第22話
第22話「星を紡ぐ」
# 第22話「星を紡ぐ」
---
リオンが始祖の墓所から持ち帰った碑文の写しを、二人で並べて読んだ。
書斎の机の上に、始祖の手記、母の日記、そして墓所の碑文。三つの手がかりが、ひとつの真実を指している。羊皮紙と紙と、石から写し取った拓本。異なる時代の、異なる手による記録が、同じ場所に集まっている。机の上が一つの地図になったようだった。
碑文の全文は短かった。リオンが墨で拓本を取ったもので、石の凹凸がそのまま紙に写されていた。文字の線が太く、力強い。石を刻んだ鑿の痕跡が残っている。
『わたくし、エレーヌは、この墓に眠らない。わたくしの力は銀盤と共に継がれる。後に続く者へ——銀盤は未来を映す鏡ではなく、未来を織る糸車である。糸車を回すには、二つの手が要る。紡ぐ者と、糸を持つ者。紡ぐ者は星詠みの血を持ち、糸を持つ者は星詠みを愛する者。二人が手を重ねて銀盤に触れたとき、鏡は砕け、扉が開く。扉の向こうに、代償なき未来がある』
わたくしは、碑文を何度も読み返した。指先で文字をなぞった。石の凹凸を写した紙のざらつきが、指先に伝わった。始祖の言葉が、数百年の時を超えて、わたくしの指先に触れている。
「紡ぐ者はわたくし。糸を持つ者は——」
「私でしょう。姉から受け継いだ微かな星詠みの血が、銀盤に反応する」
リオンが左手を広げた。火傷の跡に、薄い銀色が走っている。けれど今日は、銀色の中に金色が混じっていた。二色の光が、瘢痕の筋に沿って交互に瞬いている。
「けれど、碑文にはもうひとつ条件がありますわ。『星詠みを愛する者』」
リオンが、わたくしの目を見た。碧眼に迷いはなかった。秋の朝の光が窓から射し込み、彼の瞳の中で小さな光の粒が散っていた。呼吸が一つ、深くなった。
「それは、条件ではなく事実です」
言葉が空気を変えた。窓から射し込む光の粒が、一瞬だけ止まったように見えた。彼の声には、戦場で剣を抜くときと同じ種類の覚悟が込められていた。飾りのない、剥き出しの覚悟。
わたくしの心臓が跳ねた。大きく、強く。星紋の脈動を超えるほどの鼓動が、胸を打った。頬が熱くなった。右頬は星紋に覆われて感覚が鈍いはずなのに、それでも熱が広がるのが分かった。
「……いま、何と」
「事実を言いました。私は、あなたを——」
「待って」
わたくしは、リオンの言葉を遮った。手のひらを上げて、彼の言葉を止めた。今ではない。今この場で、その言葉を聞いてしまったら、わたくしはもう冷静ではいられなくなる。泣くか、笑うか、あるいは両方か。どれにしても、銀盤に向き合うための平静さが崩れる。
リオンが口を閉じた。けれど瞳は語っていた。碧色の水面に、言葉にならない感情が浮かんでいた。
「先に、銀盤のことを理解しましょう。——母の夢で、母は言いましたわ。『鏡を壊して扉を開けなさい』と。碑文には『二人が手を重ねて銀盤に触れたとき、鏡は砕け、扉が開く』。つまり——」
「あなたと私が、一緒に銀盤に触れる。それだけでいいのですか」
「理論上は。けれど——」
わたくしは銀盤を取り出した。左手で持ち上げた。右手では支えられないから、不安定だった。銀面を見つめた。左目だけで。表面はいつも通り、鏡のように周囲を映している。わたくしの左目と、その背後にいるリオンの赤毛が映っていた。けれど、目を凝らすと、銀面の奥に——金色の光が脈打っているのが見えた。母が仕込んだ制御装置の光だ。以前より強くなっている。わたくしが母の日記を読んでから、銀盤の奥の光が明るくなった。
「母が制御装置を仕込んだのは、わたくしを守るため。力を抑え、鏡としてだけ機能するように。けれど、母は日記に書いていましたわ。『この子が扉を開く覚悟を持ったなら、制御は自ら解ける。わたくしの血が流れている限り』」
「つまり、あなたの覚悟が鍵になる」
「ええ。覚悟があれば制御が解け、銀層が砕け、金層——扉が現れる。そこにあなたが糸の片方として触れれば——」
「紡ぐことができる。代償なく」
わたくしは頷いた。理論は整った。始祖の手記、母の日記、墓所の碑文。三つの証拠が同じ結論を指している。数百年の時を超えて、同じ真実を指す三本の矢。けれど、不安が残る。胸の奥に、冷たい塊がある。理論と実践の間には、いつも深い溝がある。紙の上では完璧な設計図も、実際に建てるときには予想外のことが起きる。
「一度も試したことがないのですわ。母も試せなかった。始祖以来、誰も銀盤を糸車として使ったことがない。数百年の間、失われていた使い方を、ぶっつけ本番で——」
「やるしかない」
リオンの声に、迷いがなかった。声が低く、短く、岩のように硬い。この人の覚悟はいつもこうだ。余計な言葉を削ぎ落として、核だけを残す。
「あなたの死の予言を変えるには、紡ぐ力が必要。紡ぐには二人で銀盤に触れる必要がある。試す以外に道はありません」
正論だった。この人は、いつも正論を単純な言葉で言う。複雑に考えすぎるわたくしの思考を、一言で解きほぐす。始祖の古文書も、母の日記も、墓所の碑文も——すべてを読み解いた先にある答えを、リオンは三語で言い切る。それが羨ましくもあり、頼もしくもあった。
「……では、試しましょう。けれど、今日ではない。わたくしの体力が——」
「分かっています。休んでから。——明日の朝、陽が昇ったら」
リオンが立ち上がり、書斎を出ようとした。扉の前で振り返った。秋の午後の光が、彼の背中と扉の間に長い影を作っていた。
「アイリーンさま。さっき遮られた言葉の続きですが——」
「だめ。まだ言わないで」
「なぜ」
「聞いてしまったら、明日、冷静に銀盤に触れられなくなりますわ」
リオンが、小さく笑った。不器用な笑み。右の口角がわずかに高い。けれど今日の笑みには、いつもと違う温度があった。柔らかく、切なく、けれど確かなもの。
「では、銀盤が終わったら」
「——ええ。終わったら」
扉が閉まる寸前、リオンの背中が見えた。軍服の肩幅が広い。あの肩で、どれだけのものを背負ってきたのか。姉を失った過去。北部での戦闘。そしてわたくしの代償を半分引き受けるという選択。重さを知りながら、それでも引き受ける人。
リオンが去った後、わたくしは銀盤を胸に抱いた。金色の光が、かすかにわたくしの体温に応えて脈打っていた。母の遺した鍵が、わたくしの覚悟に応えている。
窓の外に、秋の夕暮れが広がっていた。空が茜色から紫に変わっていく。金木犀の匂いが、どこからか漂ってきた。甘く、少し苦い香り。秋の匂いだ。
(母さま。わたくしは、あなたが見つけられなかった道を見つけました。——わたくしは、一人ではないから)
死の予言の季節が近づいている。けれど今夜は、怖くなかった。明日の朝、陽が昇ったら——すべてが始まる。
ルルが寝室の準備を整えに来た。シーツを替え、枕を整え、窓辺の花瓶の水を替えた。白薔薇の花弁が一枚、水面に浮かんでいた。
「お嬢さま。明日は大事な日なんですね」
「ええ。とても大事な日ですわ」
「リオンさまと、銀盤のことをなさるんですよね。あたし、詳しいことは分かりませんけど——お嬢さまとリオンさまなら、きっと大丈夫です」
ルルの目が真っ直ぐだった。根拠のない確信。けれど、そういう確信が一番強い。
「ルル。もし明日——上手くいかなかったら」
「上手くいきます」
「もし——」
「上手くいきます。だって、お嬢さまは、お母さまが見つけられなかったものを見つけたんでしょう。一人じゃないっていうことを」
ルルの言葉に、わたくしは口を閉じた。この子は、わたくしが思っている以上にわたくしのことを見ている。銀盤も星紋も理解していないのに、本質だけを掴んでいる。
「ありがとう、ルル。おやすみなさい」
「おやすみなさい、お嬢さま。——あたし、朝ごはん、特別においしく作りますね」
ルルが部屋を出た。扉が閉まり、足音が遠ざかった。
一人になった寝室で、わたくしは金盤を枕元に置いた。金色の光が、蝋燭のように柔らかく部屋を照らしている。銀盤だった頃の冷たい光ではない。温かい光。
右手を開いた。金色の星紋が掌の上で脈打っている。痛みはない。けれど、重さはある。これから起こることの重さ。
明日、わたくしは銀盤の扉を開ける。リオンと二人で。成功すれば、死の予言を変えられる。失敗すれば——考えない。考えても仕方がない。
枕に頭を預けた。金盤の光が瞼の裏に滲んだ。温かい光だった。
その夜、わたくしは久しぶりに穏やかな夢を見た。夢の中で、母が微笑んでいた。何も言わず、ただ微笑んでいた。母の銀灰色の髪が風に揺れ、淡い紫の瞳がわたくしをまっすぐに見つめていた。その微笑みが、朝まで続いた。