第1話
第1話
石畳の冷たさが、こんなにも遠く感じたのは初めてだった。
ガタゴトと揺れる幌馬車の荷台で、リーフィアは両膝の上に手を重ねていた。手のひらには、長年祈りを捧げ続けた跡が薄く残っている。指の節はこわばり、爪の際には乾いた皮膚がめくれていた。聖堂の大理石はいつも磨き抜かれて、彼女の膝頭を痣だらけにしてきたけれど、それももう、思い出の中のことになる。車輪が石を噛むたび、荷台の板が小さく跳ね、袋の中の薬草がかさりと鳴った。その音が、彼女の胸の拍動と不思議に重なって聞こえた。
「――聖力が枯れた、か」
呟いた声は、自分でも驚くほどに静かだった。怒鳴るでも、嘆くでもなく、ただ天気の話をするような響き。まるで、その言葉の意味を、口に出してようやく確かめているみたいだった。
朝、大司教の前に呼び出されたときには、まだ何も知らされていなかった。祭壇の前に跪き、いつものように祈祷を捧げようとした瞬間、冷たい声が頭上から降ってきた。もう、あなたの祈りは届かない、と。枯れ井戸に水を汲ませるわけにはいかない、と。着の身着のまま、薬草袋ひとつと使い古した外套だけを持たされ、北の辺境へ向かう馬車に押し込められた。別れの言葉をくれた者はいなかった。かつて一緒に聖歌を歌った少女たちも、廊下の陰からこちらを覗くばかりで、誰ひとり目を合わせようとしなかった。足音だけが、聖堂の高い天井に跳ね返り、長く尾を引いて消えていった。
けれど、胸の奥に広がっていたのは、怒りでも悲しみでもなかった。
――もう、誰のためにも祈らなくていい。
そう気づいた瞬間、長いあいだ背骨に差し込まれていた細い針が、するりと抜け落ちた気がした。肩が、ほんの少しだけ軽くなる。息を吸い込むと、胸の奥がいつもより広く感じられた。幌の裂け目から流れ込む風は湿った土のにおいを運んでくる。牛馬の気配、干し草の香り、遠くで鳴く鳥の声。王都の回廊では決して嗅げなかった空気が、肺の奥をゆっくりと満たしていく。香炉の煙でも、磨き粉の刺すようなにおいでもない、もっと素朴で、もっと生き物くさい匂い。リーフィアは目を閉じて、ただその風を味わった。涙ではなく、吐息がこぼれた。自分の吐息がこんなに温かいものだと、彼女はずっと忘れていた。
やがて馬車は、なだらかな丘をいくつか越え、やがて速度を落とした。車輪の軋みが低くなり、蹄の音が土を踏むやわらかな響きに変わる。
御者が短く「着いたぞ」と言い、荷台の幌をめくる。差し込んだ光のまぶしさに、リーフィアは思わず目を細めた。瞼の裏で光が赤く滲み、涙腺がじわりと湿る。けれどそれは、悲しみの涙ではなかった。
降り立った先は、石と木で組まれたささやかな村だった。
通りと呼ぶには細すぎる道の両脇に、苔むした屋根が身を寄せ合っている。秋も終わりかけた午後、空は白っぽく霞み、遠くの山々にはもう薄い雪化粧が始まっていた。吐く息がわずかに白い。リーフィアの薄い靴底には、早くも冷たさが染み込んでくる。指先がじんと痺れ、外套の前を無意識にかき合わせた。それでも、足裏から伝わってくる土の冷たさは、聖堂の大理石とはどこか違っていた。固いけれど、どこか生きている冷たさだった。
行き交う村人が、ちらり、ちらりと彼女を見た。
声をかけてくる者はいない。見慣れない白い外套の女。片手に薬草袋ひとつ。それがどんな素性の者か、村の人々にはすぐに察しがついたのかもしれない。王都からの厄介払い。そういう余所者が、季節に一人か二人、この辺境には流れ着くのだろう。井戸端で水を汲んでいた老婆は、桶を持ち上げたまま彼女の姿を目で追い、すぐにまた手元へ視線を落とした。その目には敵意はなく、ただ、関わらぬほうがよいという長年の知恵だけがあった。
それでも、誰かが無言で指を差してくれた先には、村はずれの一軒の廃屋があった。
――ここが、これからの住処。
朽ちかけた戸を押し開けると、埃っぽい空気と、長く使われていない土間のにおいが立ちのぼった。板間には枯葉が吹き込み、梁の隙間からは細い光の筋が何本も斜めに差している。その光の筋の中を、細かな埃がゆっくりと舞い上がり、まるで小さな星屑のように漂っていた。壁際には粗末な寝台。奥の壁を背にして、石積みの竈がひとつ据えられていた。
竈は冷たかった。
リーフィアは外套の裾をつまんで土間に膝をつき、指先でそっと灰の表面に触れてみた。火種のぬくもりは、もちろんどこにもない。指の腹に残るのは、乾ききった灰のざらつきと、底冷えした石の硬さだけ。新しく火を起こすには、薪も火口もいる。けれど袋の中には乾いた薬草と、かじりかけの固いパンがひと切れしかなかった。
「……どうしよう」
小さく笑いがこぼれた。困っているはずなのに、なぜか口元が緩んでしまう。誰にも叱られず、誰からも名前を呼ばれないこの静けさが、まだどこか信じられなかった。「聖女様」と呼ばれ続けた日々には、常に誰かの視線があり、誰かの願いがあり、誰かの落胆があった。その重みが、今はどこにもない。ただ、土間の冷たさと、自分ひとり分の呼吸だけがある。
ふと、胃の奥がきゅっと鳴る。
朝から何も口にしていない。温かいものが欲しい、と素直に思った。祈りではなく、湯気の立つ椀がほしい。祭壇ではなく、火のある竈のそばに座りたい。そう願うこと自体が、リーフィアにとっては初めての贅沢だった。聖堂では、食事さえも儀式の一部だった。決められた時刻に、決められた量を、決められた姿勢で。「お腹が空いた」と口にすることは、敬虔さが足りない証とされた。
彼女はゆっくりと立ち上がり、袋の口を開けた。乾いた薬草の束、小さな塩の包み、そして王都の厨房で下働きをしていた頃にこっそり教わった、芋の皮の剥き方。――知識はある。腕は未熟だけれど、ないわけじゃない。聖女として積み上げてきたものの隣に、ずっと目立たぬ棚が一つあったのだ。その棚の埃を、今日から少しずつ払っていけばいい。
戸口へ向かい、外の風に頬をさらす。冷たい風が髪を撫で、耳朶を赤く染めた。どこかに薪を分けてくれる家はあるだろうか。いや、その前に、まずは水場を探さなければ。小川か、井戸か。
一歩、廃屋の外へ踏み出した、そのときだった。
村道の向こうから、ゆっくりと黒い影が近づいてきた。
背の高い男だった。漆黒の外套、くすんだ鎧、腰に長剣。戦場帰り、と一目で分かる佇まいだった。踏みしめる足音は重く、けれど不思議と乱暴ではない。鎧の継ぎ目には泥と、それから乾いた血のようなものがこびりついていたが、歩調には静かな規律があった。男はリーフィアの立つ廃屋の前で足を止め、無言で彼女を見下ろした。
冷たくはない視線だった。ただ、どう扱っていいか分からない、という戸惑いがそこにあった。鋭い眼差しの奥に、長く人と話していない者特有の、ぎこちない沈黙が滲んでいる。
リーフィアも、とっさに言葉が出てこなかった。祈りの文句ならいくらでも諳んじられるのに、「こんにちは」のひと言が、喉の奥で迷子になっている。心臓が一度だけ大きく跳ねて、それから静かに落ち着いた。恐怖ではなかった。もっと別の、名前のつかない緊張だった。
やがて男は、視線を竈の方へと流した。
冷えた石組み、吹き込んだ枯葉、薬草袋ひとつ。それだけで、彼はすべてを察したようだった。短く息を吐き、腰の革袋から何かを取り出すと、土間の縁にそっと置く。その仕草は、驚くほど丁寧だった。まるで、壊れやすいものを扱うような手つきで。
――火打ち石と、乾いた火口だった。
それだけ置いて、男はまた歩き出そうとする。
「あの、」
思わず声が出た。自分でも驚くほど、掠れた響きだった。
男は足を止め、ゆっくりと振り返る。外套の裾が風を孕み、重たげに揺れた。
「お名前を、聞いてもいいですか」
問いに、一拍の沈黙があった。風が土間の枯葉を小さく鳴らす。遠くで、薪を割る音が乾いた拍子で響いていた。
「……アルヴィン」
それだけを告げて、黒衣の騎士は背を向けた。去っていく後ろ姿を、リーフィアはしばらく見送った。その背中は広く、けれどどこか、ひとりで長く立ちすぎた者の寂しさを帯びていた。
手のひらの中で、火打ち石はひんやりと重い。けれどその重さは、不思議と心細くはなかった。むしろ、そこに確かに「何か」があるという手応えが、彼女の指先を落ち着かせた。胸の奥に、まだ名前もつけられない小さな熱が、ぽつりと灯り始めている。
――今夜は、何か温かいものを作ろう。
誰のためでもない、けれど、自分のためだけでもない、そんな一椀を。リーフィアは廃屋の戸を、そっと閉めた。