Novelis
← 目次

八度目の朝、君だけが覚えていた

第3話 第3話

第3話

第3話

課長の「話があるそうだ」という声は、どこか遠くの駅のアナウンスみたいに耳を通り過ぎていった。

 私はゆっくりと椅子から立ち上がる。立ち上がるという動作が、こんなにも手順の多いことだったかと、他人事のように思う。膝を伸ばし、スカートの皺を手のひらで撫で、胸の前で抱えていたファイルをそっと机に戻す。戻すときに、ファイルの角が机の縁に当たって、こつ、と小さく鳴った。その音が、やけに遠くから聞こえた。フロアの視線は、もう私の背中にはなかった。みんな、自分の仕事に戻ったふりをしながら、それでも耳だけはこちらに向けている。七度分のループで嫌というほど見てきた、あの「好奇心を装わない好奇心」の空気。いつもなら気づかないふりで通り過ぎられるのに、今日はひとつひとつの視線の重さが、肩甲骨のあたりに小さく刺さる。

 入り口の逆光の中で、黒い人影は微動だにしない。歩み寄る私の足音だけが、タイルの上でぎこちなく響いた。ヒールの高さは三センチ、七度のループで一番疲れない高さ。その音の間隔さえ、いつもと違って聞こえる。近づくほどに、さっきの鉱物のような香水の気配が、ほんの少しずつ濃くなっていく。呼吸が浅くなる。浅くしたつもりはないのに、勝手に浅くなる。

「総務の、早乙女です」

 訂正するときの、あの調整された音量で名乗った。相手に罪悪感を抱かせない声。七度分の技術。けれど、その声は、言い終わる頃には自分でも驚くほど頼りなく掠れていた。黒崎玲司は、ほんの短く顎を引いた。頷きとも取れない、微かな動作。それから、フロアを出る方へ視線を流した。ついてこい、という意味だと、言葉にされる前にわかった。

 給湯室の前の、短い廊下。普段なら誰かがコピー機の順番待ちで立っている場所が、今日はどうしてか無人だった。蛍光灯のひとつが、かすかにちらついている。七度のループの中で、ここの蛍光灯が切れかけているのを私は知っている。来週の水曜日に、総務の新人が脚立を持ってきて交換するはずだ。そんな枝葉の予定が、頭の隅で勝手に再生される。再生しながら、私は自分の両手を体の前で組んだ。組んだ指先が、氷みたいに冷たかった。

 黒崎玲司は、廊下の壁に背を預けるでもなく、ただ立っていた。立っているだけで、そこが面接室みたいに見えた。

「ファイルの話じゃない」

 前置きも、世間話もなかった。低い声が、蛍光灯のちらつきの隙間に、すとん、と落ちてくる。私は顔を上げる。上げた瞬間、またあの黒い水の底と目が合った。今度はフロアの真ん中ではなく、二人きりの狭い廊下で。逃げ場の作りようが、最初からなかった。

「君、前にも会ったことがあるな」

 時間が、軋んだ。

 軋む、という音を、体の内側で初めて聞いた気がした。耳鳴りでも、心臓の音でもない。もっと深い場所——たぶん七度分の記憶が重ねて積まれている、私という人間の底の部分で、錆びた金具が一度だけ、ぎ、と鳴った。呼吸が、途中で止まった。止めたつもりはないのに、肺が指示を受け付けなかった。

「……いえ」

 やっと出た声は、他人の声だった。

「初めて、お目にかかります」

 七度のループで何百回と唱えてきた、無難な日本語。空気として生き抜くための、最も擦り切れたお守り。それを差し出しながら、私は必死に自分の瞳の奥を伏せようとした。けれど、視線は外れなかった。外させてもらえなかった、という方が正しい。黒崎玲司の目は、私の答えの表面ではなく、その下の、もっと深い場所を静かに探っていた。

「そうか」

 彼は、否定も肯定もしなかった。ただその一音を、廊下の床にそっと置くように落とした。

「気のせいかもしれない」

 言いながら、けれどその口調には、気のせいで済ませる気配がなかった。唇の端が、ほんの一ミリ動いたように見えた。笑ったのか、苦さを噛んだのか、判別はつかない。蛍光灯が、また一度ちらつく。その瞬きの間に、私は自分の膝から力が抜けかけるのを、靴の中で指を丸めて耐えた。

「統合の件で、追って呼ぶ」

 彼は、それだけ言って、踵を返した。黒い背中が、廊下の向こうへ遠ざかっていく。私は壁に手をつく寸前で踏みとどまり、そのまま何秒か、あるいは何分か、呼吸の仕方を思い出すために立ち尽くしていた。天井の蛍光灯が、こちらを宥めるようにまた一度、微かに揺らいだ。

 退勤の時間が、どうやって来たのか覚えていない。

 気がつくと、私は駅のホームに立っていた。春の夜の、少しだけ湿った風が、ブラウスの襟元を撫でていく。改札をくぐった記憶も、ICカードをタッチした感覚もない。それでも、足は知っている順路を勝手に歩いて、いつもの位置——後ろから三両目の、一番扉の前に私を運んできた。線路の向こうの看板の光が、にじんで見えた。泣いているわけではなかった。ただ、焦点の合わせ方を忘れかけていた。

 イヤホンをつけていないのに、耳の奥で、あの声が繰り返し再生されていた。

「君、前にも会ったことがあるな」

 七度のループで、一度だって交わしたことのないセリフ。画面の向こうの記事の行間にも、SNSのタイムラインにも、インタビュー動画にも、そんな言葉はなかった。あの声を、私は知らないはずだった。知らないはずの声が、耳の中で、私だけに向かって、何度でも同じ一文を繰り返す。電車がホームに滑り込んでくる。アナウンスが流れる。それらの音の上に重なって、なお、あの声だけが粒立って残っている。

 吊り革に掴まりながら、私は窓ガラスに映る自分を見た。八度目の朝に見たのと同じ顔。同じ前髪、同じ疲れた目。けれど、ひとつだけ違っていた。

 目の奥の、暗さの底に、小さな波紋がひとつ揺れていた。

 波紋。そう、波紋だ。今朝の私の瞳は、凍った湖みたいに平らだった。それがいま、たしかに揺れている。誰かが石を落としたから揺れているのではない。誰かに、覗き込まれたから揺れているのだ。覗き込まれた湖は、もう元の鏡面には戻れない。

 ——変わった。

 認めたくなかった言葉が、喉の奥で勝手に形になった。七度のループで、世界はひとつも私に譲歩しなかった。牛乳をコーヒーに変えても、髪を切っても、休んでも、早退しても、運命は眉ひとつ動かさなかった。それが今日、たった一人の男の、たった一言で、歯車のひとつが明らかに別の向きに回り始めている。ループは、変わる。変えられる、のではなく、すでに変わってしまっている。その事実が、冷たい水みたいに背骨を伝っていく。

 怖かった。

 怖さの中に、名前のつけられない、もうひとつの感情が混ざっていた。喉の奥で、鳥の羽ばたきに似たあの小さな震えが、今朝よりほんの少しだけ、長く尾を引いていた。私はそれを見なかったふりをして、吊り革をもう一度、強く握り直した。

 家の最寄駅で降り、改札を出る。いつもの自販機の前で、いつもはしない行動を、体がした。小銭入れの中から百二十円を取り出し、温かいカフェラテのボタンを押す。温かいものを買ったのは、八度分のループで今夜が初めてだった。缶の底の熱が、手袋越しでもない素肌の手のひらに、じんわりと沁みてくる。沁みてきて、初めて、自分の指先がどれほど冷たくなっていたかを知った。

 アパートの階段を上がり、鍵を回す。玄関の三和土に立ったまま、私はバッグの中からスマホを取り出した。ロックを解除した指が、迷いもなく検索バーに文字を打ち込んでいく。

 「黒崎玲司」

 七度分のループで何千回と打ってきた名前。けれど今夜、検索結果の一番上にある古いインタビュー記事を、私は開かなかった。代わりに、動画の項目をタップした。去年の経済誌の対談動画。耳にイヤホンを差し込み、再生ボタンを押す。画面の中の彼は、やはりこちらを見ていない。遠くを見据え、低い声で、買収戦略の話をしている。

 その声と、今日、廊下で聞いた声を、私は重ねた。

 同じだった。同じで、けれど、ひとつだけ違っていた。今日の声は、私のことを——私という輪郭のことを、たしかに、見ていた。画面の向こうの声は、誰のことも見ていない。この差が、この、たった一人分の差が、八度目のループの歯車を確実にずらしてしまったのだ。

 イヤホンを外し、カフェラテを一口飲む。舌の上に、甘さと苦さが、ふたつに分かれて乗った。七度のループで、私は味覚を半分諦めていた。どうせ同じ朝がくるのだから、何を飲んでも同じだと。でも今夜の一口は、ちゃんと、味がした。

 スマホの画面を消そうとした、その瞬間だった。

 通知が、ひとつ震えた。社内ポータルからの連絡。件名の短い一行を、私は二度読み直した。

 ——統合準備室への招集。メンバー欄の末尾に、見慣れない記号のように、自分の名前が並んでいる。

 画面の上で、指先が止まった。缶の底の温度が、手のひらの真ん中に、じんわりと一点だけ、灯のように残っていた。

この話はいかがでしたか?

最新話です

次の更新をお楽しみに!