第2話
第2話
杖を突いた家令の背に従って、私は領主館への道を上った。
道、と呼ぶのも憚られる、踏み固められた土の筋だった。両側に、骨の浮き出た羊が三頭、痩せた草を漁っている。その向こうで、夕陽が岩山を赤く焼き、古代遺跡の影をこちらまで長く伸ばしている。歩みを進めるほど、私の革靴の底に、小石の角が刺さってきた。王宮の磨かれた廊下では、足の裏で読み取ることのなかった大地の凹凸を、いま私は一歩ごとに翻訳していく。
「お嬢様、こちらが――領主館にございまする」
家令――名はクラウス、と道々で名乗った――が、坂の頂で立ち止まった。
灰色の石を積み上げた、二階建ての建物が、夕闇のなかにうずくまっていた。屋根の一角が崩れ、剥き出しになった梁が、空を切り裂くように突き出している。窓の硝子は半分以上が抜け落ち、残った硝子も蜘蛛の巣のような罅で覆われていた。正面の扉は厚い樫材だが、把手のあたりに錆びた斧の跡が深く食い込んでいる。誰かが、外から押し入ろうとした跡だった。
「……夜ごとに、魔物が」
私の問いを先取りするように、クラウスが呟いた。皺の刻まれた頬に、灯火を当てれば赤と判る古い傷が走っている。
「五年前、奥方様が亡くなられた頃から、酷くなり申した。岩山の影から、夜半に降りて参るのです」
私は扉の傷に、白い手袋越しに指を這わせた。鉄錆の味が、舌の奥にまた蘇る。樫の繊維のささくれが、絹の手袋の縫い目に小さく引っかかった。傷の深さは、刃の根元までが食い込んだことを物語っていた。一度や二度ではない。何度も、何度も、扉を破ろうとした何かの執着が、木目の奥に黒い染みとなって滲んでいる。
「ハンス、荷を。クラウス、館の内を、案内してくださる?」
***
扉を押すと、蝶番が悲鳴を上げた。
館の中は、外より一段冷えていた。湿った石の匂いに、何か獣の体毛が焦げたような臭いが薄く混じっている。クラウスが燭台に火を灯すと、揺れる炎が、剥がれた壁紙と、埃の積もった大広間の床を照らし出した。天井のシャンデリアは三本しか蝋燭が残らず、そのうち一本は溶けて床まで蝋の柱を作っている。王宮の三百のシャンデリアの記憶が、嗤うように私の脳裏を過った。
「お食事の間と、寝室は、なんとか整えてございまする」
「他は」
「西翼は雨漏りが酷く、住めませぬ。地下の貯蔵庫は……三年前から、開けぬようにしております」
「なぜ」
クラウスは、燭台を持つ手を一度握り直してから、答えた。
「下から、声が、聞こえると」
私は、扇を握る指に力を込めた。扇の骨が、また細い音を立てる。声、というのが、生きた人間のものではないことは、老人の口調で察しがついた。
クラウスに案内されるまま、私は館を歩いた。広間の隣の食堂には、二十人掛けの長卓が残されていたが、椅子は半分以上が脚を折られて、薪の代わりに焚かれた跡があった。階段の手摺りは、握るたびに掌に木の屑が刺さる。二階の廊下では、踏み板の一枚が抜け落ちて、私は咄嗟にハンスの差し出した腕に支えられた。踏み抜けた穴の奥から、黴と埃の混じった冷気が、足首に絡みつくように昇ってきた。床下のどこかで、鼠の爪が走る微かな音が、廊下の闇に吸い込まれていく。
寝室、と通された部屋は、八畳ほどの広さだった。公爵邸の私の寝室の、十分の一にも満たない。窓には木の板が打ち付けられ、隙間から流れ込む風が、卓上の燭台の炎を細く揺らしている。寝台は鉄の枠だけが残り、その上に新しい藁を詰めた敷布が敷かれていた。どうやらクラウスたちが、私の到着に合わせて、必死で整えてくれたものらしい。藁の上には、洗いざらした麻の覆いが、皺一つなく伸ばされている。皺を伸ばした掌が、たぶん何度も往復したのだろう、麻の表面には、節くれ立った指の温度の跡だけが、わずかに残っているような気がした。
「申し訳ございませぬ。これより他、お嬢様にお出しできる部屋が」
老家令の声が、初めて湿った。
私は首を振った。
「いいの。十分よ」
藁の敷布に、白い手袋を外して触れた。乾いた藁の棘が、指の腹をちくりと刺した。痛みは、馬車のなかで木目を辿った時より、ずっと現実の重さを持っていた。
それから私は、卓上の燭台のそばに、領地の帳簿を広げてもらった。クラウスが運んできた革表紙の冊子は、最後に記入されたのが二年前の冬だった。以後、誰も付ける者がいなかったらしい。私は燭台を引き寄せ、頁を捲る。徴税の記録、人口、収穫高、家畜の頭数――どの欄も、線を引かれて赤いインクで書き直された数字が、何重にも重なっている。書き直されるたびに、数は減っていた。インクの色は、最初の一層は黒、次が褪せた茶、最後の層が血に似た赤。インクすらも、この土地から徐々に失われていったのだと、頁の褪せ方が告げていた。
「人口は、十年で半分」
私の呟きに、クラウスが頭を垂れた。
「魔物に襲われた者、流れ出た者、飢えで……」
頁の端に、小さく書かれた名が並んでいた。死んだ者の名簿だ。子どもの名が、不釣り合いに多かった。私は、その一つひとつの名の上に、指先をそっと滑らせた。インクの粒子が、手袋を外したばかりの指の腹に、わずかな抵抗となって伝わってくる。三歳のミラ。五歳のヨハン。生まれて八月で消えた、名のない男の子。誰かが、この子たちの名を、震える手で書き留めたのだ。書き留めることだけが、唯一その子たちを忘れないでいるための方法だったのだ。
***
私は、帳簿を閉じた。革表紙の冷たさが、掌にしばらく残った。
「クラウス。明朝、領内を回る」
老家令が、燭台の火越しに目を瞠った。
「お嬢様、それは――この館にて、当面はお身体を休められるのが」
「休んでいる場合ではないでしょう」
声が、自分でも意外なほど鋭く出た。
私は立ち上がり、寝台の脇の曇り硝子の鏡の前に立った。鏡面に映る私は、四日の旅の埃を肩に載せ、それでもまだ、紺青のドレスの形を崩していない。銀の刺繍、絹の襟、絞り上げたコルセット。社交界の脚本に従って仕立てられた、十六年分の私の鎧。
「ハンス。鋏を」
ハンスが、息を呑んだ。
「お、お嬢様」
「いいから」
裁ち鋏が、震える手から私の掌に渡された。私はためらわなかった。コルセットの紐に刃を当て、根元から断ち切る。布の張力が解放される音が、鈍く響いた。肋骨の下に、ずっと押し込められていた呼吸が、初めて自分の幅で膨らむのを、私は感じた。長く吸って、長く吐く。それだけのことが、こんなにも肺の底まで届く動作だったのか。続いて、引き摺るほど長い裾を、膝下まで切り落とす。銀の刺繍の縁から、糸がほつれて床に落ちた。それは、王家の織り子が三月かけて縫い上げた、私のための刺繍だった。鋏を入れるたびに、絹の繊維が断たれる微かな音が、鈴のように指先に伝わってくる。けれど私の指は、もう震えていなかった。
最後に、髪に結ばれていた絹のリボンを抜き、肩で揺れていた緩やかな巻き毛を、首の後ろで一つに結わえた。
鏡のなかに、見知らぬ女が立っていた。
公爵令嬢でも、王太子の婚約者でも、聖女に陥れられた哀れな悪役令嬢でもない、ただの一個のヴィオラ・アルディスが、痩せた領地の燭台の前で、息をしていた。
「明朝、領内を、私の足で見て回る」
私は、振り返ってクラウスに告げた。
「徴税の実態、井戸の水量、畑の作付け、村の家屋の崩壊度――全部、自分の眼で確かめる。帳簿の数字だけでは、この地は救えない」
「お嬢様……公爵家のご令嬢が、自ら」
「公爵家の令嬢は、王都に置いてきたわ」
私は、切り落としたドレスの裾を、卓上にそっと畳んだ。銀の刺繍が、燭台の光にきらめく。それは、もう私のものではなかった。明日、村の女たちに渡そう。継ぎ当てにでも、産着にでも、好きに使ってくれればいい。子を喪った母の手に、新しい子を包む布として渡るなら、この絹は、舞踏会の床を引き摺っていた頃より、ずっと意味のある仕事を果たすだろう。
クラウスは、震える唇で何かを言いかけ、それから深く、深く頭を垂れた。
「……御意に」
その短い二文字が、王宮の謁見の間で何百回となく聞いた同じ二文字より、ずっと重く響いた。私のために頭を垂れた者は、これまで大勢いた。だが、私と共に頭を上げる覚悟で垂れた頭は、いま初めて、目の前にあった。
***
その夜、私は燭台の火を細くして、寝台の藁に身を横たえた。
窓の隙間から、痩せた風が吹き込んできた。乾いた土と、薪の煙と、それから――遠い、遠い、何か獣のものではない響きが、岩山の方角から運ばれてきた。
低く、長く、地の底から這い上がるような咆哮だった。
私は、息を止めた。
窓の板の隙間から覗くと、村の方角で、灯火が一つ、また一つと消えていく。家々の窓から漏れていた橙色の光が、咆哮の波に押されるように、闇に呑まれていく。十、二十、最後の一つが消えるまで、私は寝台から動かなかった。
岩山の中腹で、古代遺跡の輪郭だけが、月光のなかに青く沈んで立っていた。
指先が、また熱を帯びている。
私は、藁の棘に頬を預け、咆哮の方角へ目を見開いたまま、夜明けを待った。