前より、この王都の結界は綻びを見せている。治癒院の聖水は濁り、病人は増え続け、農村では家畜が理由もなく死ぬ。──何故か」
王太子の声が、少しずつ高くなっていく。自分の声に、自分で熱をくべていく話し方だった。ミレイユの指先は、まだ彼の袖を撫でている。撫でながら、寵姫の唇の端は、わずかに、わずかに吊り上がっていた。 エレノアは、その唇を見た。見て、理解した。 ──この男は、今、寵姫の舌の上で踊らされている。
「昨夜、我が寵姫ミレイユは、神託を得た」
神託。 その言葉に、エレノアの背筋が、凍った。聖女ではない者が神託を騙ること自体、本来ならば重罪である。それを、婚約披露の壇上で、王太子自らが宣言している。 宣言できてしまう、ということの意味を、エレノアは今ようやく、骨の髄まで理解した。 この国の神殿は、もう、聖女を守る力を持っていない。
「ミレイユは、視た。──結界を内側から蝕む、黒い影を。その影は、白百合の祭壇から立ちのぼっていた、と」
貴族たちのあいだから、悲鳴に似た声が漏れた。若い令嬢の一人が、隣の母親にしがみついた。老公爵は落とした扇を拾おうともせず、ぽかんと口を開けて壇上を見上げていた。 エレノアは、ただ、王太子の青い瞳を見ていた。 濁った青の底で、何かが必死に、言い訳を探している。それは愛した女の言葉を信じたいという欲望であり、同時に、三年間自分を支えてきた聖女を切り捨てる罪悪感の、最後の残り火だった。 けれど、火は小さい。寵姫の指先の風で、すぐに消える程度の、頼りない火だった。
「白百合の聖女エレノアよ。──そなた、魔を引き入れた覚えはあるか」
問いの形をしていた。 けれど、それは問いではなかった。答えを必要としない、判決の前置きだった。 エレノアの唇が、ゆっくりと開きかけた。弁明の言葉を、一つだけでも──この三年間、誰にも知られず血を吐いた夜のことを、祭壇の白布に飛び散った赤い染みのことを、たった一人で精製し続けた聖水の数を、どれか一つだけでも──。
「お答えは、不要でございます」
ミレイユの声が、横から滑り込んできた。 甘く、低く、蜜のように粘る声だった。
「罪ある者の口からは、罪の言葉しか出ませぬゆえ」
【転機】
エレノアは、ミレイユを見た。 初めて、正面から、その瞳を見た。 濡れたような黒い瞳の奥に、神託の光などなかった。あるのは、もっと単純な、もっと古い光。──欲しい、という光だった。王太子の隣という場所が欲しい。白金の鎖が欲しい。この国のすべてが欲しい。そのために、邪魔な女を一人、壇上から引きずり下ろすことを、彼女はもう決めている。 決めた人間の目は、こんなにも澄むのだ、とエレノアは思った。皮肉なほどに。自分の三年間の祈りよりも、この女の半年の欲望のほうが、よほど迷いなく澄んでいる。瞳の底に揺らぎがない。罪悪感の影さえない。ただ、手に入れたいものが一つだけ、はっきりと映っている。そういう目だった。 ふいに、ミレイユの唇が、ほんのわずか動いた。声にはならなかった。けれど、その形をエレノアの目は読み取ってしまった。 ──ごきげんよう、お姉さま。 花蜜の香油が、ひときわ濃く鼻先をかすめた。甘いのに、喉の奥が灼けるような、嘘の匂いだった。胃の腑が、冷たく裏返る。 そして同時に、理解した。 弁明は、無駄だ。
「──聖印剥奪の儀を執り行う」
王太子の声が、大聖堂の奥から神官長を呼び出した。 白髪の神官長が、震える足取りで壇上に上がってくる。その手には、銀の小刀と、白絹の布。聖印剥奪の儀──聖女の胸元から、白金の鎖を断ち切り、祭服の上の聖印を削ぎ落とす、背教者のための儀式。三百年前、最後に執り行われたのは、魔族と通じたとされた聖女に対してだった、と経典にある。 三百年。 その三百年の断絶を、今日、この男は、寵姫の囁き一つで飛び越えようとしている。 神官長の目が、エレノアと合った。老いた瞳のなかに、謝罪と、恐怖と、諦めが、同じ濃さで揺れていた。「聖女様、申し訳ございませぬ」と、その瞳は言っていた。言いながら、銀の小刀の柄を握り直していた。握り直す指が、震えていた。震えながらも、止まらなかった。 エレノアは、ゆっくりと息を吸った。 吸った息の奥に、没薬の甘い焦げた匂いと、ミレイユの花蜜の香油と、自分自身の、三年ぶんの乾いた肌の匂いが混じっていた。 不思議と、涙は出なかった。 涙を流すには、彼女の身体にはもう、水分が足りなすぎた。昨夜の祭壇で、すべて結界の維持に捧げてしまったから。 その代わり、胸の奥で、昨夜の鏡のなかの女が、ゆっくりと顔を上げた。落ち窪んだ瞳で、まっすぐにエレノアを見ていた。見ながら、今度ははっきりと、頷いた。 ──もう、信じてはいけない、と。
「殿下」
エレノアは、一言だけ発した。 その一言は、震えなかった。微笑みも、崩れなかった。三年間の訓練は、最後まで彼女を裏切らなかった。
「御意のままに」
貴族たちが、ざわめいた。弁明も、抗議も、涙もない聖女の姿に、彼らの方がたじろいだのだ。王太子の青い瞳が、一瞬だけ、ぐらついた。濁りの底で、最後の残り火が、消える前に一度だけ跳ねた。 けれどミレイユが、その腕に自分の身体をすり寄せた瞬間、火は消えた。 神官長が、銀の小刀を振り上げた。
【引き】
白金の鎖が、切れた。
石畳の上に、小さな金属音が二度、跳ねた。母の形見の銀の鎖が、祭服の襟元から一緒に滑り落ち、エレノアの爪先の前で、白金のそれと静かに並んだ。三年間、皮膚の上で冷たく泳ぎ続けてきた二本の鎖が、初めて、同じ床に身を横たえた。 神官長の小刀が、祭服の胸元の聖印に触れた。 銀の刃が白絹を裂く、かすかな音。 貴族たちの誰かが、息を呑む音。 ミレイユの唇の端が、もう一段、吊り上がる音。
エレノアには、それらの音のすべてが、遠い雪の向こうから聞こえてくるようだった。 大聖堂の高窓の外で、雪がまた、降り始めていた。昨夜よりも、強く。 彼女は、ゆっくりと目を閉じた。瞼の裏で、鏡のなかの痩せた女が、最後に一度だけ、微笑んだ。 ──さようなら、白百合の聖女。 その微笑みを合図に、神官長の刃が、聖印の縁に、深く沈んだ。