第2話
第2話
馬車が屋敷の車寄せで止まった衝撃で、私は膝の上に広げた手袋を取り落とした。
革の甲に小さな汗染みが滲んでいる。大広間でずっと握り締めていた、その証だった。御者が扉を開ける前に、私はそれを拾い、もう一方の手にそっと重ねた。震えが止まるのを待つ。三度ゆっくり息を吸うと、指先の痺れがようやく薄れていった。
玄関先に、父上が既に立っていらした。正装のまま、外套も羽織らずに。先に別の馬車で戻られたはずが、私の到着を待ち構えていたらしい。燭台の光が、父上の白髪交じりの髪を琥珀色に染めている。
「お帰り、セレスティーヌ」
その声は、いつもより一段低かった。怒っていらっしゃるのではない。案じてくださっているのだと、すぐに分かった。
「——お父様、少しだけお時間を」
馬車を降りるとき、父上が差し出してくださった手は、手袋越しにも思いのほか熱かった。私の指先の冷たさと、その熱が混じり合う。大広間で、父上もまた拳を握り続けていらしたのだろう。
書斎までの廊下を歩きながら、私は使用人たちの顔を見ないようにした。既に噂は屋敷の隅々まで届いているはずだ。婚約破棄された公爵令嬢——その姿を見る眼差しの重さを、今夜の私はまだ受け止めきれない。絨毯の厚みが、ヒールの音を柔らかく飲み込んでいく。
「母上は」
「先に休むよう言った。話は明日、三人でしよう」
母上のお顔を見たら、私は崩れてしまうかもしれない。父上はそれをご存知なのだ。
書斎に入ると、父上は扉を閉め、暖炉に薪を一本くべられた。火の粉が一瞬舞い、室内に煙の匂いが満ちる。私は肘掛椅子の背に手を添えたまま、座らなかった。コルセットをしたまま深く腰掛けると、考えが鈍る。
「セレスティーヌ」
父上は窓辺に立ち、外のどこでもないところを見ていらした。
「本日の振る舞い、見事だった。——だが、これから先、どうするつもりだ」
問いは単純だが、その奥にあるのは政治判断ではなく、娘を案じる父親としての不安だった。私は父上の背中に向かって、できるだけ落ち着いた声で答えた。
「正式調査を要求した以上、三日以内に調査委員の人選が発表されます。決めるのは宮内卿ですが、慣例では双方から二名ずつの推挙を出せます。当家に委員推挙の権利がございます」
父上が振り返られた。その眼に、僅かな驚きが宿る。
「——よく知っているな、その手続きを」
「……はい、お父様」
口ごもった。前世の記憶から引き出した知識と、この身体の十八年分の令嬢教育が、頭の中でまだ分別しきれていなかった。父上は一度眉を上げかけ、それから深く息を吐いて話を戻してくださった。
「推挙の案はあるのか」
「ロートリング侯爵夫人を、第一に」
父上が小さく唸られた。ロートリング侯爵夫人は、聖女派にも王太子派にも与せぬ中立派の重鎮。宮廷礼法を誰よりも熟知する老獪な女性だ。父上は私の意図をすぐに察された。
「——勝ちに行くのではなく、観察に行くつもりだな」
「はい。調査の結論は、恐らく当家に不利なものになります。宮廷の大半が、既にルシアナ様に靡いておりますから」
私は暖炉の火を見つめた。薪の皮が剥がれ、赤い肉を覗かせて燃えていく。その熱が、頬にじわりと届いた。
「けれど、過程で誰が何を語り、誰が何を沈黙するかは、またとない情報となります。この宮廷で誰が糸に引かれているのか、誰ならまだ自由に動けるのか——それを知りたいのです」
父上は長いあいだ、私を見ていらした。暖炉の火が、父上の鉄灰色の瞳に揺れて映る。
「お前は、今日一日で随分変わったな」
その声には、責めも驚きもなかった。ただ、何かを静かに納得するような響きだけがあった。
「変わったのではございません、お父様」
私は目を伏せた。
「今日、思い出したのです」
「何を」
「——いずれ、必ずお話しいたします。今はまだ、言葉にできませんの」
父上はそれ以上問われなかった。代わりに机へ歩み寄り、羊皮紙と羽根ペンを取られる。
「推挙状は明朝、私の名で提出する。もう一名は保留とし、宮内卿の第一候補を見てから決めよう」
「——お願いいたします」
深く頭を下げた。羽根ペンの擦れる音が、暖炉の薪の爆ぜる音と交互に室内に響いた。書斎の柱時計が、二十二の鐘を打っていた。
自室に戻ったのは、日付が変わる頃だった。
侍女のルイーズが湯浴みの支度を整えて待っていてくれたが、私は「今夜は一人にして」と告げて下がらせた。彼女は何か言いたげに唇を動かしたけれど、結局、深く頭を下げて退室した。扉が閉まる音。廊下を遠ざかる足音。それから、沈黙。
ドレスを半分だけ緩め、コルセットの紐を自分の手で解く。鯨骨の骨組みが肋骨から離れた瞬間、肺に入ってくる空気の量が倍になった気がした。ベッドの縁に腰を下ろし、両手で顔を覆う。爪の先まで疲れが染みていた。
けれど、眠るわけにはいかない。
頭の中で渦巻いていた前世の記憶が、ようやく一本の縒り糸のように整い始めていた。今のうちに整理しておかねば、明日には再び断片に戻ってしまうかもしれない。
書き物机に移り、抽斗から未使用の手帳を一冊取り出した。公爵令嬢らしからぬ、質素な茶色い革表紙。指先でなぞると微かに軋む。これに記すものは、私だけの秘密の地図だ。
前世の私——日本のアパートで、深夜にゲームのコントローラーを握っていた私——は、『薔薇宮物語』というこの乙女ゲームを、何周もした。公式ルートは五つ。王太子、宰相子息、近衛騎士、第二王子、神官。そのどれにおいても、悪役令嬢セレスティーヌ・フォン・ヴェルテンベルクは断罪される運命だった。
けれど、ある条件を満たすと開く隠しシナリオがあった。私はそこに辿り着くまで、三十二周を要した。そして、そのシナリオでようやく見えた真実——全てのルートでルシアナを勝たせていたのは、彼女自身が書き直し続けた台本そのものだったということ。
ルシアナは、どのルートでも必ず同じ手順を踏んでいた。第一幕で標的となる攻略対象に近づき、第二幕で周囲の侍女や騎士を『善意のお願い』で味方に変え、第三幕で悪役令嬢に全ての罪を被せる。直接命令はしない。ただ涙を見せ、困り顔を見せ、『お願い』と囁くだけで、周囲が勝手に動いてしまう構造を、彼女は一貫して作り上げていた。
手帳にその手順を書き出そうとして、私は羽根ペンを止めた。
『——待って、おかしい』
隠しシナリオのルシアナが、断罪の場で浮かべるべきは、勝ち誇った氷のような冷笑だった。けれど今日、あの大広間で私が正式調査を要求した瞬間——ルシアナが見せたのは、驚きだったのだ。台本が外れた者の、純粋な、計算の追いつかない驚き。
ゲームのルシアナは、婚約破棄を宣告された悪役令嬢が何を口にするか、完璧に予測していたはずだ。『そんな、信じてくださいませ殿下』と縋るか、『あんたたち全員覚えておきなさい』と醜態を晒すか。彼女の台本には、その二つしか書かれていなかった。
だから私が礼法に則って一歩踏み出したとき、ルシアナの仮面が一瞬だけ割れた。
私は手帳の最初のページに、一行だけ書きつけた。
『ルシアナ・ド・アルムリエは、前世の記憶を持たない。』
羽根ペンを置き、窓辺に立った。
夜空に、月が半ばまで昇っている。青白い光が、手帳の一文を冷たく照らしていた。
ルシアナは隠しシナリオを知らない。ならば、私が三十二周の果てに辿り着いた地図を、彼女は持っていない。この宮廷という盤面で、全ての駒の配置を知っているのは、私ただ一人。
——けれど、と私は唇を噛んだ。
それは同時に、ルシアナがこの先ゲーム通りに動くとは限らないという意味でもあった。台本が破られた今、彼女もまた即興で筋書きを書き直すだろう。私の知る『薔薇宮物語』は、今日この瞬間から、あてにならない地図へと姿を変える。
窓の外で、夜鷹が一声鳴いた。
手帳を閉じ、鍵付きの抽斗に仕舞う。鍵を回す指先は、もう震えていなかった。明朝、父上と推挙状を仕上げたあとに、もう一通——ロートリング侯爵夫人への、密書を書かねばならない。観察者としての第二手を、私はもう動かし始めている。