第2話
第2話
戸を閉めたとたん、廃屋の中の空気は一段と冷たく沈んだ。
外よりも内のほうが寒いというのは、不思議なものだった。風がないぶん、石壁にしみ込んだ冬の気配がまっすぐ足裏に上ってくる。リーフィアは外套の前をきゅっと合わせ、土間の真ん中に立ち尽くした。梁の隙間から差し込む光の筋は、先ほどよりも少しだけ色を落としている。もう、午後の後半に入っているのだった。
手のひらの中で、火打ち石が小さく鳴った。冷たい石の角が、指の腹にこつりと触れる。その重さを確かめるように、彼女は何度か握り直した。祈祷書の皮表紙の重みとは、まるで違う。もっと素朴で、もっと身近な重みだった。これ一つで火が起こせるのだと、頭では知っている。聖堂の厨房で、下働きの娘たちがよく使っていたのを遠目に見たこともある。けれど自分の手でそれを擦り合わせたことは、ただの一度もなかった。
「……火口と、薪と、水」
声に出すと、やるべきことの輪郭が少しだけ掴めた気がした。アルヴィンと名乗った騎士が置いていったのは、火打ち石と乾いた火口のひとつまみ。火口はほんの少ししかない。失敗したら終わりだと思うと、指先がかすかに強ばった。
けれど、薪がなければ火口があっても意味がない。
リーフィアはもう一度、竈の前にしゃがみ込んだ。灰の山の奥に、黒く焦げた小枝の切れ端が二、三本だけ埋もれている。誰かが最後にここで煮炊きをしたのは、いつのことだろう。指先でそっと掘り起こし、折ってみると、芯までしっかり乾いていた。これなら、最初のひと掴みにはなる。
――けれど、それだけでは、今夜の一椀にも届かない。
立ち上がり、裏口の板戸に手をかけた。蝶番が錆びついていて、押すたびに苦しげに軋む。肩で押し開けると、廃屋の裏手には、伸び放題の雑草と、崩れかけた低い石垣があった。その向こうに、細い小径が森のほうへと続いている。
水場を探す前に、拾い集められる枯れ枝を少しでも確保しておきたかった。
冷たい風が頬を撫でる。辺境の秋は、王都の冬よりも鋭い。リーフィアは石垣の縁に沿って歩きながら、落ちている小枝を拾った。折れたままの栗の枝、朽ちかけた樫の切れ端、そして軒下に吹き溜まった松葉の塊。松葉は着火によく使えると、いつか厨房の娘が笑いながら話していた。その記憶を、彼女は今ようやく、自分の手で確かめようとしている。
ひとつ、またひとつ、外套の裾にのせて運ぶ。
すれ違いざまに、通りの向こうから女がふたり、桶を提げて歩いてきた。リーフィアは顔を上げ、小さく会釈をしかけた。
「あの、すみません。井戸の場所を――」
女たちは、ぴたりと足を止めた。
一瞬、ふたりの視線が互いを確かめ合い、それからすぐにリーフィアの顔の少し上、耳のあたりを素通りするように流れていった。答えはなかった。年嵩のほうが低く何か呟き、若いほうが桶の持ち手を握り直す。ふたりはそのまま、道の反対側へと歩調を速めて去っていった。
――そう、か。
胸の奥が、ちくりと沈んだ。けれど、思っていたほどではなかった。聖堂でも、祈りが届かなくなってからというもの、人々の視線はゆるやかに逸れていった。見知らぬ土地で、見知らぬ娘に優しくしないのは、ここの人々にとっては当たり前のことなのかもしれない。余所者を警戒することは、辺境で生きる者の知恵でもある。
リーフィアは唇を引き結び、また小枝を拾い始めた。声を荒げる気も、恨む気もなかった。ただ、今は、自分の手で今夜の温もりをこしらえるしかないのだと、淡々と受け入れた。やがて外套の裾は、拾い集めた枝でほのかに膨らんだ。
廃屋に戻る頃には、指先の感覚が遠のきかけていた。
土間に枝を下ろし、火種になりそうな細い枝から順に並べていく。聖堂では、竈の火は常に誰かが守り続けていた。消えることのない火。交代で番をする下働きたち。「聖なる炎」と呼ばれていたあの火は、結局、誰かの夜更かしと眠気でできていたのだと、今ならわかる。
その火を、これから、自分ひとりで起こす。
竈の前に膝をついた。乾いた火口を石組みの上に小さくほぐし、そのまわりに細い枝を井桁に組む。先ほど拾った松葉を少しだけ添えた。袖口を肘までたくし上げると、腕の細さが目に入って、少しだけ笑ってしまった。祈りを捧げるときも、こうして袖をまくることはなかった。指先には、まだ先ほどの冷気がそのまま残っている。握りしめた掌の内側で、火打ち石の冷たさと自分の体温が、じりじりとせめぎ合っていた。
火打ち石を握る。
最初の一打は、情けないほど空を切った。石の角が鉄片をかすめただけで、火花は飛ばない。二打、三打。乾いた音だけが土間に跳ね返る。指の付け根が熱くなり、手首が小さく震えた。こつ、こつ、と繰り返すたび、薄暗い廃屋に音だけが虚しく積み重なっていく。角度が悪いのか、力が足りないのか、それとも握り方そのものが違うのか――誰も教えてくれない答えを、ただ自分の手で探り当てるほかなかった。鉄片のふちで指先の薄皮がかすかに擦れ、ひりりとした痛みが走る。それでも手を止めなかった。止めたら、今日はもう二度と握り直せない気がした。
――もう、誰も助けに来てくれないのだ。
その事実が、今ようやく、体の芯にすとんと落ちてきた気がした。けれど不思議と、絶望ではなかった。胸の奥で、むしろ静かな火の輪郭が、少しずつはっきりしていく。誰かのための祈りではない。自分のための、ただ一打だ。聖堂の高い天井の下で唱えた幾千の祈りよりも、この一打のほうがずっと、自分の体に近い場所から生まれている。息を深く吸い、肩の力をそっと抜いた。石の角を、もう少しだけ鉄片の縁に沿わせるように――そう、この角度で。
四打目で、小さな火花が散った。
青白い粒が、火口の上に落ちる。リーフィアは息を止めた。火口の端がじわりと黒く変色し、やがて細い煙がひと筋、立ち上る。指先を近づけ、そっと息を吹きかけた。強すぎても、弱すぎてもいけない。聖歌の最後のひと音を長く伸ばすときのように、ゆっくりと、まっすぐに。唇の先から送り出される息が、自分でも驚くほど細く、かすかに震えていた。火口の黒い点が、息の行き先に合わせて小さく呼吸するように明滅する。消えないで、と心の中で呟いた。祈りではない、もっと切実な、願いのかたちだった。
ふ、と、煙の奥にちいさな赤が生まれた。
それは、彼女がこれまで見てきたどんな祭壇の炎よりも、頼りなく、たよりなく、けれど確かに「自分のもの」だと感じられる赤だった。松葉がぱちりとはぜ、細い枝に炎が這い上がっていく。乾いた木の匂いと、松脂のわずかに甘い香りが、冷えた土間にふわりと広がった。やがて竈の中で、小さな火が呼吸を始めた。
リーフィアは、しばらく動けなかった。
炎の揺らぎに照らされた自分の指先が、ほんのりと赤く染まっている。祈りの所作ではなく、ただ、火を守るためだけに動いた指。爪の隙間には松の葉の屑が挟まり、袖には灰がついていた。聖女としての白い外套はもう、似合わないかもしれない。けれど、そのことがなぜか、胸を軽くした。
「……ありがとう」
誰に向けてでもなく、呟いていた。火打ち石を置いていった黒衣の騎士に、かもしれない。拾ってきた枝の木々に、かもしれない。あるいは、この火を起こした自分自身の、頼りない両手に。
竈の中で、炎はゆっくりと背を伸ばしていく。その温もりが、顔の片側をやさしく撫でた。冷えきっていた頬が、じんわりと赤みを取り戻す。指先の感覚が戻り、呼吸が深くなる。廃屋の壁が、炎の揺らぎに合わせて淡い橙色に染まり、枯葉の積もった隅の隅まで、ほのかな光が届いていく。
けれど、椀の中にはまだ、何も入っていない。
火はある。水はない。そして、この一椀に入れられるものといえば、袋の底に残ったかじりかけのパンと、乾いた薬草、それから――。
リーフィアはふと、戸口のほうへ目をやった。
夕暮れの光が、戸板の隙間から細く差し込んでいる。外ではまだ、村人たちが行き交っているだろう。井戸の場所さえ教えてくれなかった人々の中に、明日も、明後日も、彼女は暮らしていくことになる。
恐れはなかった。
ただ、今日この竈に宿った小さな火を、明日も絶やさずに済むように、水を汲み、もう一度だけ外へ出なければならない。その足音で、もしかしたらまた、誰かとすれ違うかもしれない。あるいは――あの黒衣の騎士と、もう一度。
リーフィアは火の番をしながら、膝の上で固いパンをそっと割った。ほんの少しでいい、温めるための湯が欲しい。そのためにはまず、水だ。明日ではない、今日の、この残り少ない光のうちに。
戸口の向こうで、薪を割る乾いた音が、また遠くで響き始めていた。