第21話
第21話「帰還」
# 第21話「帰還」
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早馬が届いたのは、夏の終わりの朝だった。
空が高くなり、雲が薄く筋を引いている。秋の前触れの空だ。離宮の庭では、最後の蝉が力なく鳴いていた。
ルルが書簡を持って駆け込んできた。サンダルが床を叩く音が廊下に響いて、書斎の扉が勢いよく開いた。騎士団の紋章ではない——ディランの私印が押された急報だった。蝋の匂いがまだ新しい。つい先刻封をされたばかりの書簡だ。
『リオン・ヴェステル、戦功により帰還許可。三日後、王都着の予定。——ディラン』
書簡を読んだ瞬間、わたくしの左目から涙がこぼれた。右目はもう涙を流せない。星紋が涙腺まで侵していた。左目だけが、わたくしの代わりに泣いた。温かい涙が頬を伝い、書簡の上に一滴落ちた。インクがわずかに滲んだ。
帰ってくる。リオンが帰ってくる。
けれど、わたくしの体は、リオンが去ったときとは別物になっていた。星紋は右半身を覆い、右目は完全に失われ、右腕は自分の意志で動かすのが困難になっていた。銀盤を磨くことも、もうできない。祖母から受け継いだ銀盤は、机の上に置かれたまま、ルルが布で拭いてくれている。
鏡を見るのが怖くなった。銀灰色の髪の右側に、銀色の星紋が首筋から頬へと這い上がっている。右の頬骨の上で星紋が渦を巻いていて、かつてのわたくしの顔の輪郭を歪めていた。
リオンを迎えに行きたかった。けれど、わたくしの体では城門まで歩くのが精一杯だった。自分の死の予言を知っている以上、リオンを巻き込みたくない気持ちと、リオンに会いたい気持ちが引き裂かれていた。
鏡台の前に座って、自分の顔を見た。左目だけで見る自分の顔。右頬の星紋が渦を巻き、首筋から顎のラインに沿って銀色が走っている。かつての顔の輪郭が、星紋に歪められていた。この顔を、リオンに見せるのか。この姿で、彼を迎えるのか。
鏡から目を逸らした。
手紙を書こうとした。「来ないでほしい」と。左手で書いた文字は歪んでいた。ペンが紙の上を滑り、インクが溜まって文字が潰れた。書きかけの手紙を丸め、捨てた。もう一枚書いた。「待っています」と。二文字だけなのに、手が震えて三回書き直した。それも捨てた。丸められた紙が足元に転がっている。インクの匂いが鼻の奥にこびりついて離れなかった。わたくしは何が言いたいのか。会いたいのか、会いたくないのか。——その両方だった。この姿を見せたくない。けれど、この手を握ってほしい。矛盾した二つの願いが、喉の奥でぶつかり合って言葉にならなかった。
結局、手紙は出さなかった。出すべき言葉が、見つからなかった。
三日後の朝。
空気が変わった。夏の湿度が引いて、秋の乾いた空気が流れ込んでいた。木の葉の匂いが変わっている。青い匂いから、少し甘い、枯れ始める前の匂いに。
離宮の門が開き、リオンが入ってきた。
旅装は埃にまみれ、右腕に包帯が巻かれていた。北部での戦闘の跡だ。軍靴が泥で汚れ、背嚢の革が擦り切れている。けれど、足取りはしっかりとしていた。赤毛が朝の陽に光り、碧眼がまっすぐに——わたくしを見た。
わたくしはバルコニーに立っていた。右半身を柱に預けて。左手で手すりを掴み、体を支えている。風がドレスの裾を揺らした。
リオンの歩みが止まった。門から中庭を半分渡ったところで、まるで壁にぶつかったかのように足が止まった。碧眼が見開かれた。
わたくしの姿を見て——星紋が首筋から右の頬にまで広がっているのを見て——リオンの表情が変わった。
衝撃。怒り。悲しみ。そして、覚悟。
全部が、一瞬で碧眼を通り過ぎた。水面に石を投げ込んだときの波紋のように、感情が広がって消え、最後に残ったのは覚悟だった。
リオンが走った。門から離宮の中を駆け抜け、階段を二段飛ばしで上がり、バルコニーに飛び出してきた。軍靴が石の階段を蹴る音が響いた。息を切らし、わたくしの前に立った。汗と埃と旅の匂いがした。けれどその奥に、リオンの匂いがあった。太陽と草と、かすかに鉄の匂い。
「アイリーンさま」
「おかえりなさい、リオン」
「——ひどい」
声が震えていた。リオンの手が、わたくしの右頬に触れた。星紋に触れた。あの不思議な温もりが、かすかに銀色の模様を和らげた。彼の手のひらの体温が、星紋の冷たさに染み込んでいく。凍った池に温かい水を注ぐように。
「離れている間に、こんなに——」
「仕方がありませんわ。あなたがいなかったのですから」
意図せず、責めるような言い方になった。すぐに後悔した。この人は命令に従って戦場に行ったのだ。わたくしのせいで、わたくしのために。
「違う、そうではなく——」
「分かっています。あなたのせいではない」
リオンの手が、わたくしの頬から離れなかった。手のひらが頬を包み、親指が星紋の縁をそっと撫でた。その指先の動きが、切なくて、温かくて、息が詰まった。
「離れている間に、あなたの予言をひとつ知りました」
「——なんですの」
リオンの碧眼が、わたくしの左目をまっすぐに見つめた。右目は見えない。左目だけで見るリオンの顔が、視界の中央にある。彼しか見えない。彼だけが世界のすべてだった。
「あなたは、自分の死を見たでしょう」
体が凍った。秋の朝の冷えとは違う、内側からの冷えだった。
「……なぜ、それを」
「北部で、始祖エレーヌの墓所を見つけました。国境近くの古い神殿の地下にあった。墓所の碑文に——星詠みが自らの死を見たとき、それは終わりではなく始まりだと書いてありました。そして、あなたの目を見れば分かります。片目を失った星詠みは、もう一方の目で自分の死だけを見ていると——碑文にそう書いてあった」
わたくしは、黙って頷いた。隠す意味がなかった。この人には何も隠せない。隠したくない。
リオンが、わたくしの両手を取った。左手の火傷と、わたくしの星紋が重なった。銀色と温もりが混じり合う。重なった場所から、じわりと温かさが染み出した。星紋の冷たさが、少しだけ緩んだ。
「一人で死なせない。絶対に」
「リオン——」
「始祖の墓所には、もうひとつ碑文がありました。『星紡ぎの力は見ることではなく紡ぐこと。銀盤は未来を映す鏡ではなく、未来を織る糸車である』」
古文書と同じ言葉。始祖が、墓所にまで刻んだ言葉。石に刻んだということは、最も重要な言葉だということだ。紙は朽ちても、石は残る。
「そして——『紡ぐには、糸の片方を持つ者が必要。その者は、星詠みを愛し、星詠みに愛される者でなければならない』と」
リオンの手が、わたくしの手を強く握った。火傷の跡が金色に光った。銀色ではない。金色だ。初めて見る色だった。
「私は、あなたの糸の片方です。予言のせいではなく、自分の意志で」
朝の風が、バルコニーを通り抜けた。白薔薇の花瓶が、風に揺れた。花弁が一枚、散った。
わたくしは、リオンの手を握り返した。もう片方の手で、リオンの頬に触れた。左手しか動かないから、不器用だった。指先が彼の頬の擦り傷に触れた。戦場でできた傷だ。わたくしが見ている間に、この人は戦っていた。わたくしのために。
「……ありがとう。戻ってきてくれて」
それが、今のわたくしに言える精一杯だった。声が掠れた。けれど、伝わったと思う。リオンの碧眼が、ほんの少しだけ潤んだから。
リオンの手がわたくしの頬から離れ、今度はわたくしの左手を取った。二人の手が重なった。リオンの手は旅で荒れていて、皮膚が硬くなっていた。けれどその荒れた手の中に、変わらない温もりがあった。
バルコニーの下で、ルルの声がした。
「リオンさまー! お帰りなさい! お嬢さま、お嬢さま、リオンさまが——」
ルルが階段を駆け上がってきた。バルコニーに飛び出し、リオンの姿を見て、わたくしの姿を見て——二人が手を繋いでいるのを見て、両手で口を押さえた。
「よかった……よかった……」
ルルが泣きながら笑っていた。泣き笑いの顔が、朝の光に照らされていた。
リオンがルルに向かって小さく頭を下げた。
「ルルさん。留守の間、ありがとう」
「あたしは何も——ただ、お水を替えていただけです」
「それが、一番大事なことです」
リオンの言葉に、ルルの涙がまた増えた。けれど、今度は声を上げて泣かなかった。唇を噛みしめて、ぐっと堪えた。強くなったのだ、この子も。
秋の風がバルコニーを通り抜けた。風が三人の間を吹き抜けて、白薔薇の花弁を揺らした。花瓶の中の白薔薇が、朝の光を受けて光っている。ルルが毎日水を替え続けた花。リオンが去る日に残した花。その花が、三人を繋ぐ合言葉のようだった。
わたくしは二人を見た。リオンとルル。わたくしの大切な人たち。この人たちがいれば——わたくしは、死の予言と戦える。一人ではない。もう、一人ではない。