第3話
第3話
戸口の外で響いていた薪割りの音が、やがて途切れた。
リーフィアは火の番をしたまま、しばらくその余韻に耳を澄ませていた。乾いた拍子のあとには、風が枯葉を転がす音と、遠くの鴉の声だけが残る。夕暮れは少しずつ色を深め、板戸の隙間から差し込む光は、もう橙というより、琥珀に近い色をしていた。竈の中の小さな炎は、彼女の息遣いに合わせるように、ゆっくりと背を伸ばしたり縮めたりしている。
このまま火だけを見ていても、椀は温まらない。
リーフィアは立ち上がり、土間の隅に転がっていた欠けた素焼きの壺を拾い上げた。縁にひびが走っているけれど、水を運ぶぶんには支障がなさそうだった。外套の裾で軽く埃を払い、戸口へ向かう。火のそばを離れるのは心細い。けれど、火があるからこそ、水を汲みにいく勇気も出るのだと、不思議とそう思えた。
外へ出ると、村の屋根のあいだを細い煙が何本か立ちのぼっていた。どこの家も、夕餉の支度を始めているのだろう。煮炊きの匂いが風に乗って流れてくる。塩を振った芋の匂い、焦げた玉葱の匂い、それから、豆を煮る湯気の甘さ。空きっ腹の胃が、きゅうと鳴いた。
通りを少し行くと、石組みの井戸があった。昼間に老婆が水を汲んでいた井戸だ。今は誰もいない。リーフィアは釣瓶の縄に手をかけ、ゆっくりと下ろした。縄は指の皮に食い込んで、遠い記憶の中の祈祷縄よりずっと正直な重さをしていた。水の音が井戸の底で揺れ、やがて桶が満ちた。汲み上げた水を壺に移すと、冷たさが陶の肌越しに指先へ伝わってくる。透き通った水面に、夕空の色がひとひら映っていた。
帰り道、廃屋の裏手の小径で、リーフィアは足を止めた。
崩れかけた石垣の脇に、半ば土に埋もれた芋畑のなごりがあった。誰かがかつて耕したのだろう、もう何年も手入れされていないらしく、雑草が伸び放題になっている。けれど、葉の落ちたその下に、ほんの小さな芋の頭がいくつか顔を覗かせていた。指で土をそっとかき分けると、親指の先ほどの芋が、三つ、四つ、ころりと出てくる。皮は薄く汚れているけれど、芯まで凍ってはいなかった。
「……いただきます」
誰に許しを乞うでもなく、小さく呟いた。祭壇に供える花を摘むときの作法が、ふと指先に甦る。けれど今の彼女の所作は、あれよりずっと軽やかで、ずっと遠慮がなかった。必要なぶんだけ、土から分けてもらう。それだけのことが、こんなに自然に体になじむものだとは思わなかった。
芋を外套の裾にのせ、石垣の向こうにも目を走らせる。枯れかけた茂みの根元に、見覚えのある細い葉が寄り添うように伸びていた。野生の百里香だった。聖堂の薬草園で何度も摘んだ草だ。乾かして煎じれば喉の薬になり、葉を揉めば香り高い風味になる。傍らには、少し背の高い野蒜の群れも見えた。白い根の先がほんのり湿っていて、抜きやすそうだった。
リーフィアは、しばらくしゃがんだまま動けなかった。
――この土地は、決して、空っぽじゃない。
村人の声をかけてもらえなかった昼間の寒さが、胸の奥でそっと溶けていくのを感じた。人が応えてくれなくても、土は応えてくれる。草は香りを差し出してくれる。芋は、掘り出したぶんだけ手のひらにおさまってくれる。聖堂の祭壇では決して教わらなかった摂理が、いま冷えた指先を通して、彼女の体に静かに染み込んできた。
百里香の葉を数枚、野蒜の白い根を二本。欲張らずに、今夜の一椀ぶんだけ。リーフィアは小さく頷いて、廃屋への小径を戻った。
戸を開けると、竈の火はまだ息をしていた。
灰の上に埋めておいた細い枝が、赤く熾になって、静かに呼吸を続けている。リーフィアはほっと息をつき、壺の水を土間に下ろした。外套を脱いで、寝台の縁にたたんで置く。袖口をもう一度肘までたくし上げると、先ほどよりも腕の動きが、少しだけ軽くなっていた。
鍋はない。けれど土間の隅に、欠けた取手のついた古い鉄の片手鍋が転がっていた。内側を水で軽く濯ぐ。赤錆の匂いが水と一緒に流れていき、底に淡い鉄の光沢が戻った。
芋は親指の腹で皮をこそげ、小さく賽に切った。聖堂の下働きの娘が、笑いながら教えてくれた切り方だった。包丁の代わりに、薬草を刻むための小刀を使う。刃先が芋の肌に吸い込まれていく感触は、祈祷書の頁をめくるのとは違う、生々しい抵抗と柔らかさを持っていた。野蒜の白い根は、輪切りにすると、切り口からかすかな辛みの香りが立ちのぼった。百里香の葉は、指の先で軽く揉んでから、茎ごと添える。
鍋に水を張り、芋を沈め、竈の火のそばへそっと置いた。
最初は、何も起こらない。ただ、冷たい水の表面に、芋の白がゆらゆらと映っているだけ。けれどやがて、鍋底のほうから細かな気泡が立ちのぼりはじめた。水面がふるえ、やがてくつりと小さな音を立てる。その音を聞いたとたん、リーフィアは胸のどこかが緩むのを感じた。祈祷の最後の一節が終わったあとの、あの沈黙にどこか似ている――けれど、もっと温かい沈黙だった。
野蒜と百里香を落とす。湯気がふわりと立ちのぼり、狭い土間の中に、青い草の香りと、土の甘い香りが広がった。聖堂の香炉の煙とはまるで違う。こちらは、鼻の奥ではなく、みぞおちのあたりを直接あたためるような匂いだった。リーフィアは木べらの代わりに、拾っておいた乾いた小枝の太いものを使って、鍋の中をゆっくりと混ぜた。芋の角が煮えて崩れはじめ、水はやがて淡い乳白色に変わっていく。塩袋の口を開け、指先でひとつまみ。つまみ加減がわからないまま、それでも、掌の線を読むように静かに落とした。
湯気の向こうで、火が小さく爆ぜた。
そのとき、戸口の外で、土を踏むゆっくりとした足音が止まった。
リーフィアは顔を上げた。振り返るより先に、胸の奥で何かがすとんと落ち着くのがわかった。恐れでも、身構えでもない。ただ、ああ、この人だ、と知っている感じだった。
板戸の向こうから、低く掠れた声がした。
「……煙が、出ていた」
アルヴィンだった。言葉少なに、けれど、たしかな気遣いを含んだ声。リーフィアは小枝を鍋の縁に置き、濡れた手を前掛けの代わりの外套の裾で拭って、戸口まで歩いた。戸を開けると、夕闇の濃くなりかけた空の下に、黒衣の騎士が立っていた。鎧には新しい泥はついていない。ただ、腰に下げた革袋の口だけが、わずかに膨らんでいた。
「火、起きました」と、彼女は言った。昼間より少しだけ、声に芯があった。「火打ち石の、お礼を……まだ、言えていなくて」
アルヴィンは視線を廃屋の中へ流した。竈の炎、湯気の立つ鍋、土間に並んだ小枝の残り。その一つひとつを確かめるような、静かなまなざしだった。彼は何も言わず、けれど去ろうともしなかった。
リーフィアは一度、奥へ戻って、欠けた木の椀をふたつ、棚の奥から見つけてきた。片方は縁が欠け、片方は底に小さなひびが走っている。それでも、湯を注ぐぶんには使えた。鍋の中のポタージュはとろりと乳白に煮え、百里香の香りがほのかに立ちのぼっている。彼女は椀の縁をそっと持って、まず片方に、熱い一杯をよそった。芋の粒が湯気の中でふるえる。
戸口へ戻り、椀を差し出す。
「どうぞ」
祈りの言葉は、添えなかった。
アルヴィンは一瞬、受け取ることをためらうような目をした。誰かから何かを差し出されることに慣れていない、という目だった。戦場で差し出されるものといえば、剣か、伝令の書簡か、あるいは最期の息だけだったのかもしれない。彼はゆっくりと両手で椀を受け取った。大きな手のひらの中で、欠けた椀はずいぶん小さく見えた。
湯気が、彼の頬のあたりで立ちのぼる。
アルヴィンは土間の縁に浅く腰を下ろし、椀に口をつけた。ひと口、ふた口。のどが静かに上下する。風が戸板の隙間を細く鳴らしていた。竈の中で、炎が一度だけ、小さく背を伸ばす。
「……温かい」
ぽつりと、それだけだった。
短い、あまりに短い一言だった。それなのに、リーフィアの胸の奥で何かが、ふっとほどけた。祭壇の前で千度の「感謝します」を受け取ったときにも、感じたことのないほどけ方だった。聖堂で自分の祈りが民に届いたかどうか、彼女はいつも確かめようがなかった。祈りは空へのぼっていくもので、手のひらには何も残らなかった。けれどこのひと言は、湯気に触れた彼の唇から、まっすぐ彼女の指先まで戻ってきた。届いた、という手応えが、鍋のぬくもりと一緒にそこにあった。
視界の端が、少しだけ滲んだ。リーフィアは自分の椀にも湯を注ぎ、アルヴィンの隣から少し離れた土間の縁に、同じように腰を下ろした。湯気越しに彼の横顔が見える。鎧の肩のあたりで、小さな炎の光が揺れていた。
「……薬草園の知識しか、なかったんです」
自分でも驚くほど、素直な声だった。「お料理は、ほとんど初めてで」
アルヴィンは椀の中をじっと見つめたまま、答えなかった。けれど、沈黙のほうがうなずきに近かった。彼はもう一口すすり、短く息を吐いた。その息には、戦場帰りの男の肩に積もった何かが、ほんの少しだけ混じって出ていったように、リーフィアには見えた。
二人は、しばらく黙って椀を抱えていた。鍋の中では、まだ湯気が立ちのぼり続けている。外では夕闇がいよいよ濃くなり、村のどこかの窓からも、橙色のあかりが点々と灯りはじめていた。
やがてアルヴィンが椀を置き、立ち上がった。去り際、彼は腰の革袋から小さな布包みを取り出して、土間の縁にそっと置いた。昼間、火打ち石を置いたときと同じ、壊れやすいものを扱うような手つきだった。
「……明日の朝に」
それだけ言って、黒衣の騎士は夕闇の中へ歩き去っていった。
リーフィアは布包みを開いた。中には、ひとつかみの乾いた豆と、ひときれの塩漬け肉、それから、どこで手に入れたのか、まだ青さの残る小さな玉葱がふたつ入っていた。明日の朝の、もう一椀のための贈りものだった。
胸の奥で、ゆっくりと火が灯り直すのを感じた。
竈の炎はまだ、静かに呼吸を続けている。――明日は、誰の鍋を温めることになるのだろう。欠けた戸板の向こうで、夜風がかすかに唸り、どこか遠くで、初めて聞く鍋を叩く音が、こつり、と響いた気がした。