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辺境の賢者令嬢ヴィオラ

第3話 第3話

第3話

第3話

夜明けの薄明かりが、寝台の藁に挿し込んできた頃、私はようやく咆哮の余韻が遠ざかったのを悟った。

指先には、まだ昨夜の熱が残っていた。古代遺跡から這い昇った青い光の輪郭を、瞼の裏に焼き付けたまま、私は身を起こす。藁の棘が頬の側に薄い赤い線を刻んでいるのを、卓上の鏡が無遠慮に教えてくれた。けれど、私はその痕を払わなかった。これは公爵令嬢の白い肌に、ライナハトの土地が初めて記した署名だった。

「お嬢様、本当に……お行きになるのですか」

ハンスが、温めた水差しを携えて寝室に入ってきた。長く仕えた老侍女の目尻に、夜のあいだ眠れなかった皺が、いつもより一段深く刻まれている。

「行くわ。昨日のうちに決めたことよ」

私は、ドレスの裾を切り落とした麻と、襟元のレースを外した薄手の上着に袖を通した。鎧の重さを失った肩に、痩せた風が直接触れる感触は、初めての感覚だった。コルセットの絞めつけのない胸が、寒さに微かに震える。けれど、その震えは怯えではなく、ただ単に、私の身体がようやく自分の輪郭を取り戻している、という小さな振動でしかなかった。

階下では、クラウスが朝霧のなかで馬を引いていた。やせた葦毛で、王宮の馬車を引いていた六頭立ての血統馬とは比ぶべくもない。それでも、首筋に手を置くと、馬は静かに鼻を鳴らして応えた。

「巡る順は、近い村から。クラウス、案内を頼みます」

「御意。――ですが、お嬢様。最初の村は、年の瀬に監察官が入った後にございます。村人の口は、重うございますぞ」

監察官、と私は声に出さずに繰り返した。王家から派遣される、徴税と治安監督の名目で動く者たち。社交界の薄笑いの陰で、辺境では拳と縄を使うのだと、噂だけは耳にしていた。

「重い口を、開かせるのが、領主の仕事でしょう」

私は、葦毛の鞍に手を掛けた。

***

馬を進めて半刻、最初の村――ハーゼンと呼ばれる集落が、土埃の向こうに姿を見せた。

絵で描かれた村ではなかった。屋根の藁は黒ずみ、煙突の半数からは煙が立っていない。井戸を囲む石組みは半ば崩れ、その縁に、麻袋を被った女が膝を折って座り込んでいる。袋の中身は黒ずんだ麦のようだった。一握りずつ取り出しては、女は粒の中の小石を選り分けている。粒よりも、小石のほうが多い。女の傍らで、四つほどの男児が、小石の山に小さな掌をのせ、じっと動かなかった。

「……あれが、配られた糧にございます」

クラウスが馬の歩みを緩めた。

「徴税の後、王家から下げ渡される救恤の麦にございますが、半分は石、四分の一は鼠の糞、残りが食える麦かどうか、神のみぞ知ると」

胃の腑が、冷たく絞られる感覚がした。

私は、馬を降りた。革靴の底が、村の中央通りの轍に沈む。左右の家から、誰かが扉の隙間からこちらを覗いている気配があった。けれど扉が開く家は、一軒もない。私は歩みを進めながら、一軒ごとに、木戸の傷を数えた。斧の根元まで食い込んだ深い裂け目――昨夜の咆哮の主の爪痕に違いない――は、領主館の扉と同じ深さで、何度も何度も刻まれていた。

中央広場、と呼ぶのも憚られる小さな辻に出ると、人垣ができていた。

「払えぬとは、どういうことだ。耳が聞こえぬか」

革鎧の上に紫の外套を羽織った男の声が、村に不釣り合いな艶を含んで響いた。男は腰に細身の剣を提げ、背後に三人の兵を従えている。胸元の銀の徽章――王家の獅子。監察官だった。

地に膝をついていたのは、白髪混じりの瘦せた男だった。

「監察官様、どうか――今年は麦が、半反も穫れず、子の口に入れる分も」

「言い訳は徴税官の役儀ではない。半反穫れぬなら、家畜を渡せ。家畜もおらぬなら、人を出せ。十二の娘がおるそうだな。王都の織物工房なら、五年で借りは返せよう」

人垣の奥で、誰かが息を呑む音がした。男児を抱いた若い母が、井戸の縁から立ち上がり、ふらりと踵を返して家の影に消えていった。

私の喉の奥で、扇の骨ではない何か――もっと太い、肋骨に近い何かが――軋んで鳴った。

私は、人垣を割って前に進み出た。

「監察官殿。お話の途中で、恐縮ですが」

紫の外套が振り向いた。男の目が、私の麻の上着と、束ねた髪と、それでも消し切れぬ公爵家の所作の名残を、不思議そうに上から下へと舐めた。やがて、男の唇が、嘲笑の形に薄く吊り上がった。

「これは、これは。王都を追われたご令嬢が、もうお遊戯でございますか」

***

私は、扇を開かなかった。

開けば、社交界の作法で受け答えしてしまう。それは私が王宮で十六年磨き抜いた、嘲笑をいなして無傷で立ち去るための技だった。けれど、いまここで嘲笑を流せば、白髪の男はあと半刻のうちに、十二の娘を縄で繋がれることになる。

「ライナハト辺境領主、ヴィオラ・アルディスです」

私は、声の高さを一段下げて告げた。社交辞令の抑揚を抜き、領主の名乗りとして、低く、平らに。

「この場をもって、本年の領内徴税を、私の名において凍結します。来春の収穫まで、王家への上納を含め、一切の取り立てを停止します。監察官殿、ご通達を、王都までお持ち帰り願いたい」

監察官の唇が、嘲笑の形のまま、凍りついた。

「……正気か。王家への上納を、追放令嬢の独断で凍結すると」

「凍結の代価は、領主の私財から立て替えます」

私は、左の耳から、サファイアの耳飾りを外した。母から十五の祝いに贈られた、王都の宝飾師の手による一対だった。指のなかで、小さな石が、燭台の光より深い青を放った。続いて、右の耳。次に、首筋から銀の鎖。最後に、左手の薬指から、婚約の指輪を抜いた。レオンハルトが私に贈った、王家の紋章の刻まれた金の輪が、掌の上で、思いのほか軽かった。

私は、それらを麻の小袋に集めて、クラウスに差し出した。

「クラウス。次の市場町まで馬を走らせ、これを売って、麦と塩と、子どもの薬を、買えるだけ買って戻ってください。値は買い叩かれて構いません。今夜中に、村に届けば、それでいい」

老家令の節くれた手が、小袋を受け取った。指が、わずかに震えていた。

「お嬢様……これは、奥方様のご形見も」

「形見は、こんな夜には、何の役にも立たないわ」

私は、振り返って人垣を見渡した。痩せた頬の女が、井戸の縁の麻袋を握ったまま、目を見開いている。白髪の男が、地に膝をついたまま、口を半ば開いている。誰一人、私の言葉を信じていない目だった。当然のことだった。王都から「悪役令嬢」の烙印を押されて流れてきた女が、突然耳飾りを売って麦を買う、などという話を、信じる根拠はどこにもない。

「……悪役令嬢の、施しなぞ」

人垣のどこかで、低い声がした。誰のものかは判らなかった。続いて、別の声が。

「明日になれば、利息をつけて取り立てに来るぞ」

「王都の手練手管だ。釣られて借りを作れば、終わりだ」

声は、扇の陰の囁きより、ずっと正直に痛かった。けれど、私は背筋を折らなかった。十六年、嘲笑のなかで折れずにいた骨は、痩せた風のなかでもまだ折れない。

その時、人垣の隙間から、小さな影が、ぴょこりと飛び出してきた。

七つほどの、痩せた男児だった。膝の擦り切れた麻の半ズボンと、縫い目が裂けかけたシャツ。黒い髪は、長らく梳られていない束のまま跳ねている。その子は、井戸の麻袋の傍にいた母の足元から、抜け出してきたらしかった。

子は、まっすぐ私の前まで駆けてきて、地に踵を擦って止まった。

そうして、こちらを見上げ――小さな掌を、私に向かって、おずおずと差し出した。

掌のうえに、何も載ってはいなかった。ただ、子は、そこに何かが置かれるのを待つように、指を開いて、震える腕を、私のほうへ伸ばしていた。

私は、膝を折った。赤い土が、麻のスカートの裾を、また染めていく。

子の小さな掌に、私は、最後に左の薬指から外した、王家の紋章の指輪を、そっと置いた。

「これは、もう、誰のものでもないの。あなたが、預かっていて」

子は、目を瞠った。それから、こくりと、深く頷いた。

人垣のなかで、誰かが、鼻を啜る音がした。

***

監察官は、紫の外套の裾を翻し、唾を吐くように言い捨てた。

「……ならば、王家を敵に回す覚悟と、辺境にて受け取らせていただこう」

兵を従え、男は馬に跨り、土埃を蹴立てて南の街道へと去った。馬蹄の音が、岩山の方角に吸い込まれて消えるまで、誰も口を開かなかった。

私は、子の頭にそっと掌を置き、立ち上がった。指先が、まだ熱かった。昨夜、領主館の窓辺で覚えた、あの薄い、けれど確かな脈動が、いま村の赤土の上で、もう一度こちらを呼んでいる。

岩山の中腹で、古代遺跡の崩れた塔が、昼の光のなかでもなお、青く翳って見えた。

「クラウス。馬を頼みます。――そして、市場の帰りに、もう一つ」

「は」

「あの遺跡まで、どの道が一番近いか、村の老人に訊いてきてください」

クラウスの杖が、土の上で、小さく震える音を立てた。

風が、子の握る金の指輪を、橙色に光らせて吹き抜けた。

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