第2話
第2話
扉が閉まる音は、聞こえなかった。
代わりに、フロア中の呼吸がいっせいに浅くなったのを、背中で感じた。紙をめくる音さえ止まっている。蛍光灯の微かな唸りと、誰かのパソコンのファンの音だけが、遠い国の雨みたいに鳴っている。私は俯いたまま、膝の上の手を握り直した。爪の跡の上に、また新しい跡が重なる。痛みはもう感じない。痛みを感じる余裕が、どこかに行ってしまった。
「——お手元の資料を、ご覧ください」
低い声が、またフロアの空気を一段下げる。比喩じゃない。肌が、本当にそう感じる。七度のループで何度も想像してきたその声を、私はいま、同じ部屋で聞いている。それだけで、指先の感覚が遠のいていく。総務の端、窓際から二番目。私の席からは、彼の立つ位置までちょうど対角線の距離があった。見えない糸で結ばれているわけでもないのに、その対角線がいやに長く、いやに真っ直ぐに感じられた。
「統合の方針については、追って個別に説明します。本日は、顔合わせと現場の把握が目的です」
余計な前置きも、社交辞令もなかった。挨拶の温度のなさに、隣の席の先輩がかすかに身じろぎする。椅子の軋む音が、いやに大きく響いた。総務課長は何度も頷きながら、額に浮いた汗をハンカチで押さえていた。ハンカチの端には見覚えのある刺繍——課長の奥さんが毎年新調しているという、小さな四つ葉のクローバー。七度のループで何度も目にしてきたそれが、今日はやけに頼りなく、しおれて見えた。私はその光景を、水槽の外から眺めるような気分で見ていた。ガラス越しに、音がすこしだけ遠い。人の輪郭が、ほんのわずかに歪んで見える。——大丈夫。私は空気。誰の視界にも入らない。いつものように、空気のふりをしていれば、この時間は過ぎていく。呼吸を、できるだけ浅く。肩を、できるだけ小さく。七度分の習い性が、勝手に身体を縮めていく。
俯いた視界の端で、革靴の先がゆっくり動いた。一歩、また一歩。規則正しい足音が、島と島の間の通路を進んでくる。スチール製の机の脚に、靴底の反響がこつんと跳ね返る。一歩ごとに、フロアの誰かが息を詰め、一歩ごとに、誰かの肩がわずかに強張るのが、俯いたままでも気配でわかった。誰かの椅子の脚が、遠慮がちに引かれる音。誰かが小さく咳をして、すぐにそれを恥じたように黙った。空調の風が、天井のダクトから乾いた息を吐き出している。その風に乗って、微かに、嗅ぎ慣れない匂いが流れてきた。インクでも煙草でもない、鉱物のように冷たい、知らない香水の匂い。雪解けの水を指先で掬ったときの、あの無機質な静けさに似ていた。足音は、総務の島の手前で一度止まり、それから、端の方へ向きを変えた。
——こっちへ、来ないで。
祈りに似た声が、喉の奥で潰れた。舌の裏が、鉄の味がした。
革靴の先が、私の机の斜め前で止まった。黒い爪先に、蛍光灯の白が一本の線になって映り込んでいる。その線が、ほんの少しも揺れない。
「この資料は」
声が、真上から落ちてきた。高くも低くもない、体温のない声。けれど不思議と、耳の奥の柔らかい場所を、正確に撫でていくような響きがあった。
私の机の端に置かれた古いファイル。三年前の統合検討資料。七度目のループで、私が暇つぶしに整理しておいた代物だ。誰も読まない。誰も覚えていない。そのはずだった。背表紙の色褪せたラベルに、自分の丸っこい字が残っている。七度前の私が、何を思って書いたのかも、もう覚えていない。
「誰が、まとめました」
課長が慌てて振り返る。椅子のキャスターが、床のタイルの継ぎ目に引っかかって、きゅっと小さく鳴いた。視線が、総務の島を端から端へ走って、最後に私の席で止まった。課長の口が、半開きのまま固まる。「えっと、それは、その」と、何度か空回りしたあと、ようやく掠れた声で私の名前を呼んだ。
「早乙女、さん。——早乙女さんが、まとめた、と」
フロアの視線が、一斉に私の背中に集まるのがわかった。見えない無数の指で、背骨をなぞられているような感覚。空気だったはずの私の輪郭が、急に濃く縁取られていく。俯いたまま立ち上がるわけにもいかず、かといって座ったままでいるのも失礼な気がして、私は結局、半分だけ腰を浮かせた中途半端な姿勢で、「……はい」と答えた。自分の声が、自分のものではないみたいに薄かった。舌が乾いていて、「はい」の最後の母音が、途中でかすれて消えた。
革靴の先は、動かなかった。
顔を上げろ、とは言われなかった。けれど、上げなければいけない気がした。ここで俯いたままやり過ごせば、何かが終わる——そんな予感がした。七度分の諦観が、喉元までせり上がってきて、それを押し戻すのに、指先の爪がまた手の甲に食い込んだ。小さな三日月の跡が、もう何個目かもわからないくらい、皮膚の上に重なっていく。
私は、ゆっくり、顔を上げた。
視線が、合った。
冷たい、というのは正確じゃなかった。澄んでいる、という言葉の方が近い。何層もの水を重ねた底に、静かに沈んでいる黒。その黒の中に、天井の蛍光灯がふたつ、小さな光の点となって映り込んでいる。記事の行間で、何百回も想像してきた瞳。想像の中の彼は、いつもこちらを見ていなかった。遠くの何かを見据えていた。でも、いま、目の前にいる彼は——私を、見ていた。ひとつのこぼれもなく、ひとつの逃げ場もなく、ただまっすぐに、私という輪郭だけを。七度のあいだ一度も誰の網にもかからなかった私という存在が、その黒い水の底に、音もなく掬い上げられていく。背筋の産毛が、ひと筋ずつ起き上がるのがわかった。息を吸うことも、吐くことも、忘れた。喉の奥で、言葉にならない小さな音が、鳥の羽ばたきみたいに一度だけ震えた。
ほんの数秒だったと思う。
けれど、その数秒の間に、私の八度目の朝がまるごと裏返ったような気がした。胸の奥で、長いあいだ止まっていた何かの歯車が、ぎし、と一度だけ軋んだ。
彼は、ファイルの表紙をもう一度だけ見下ろして、それから、課長の方へ視線を戻した。
「結構です。進めてください」
それだけだった。足音が、また規則正しく通路を戻っていく。課長が慌てて姿勢を正し、誰かがようやく息を吐いた。その息の音が、フロアのあちこちで小さな水泡のように連鎖した。私はへたり込みたくなる膝を、机の縁で必死に支えた。半分浮かせた腰を、そのままそっと椅子に下ろす。椅子の革が小さく鳴った音が、妙にくっきり耳に残った。太ももの裏に、じっとりと汗が滲んでいた。いつからかいていたのかも、気づかなかった。
会議は、それからいくつかの事務連絡と、形ばかりの質疑で、あっさり終わった。統合の具体的なスケジュール、部署ごとの対応窓口、先方との連絡経路。どれもが、私が七度のループで一度も触れたことのない単語たちだった。メモを取る指が、途中から自分のものではないみたいに勝手に動いていた。ノートの罫線の上を滑るシャーペンの音だけが、かろうじて私を現実につなぎとめていた。書き留めた文字は、あとで読み返しても意味が取れないほど、ひどく震えていた。
散会の号令がかかったとき、フロアの緊張が一度にほどけて、あちこちで小さなどよめきが起きた。誰かが「やばいって、あの人」と囁き、誰かが「うちの課長、死にそうな顔してたな」と笑った。笑い声は、どれも少し上ずっていた。安堵と、好奇心と、逃げ切れた者だけの残酷さが、混ざり合って天井に昇っていく。私はそのざわめきを遠くに聞きながら、机の上のファイルを引き寄せて、胸の前で抱え直した。古い紙の匂いが、妙に懐かしかった。指先に触れる背表紙の、ささくれた角の感触までが、どこか遠い親戚のように優しかった。——さあ、席を立とう。いつものように、給湯室でマグカップを洗って、午後の伝票整理に戻ろう。いつものように。
「——早乙女さん」
課長の声が、背中から追いかけてきた。
振り返ると、課長は申し訳なさそうに眉を下げていた。その後ろ、フロアの入り口に、背の高い影が立っている。逆光の中で、スーツの黒だけが、そこにぽっかり穴を開けたように濃かった。窓の外の午前の光が、その輪郭をかえって曖昧に溶かして、現実の人影なのかどうかさえ、一瞬わからなくなる。
「黒崎さんが、あなたに話があるそうだ」
フロアの残響が、すうっと遠ざかっていった。耳の奥で、七度分のループが、順番にドアを閉めていく音がした。
私の名前は、誰の記憶にも残らないはずだった。
それなのに、その名前を、彼は、もう、呼んでいる。
机の端に置いたマグカップの、取っ手の内側の小さな欠けが、光の加減でほんの一瞬、きらりと光った気がした。
八度目のループの歯車が、音もなく、一段深いところで噛み合った。