第1話
第1話
扇の骨が、私の指の中で軋んだ。
レースの白い手袋越しに伝わるその細い悲鳴を、私は誰にも聞かせなかった。聞かせる相手は、もういない。三百本のシャンデリアの灯が天井から降りそそぐ大広間の中央で、私の背中はまだ折れていない。それだけが、十二年前から仕込まれてきた公爵令嬢ヴィオラ・アルディスの、最後の意地だった。
「――よって、ヴィオラ・アルディスとの婚約は、本日この時をもって破棄する」
王太子レオンハルトの声が、磨き上げられた大理石の床を低く滑った。彼の隣で銀の髪を揺らす聖女リーゼロッテの、伏せた睫毛が震えるたびに、招かれた貴族たちの溜息が広がっていく。芝居がかった涙だ、と私は思う。先月の夜会で、彼女が侍女に囁いた声音と表情の落差を、私は確かに見ていた。
ざわめきが、扇の陰から噴き出した。
――聖女様を階段から突き落としたのですって。 ――茶会で薬を、いえ、針を仕込んだとも聞きましたわ。 ――公爵家の令嬢が、なんてあさましい。
肺の奥で熱が固まる。喉が灼ける。けれど私は、瞬きひとつしなかった。ここで涙を見せれば、十六年間着続けてきたこの紺青のドレスごと、私は嘲笑の渦に呑まれる。爪が掌の薄皮に食い込んで、白い手袋の内側でじわりと鉄錆の匂いが滲んだ。それでいい。痛みだけが、いまの私を立たせている。
「ヴィオラ嬢、追放先はライナハト辺境領とする。三日以内に王都を発て」
ライナハト――王家が「呪われた地」と呼んで百年放置してきた、地図の端に追いやられた荒野。私の名を冠した城ひとつもない、痩せた土の向こうの果て。それがレオンハルトの、最後の慈悲のつもりらしかった。
私は深く膝を折り、誰よりも美しく礼を返した。
***
馬車の四日間を、私は数字で乗り切った。
王都を発って、十二里。第三街道の関所で、護衛だった近衛兵が二人減った。以後、御者と老侍女のハンス、それに私の三人きり。窓の外を流れる景色は、最初の朝には麦畑だったものが、昼には荒れた草地に変わり、二日目の夜には岩と痩せ松ばかりになった。荷馬車が一台、こちらと逆方向に走り去るたびに、私は息を吐いた。あれは王都へ貢ぎ物を運ぶ者たちの後ろ姿だ。私の進む方角には、もう誰も用がない。
車輪が石を噛むたびに、座席の革張りが軋み、私の腰骨に小さな衝撃を積み上げていった。三日目の朝、私は数えるのをやめた。代わりに、窓枠の木目を一本ずつ指先で辿った。樫の木の、節の周りでくるりと渦を巻く模様。それが王都の調度に使われる磨かれた紫檀とは違って、傷も裂け目もそのまま晒している、無防備な木肌だということに、私はようやく気づいた。
「お嬢様、お顔の色が」
向かいの席で、ハンスが膝のうえの毛布を握り直した。三十年仕えてくれたこの老人の手の甲には、私が幼い頃から覚えのある黒い染みがある。父も母も、このたびの追放を聞いて私と目を合わさなかった。それでも、ハンスだけは「ご一緒いたしまする」と頭を下げた。
「平気よ。少し、揺れがきついだけ」
嘘だった。昨夜の宿で出された麦粥の冷たい塩気が、まだ舌の奥に残っていた。これが今日からの私の、生活の味になる。公爵家の食卓で十六年噛みしめた、舌が痺れるほど甘い菓子の記憶を、私は窓の外の岩肌に少しずつ塗り替えていく。
四日目の昼過ぎ、馬車は最後の坂を越えた。
眼下に広がっていたのは、絵本で読んだどの王国の風景にも似ていなかった。赤茶けた大地に、低い石壁が虫食いのように散らばっている。あれが村だ。井戸らしき穴の周りに人影が四つ五つ、痩せた牛が一頭、土の色と区別がつかない。村の向こう、地平線にせり上がっているのは黒灰色の岩山で、その中腹に崩れかけた塔のような輪郭が見える。古代遺跡。地図に「危険、立入禁止」とだけ印された、千年前の遺構だった。
「これが、ライナハト……」
呟いた声が、揺れる馬車の中で奇妙に軽く響いた。私はもう一度、扇を開いて閉じた。骨が乾いた音を立てる。涙は出なかった。出さないと決めて出なかったのか、それとも初めから涸れていたのかは、自分でも判らない。
馬車が村の入口で止まると、子どもたちが遠巻きに駆け寄ってきた。痩せた頬、くたびれた麻の上着、裸足の足首には冬の名残のひびが走っている。私が降り立つと、列の先頭にいた女の子が、息を呑んで一歩退いた。
紺青のドレス。銀の刺繍。白い手袋。
私はこの子たちの一年分の食を、身一つに着ていた。
***
ハンスが扉を支える手を制して、私はゆっくりと地面に降りた。
革靴の底が、初めて触れる赤い土を踏みしめる。湿り気のない、骨のような土だった。踵が沈むのではなく、土のほうが乾いた音を立てて応える。風が南から吹いて、薪の煙の匂いと、家畜の汗と、何か甘く腐ったような――おそらく痩せた畑から立ち昇る土そのものの匂いを運んでくる。王都の温室の薔薇とは、何ひとつ似ていない。鼻の奥が、ぴりりと痺れた。けれど不思議と、それを不快とは思わなかった。これは、生きている土地の匂いだ。香水で塗り潰された王宮の回廊では、ついぞ嗅ぐことのなかった、剥き出しの呼吸の匂い。
私は、ふっと膝を折った。
退いた女の子の、その細い肩のあたりに、視線の高さを合わせる。紺青のドレスの裾が赤い土に触れて、銀の刺繍の縁から、たちまち土埃の色が滲んでいった。それを払おうとは思わなかった。子どもは怯えた瞳のまま、それでも逃げなかった。利発そうな瞳だ。長い睫毛の奥に、灯火のような何かが、たしかに残っている。栄養の足りていない頬の骨が、皮膚を内側から押し上げて尖って見えるのに、その瞳の光だけは、王宮で見たどの令嬢の瞳よりも澄んでいた。
「お名前は」
「……ミラ、です」
「ミラ。寒くはない?」
ミラはこくりと首を振った。けれど、その肩は微かに震えていた。麻の上着は袖の端が擦り切れて、灰色の繊維がほつれている。私はゆっくりと、自分の肩から絹のショールを外した。婚約披露の夜会で、レオンハルトから贈られた、王家の紋章の刺繍が裾に走るそれを。
ためらいは、なかった。
ショールをミラの肩にかけてやると、子どもの体がぴくりと跳ねた。冷えた肌に、絹の温度が伝わったのだろう。私は手のひらで、それを軽く押さえる。指先に伝わってきたのは、想像していたよりずっと薄い、鳥の骨のような肩の輪郭だった。掌のなかで、その小さな骨が呼吸に合わせて上下している。生きている。痩せていても、震えていても、確かに生きている。私の喉の奥で、十六年ぶりに何かがほどけた音がした。
「これは、あなたのものよ」
「で、でも……」
「私には、もう必要ないの」
声が、自分でも驚くほど凪いでいた。
社交界の絹も、王太子の婚約者という肩書きも、私を縛り続けてきた十六年分の鎧も――この赤い土の上では、もう何の重さも持たなかった。残されたのは、私というたった一個の人間と、目の前で痩せた肩を震わせる子どもと、そして地平線にせり上がる古代遺跡の影だけだ。
私はゆっくりと立ち上がり、村の入口の崩れた石門に手を置いた。指先に、古い苔のざらつきが触れる。
「ハンス」
「はい、お嬢様」
「ここで生きるわ」
風がショールの端を揺らした。ミラが、息を呑む音がした。
ここで、生きる。
それは、決意というよりは、宣言に近かった。誰に向けたものでもない。聞いていたのは、痩せた風と、痩せた土と、千年黙して立ち続ける遺跡の影と――ようやく王都の脚本から外れた、私自身の心臓の鼓動だけだった。
***
村の奥から、年老いた男が一人、杖をついて歩み出てきた。
おそらく、領主館で私を待ち受ける家令だろう。皺の刻まれた顔は、私を歓迎する色を一切持たず、ただ深く頭を垂れた。その背後で、夕陽が黒灰色の岩山を赤く焼いている。古代遺跡の崩れた塔が、傾いた光の中で長い影を落とした。
私は、その影の根元を見据えた。
呪われた地、と王家は呼んだ。地図の端に「危険」とだけ印した。けれど――いま、確かに私の血の中で、何かが微かに、応えるように脈打った気がした。古い苔の触れた指先が、わずかに熱を帯びている。気のせいかもしれない。気のせいで、ないのかもしれない。
ハンスが、馬車の荷を下ろし始めた。私は遺跡から目を逸らさず、ただ一歩、赤い土を踏み出す。
革靴の底が、軋んだ。
その音は、王宮の大理石の上では決して立たなかった、生きた音だった。