Novelis
← 目次

観察者の悪役令嬢

第3話 第3話

第3話

第3話

夜明け前に目を覚ましてしまった。

 窓掛けの隙間から、空が藍を解かれたばかりの色をしているのが見える。寝台に身を横たえたものの、結局眠れたのは二時間ほどだったろう。けれど不思議と頭は重くなく、むしろ前世の記憶が一晩で発酵を終え、整然とした器の中に収まっている感覚があった。

 起き上がり、ガウンを羽織って書き物机に移る。鍵を回し、抽斗から例の手帳を取り出した。表紙を開くと、昨夜の一行が、まだ乾ききらぬような瑞々しさで私を待っていた。

『ルシアナ・ド・アルムリエは、前世の記憶を持たない。』

 その下に、私はもう一行だけ書き添える。

『——では、彼女はどこから、あの手順を学んだのか。』

 羽根ペンの先で頬を軽く突いた。これは大事な問いだ。けれど今、優先すべきはこちらではない。私は新しい頁を開き、上部に小さく、けれども確かな筆致で書きつけた。「五本の糸——『薔薇宮物語』周回記録」。前世の私が三十二周を費やして辿った地図を、忘却が再び霧をかける前に、固有名詞ごと封じ込めねばならない。

 召使いを呼ぶ紐には、今朝はまだ手を伸ばさない。お茶も髪結いも、この作業が一段落するまでは煩わしい。窓辺に置かれた燭台の蝋を一本だけ灯し、私は前世の記憶の縒り糸を、一本ずつ手繰り始めた。

 まず、王太子エドワール殿下のルート。ルシアナは入学初日、図書館で殿下が落とした書類を拾うところから接近する。ここまでは表向きの偶然だ。けれど三日目以降、彼女は殿下の侍従頭に「殿下のお召し物の藍色は、あの紅茶を最も美味しく見せます」と微笑んでみせる。侍従頭は喜び、自発的に殿下の茶会の席次を変える。ルシアナは一言も「席を変えてください」とは口にしない。ただ、誰かに「あの方は喜ぶでしょうね」と囁くだけで、周囲が代わりに動いてしまう仕組みを作る。

 次に、宰相子息ルート。標的が変わっても、手順はそっくり同じだった。標的に直接働きかけるのは初手だけ。二手目以降は、その周囲の侍女、執事、家庭教師、馬丁——名もなき随員たちの心に小さな善意の借りを作っていく。三手目には、彼女が動かずとも、随員たちが勝手に「ルシアナ様に都合のよい」配置に物事を整えてしまう。

 近衛騎士ルートでは演習場の少年従者、第二王子ルートでは離宮の老庭師、神官ルートでは聖堂の鐘楼番——どのルートでも、ルシアナが最初に味方に取り込むのは、攻略対象その人ではなく、その傍らに常駐する身分の低い随員たちだった。彼女は中心ではなく、周縁から物語を編んでいくのだ。

 この気づきは、前世で三十二周も彼女を観察していながら、私にはついぞ見えていなかった構造だった。なぜ見えなかったのか。恐らく、私自身もまた、彼女が仕込んだ糸のどこかに足首を絡め取られていたからだ。断罪の場で、私の罪状を列挙した貴族たちの声音が、記憶の底でこだまする。彼らは嘘をついていたのではない。ただ、自分が何を信じ込まされたかを、ついぞ疑わなかっただけなのだ。私自身もまた、ルシアナに直接何かをされた覚えは、驚くほど少ない。彼女はただ、私の周囲の空気の肌理を静かに変えただけだった。そしてその空気の中で、私は勝手に溺れていった。

 羽根ペンの先で五つのルート図に共通する点を、私は短い線でつないでいった。やがてそれは、蜘蛛の巣の意匠に似た図形になった。中央に標的、その周囲に随員、随員と随員のあいだに細い糸——糸はすべて、ルシアナの指先から延びている。けれど糸の先端は、いつも他人の善意の中に隠されているから、誰も自分が引かれているとは気づかない。断罪の場で私を罵った貴族たちの顔が、その糸の結び目の一つひとつと、寒気がするほど正確に重なった。

 手帳の見開き二頁が、糸と結び目で埋まったところで、私はようやく羽根ペンを置いた。指の節がかじかんでいる。蝋燭の蝋が、燭台の縁から長い涙のように垂れていた。書き物机の上には、消えかけた燭の蜜蝋の匂いが淡く漂い、羊皮紙の繊維に墨が染み込む乾いた匂いと混ざり合っている。指先は血の気を失い、肩と首の付け根が、石のように強張っていた。それでも、顔を上げる気にはなれなかった。目を離した途端、せっかく結晶した記憶の一部が、砂のように零れ落ちてしまいそうな予感があったのだ。

『——けれど』

 私は窓の外に視線を移した。庭園の薔薇園の向こう、東の空が薄い橙に染まり始めている。

 書き出してみて、初めて気づいたことがある。三十二周の記憶を積み重ねた地図と、今この身体が生きている宮廷との間に、無視できない齟齬があるのだ。

 たとえば昨日、私が推挙したロートリング侯爵夫人。ゲームのどのルートにも、彼女の名は登場しなかった。中立派の重鎮という設定そのものが、前世の記憶のどこにも存在しない。けれどこの身体——セレスティーヌの十八年は、彼女の存在を当然のものとして知っている。

 父上の領地経営の窮状もそうだ。ゲームのヴェルテンベルク公爵家は、王国でも屈指の豊かな領地を持ち、悪役令嬢が侍女を何十人も従える贅の極みで描かれていた。けれど現実の我が家は、昨年の不作と前年の街道整備で、決して余裕のある財政ではない。

 第二王子フィリップ殿下も。ゲームでは私と同年だったはずが、実際には三つ年下のはず。離宮育ちで滅多に表に出ない少年——その輪郭が、前世の記憶よりずっと頼りなく、けれどずっと現実的に存在している。

 手帳の余白に、私は震える筆で書き添えた。

『この世界は、薔薇宮物語そのものではない。よく似ているが、ずれている。』

 書きつけた瞬間、背骨の奥を冷たいものが滑り落ちた。よく似ていて、ずれている——それは最悪の条件だ。全くの別物であれば地図は捨てればよい。完全な写しであれば地図のまま信じればよい。けれど似ていてずれている世界では、地図を信じすぎれば罠にかかり、疑いすぎれば手元の最大の武器を、自らの手で放棄することになる。

 羽根ペンの軸を、いつのまにか強く握りしめていた。

 ずれているとは、つまり、私の地図の精度には限界があるということだ。ルシアナの操作手順は恐らく信用できる——あれは彼女自身の人格と結びついた癖のようなもので、世界が多少ずれても変わるまい。けれど登場人物の配置や、家門の力関係、宮廷の派閥図——それらは、私の前世の記憶よりも、この身体の十八年の方が正確であるはずだ。

『ふたつの記憶を、足し合わせねばならないのね』

 前世の周回記憶という地図と、セレスティーヌが生きてきた現実の見聞という地図。重ね合わせ、ずれを検算し、そのうえで初めて、信頼に足る一枚の盤面が見えてくる。一晩や二晩で済む作業ではない。けれど、今この時代に転生した意味があるとすれば、それはこの作業を私一人だけが為し得るという、その一点にこそある。

 扉を控え目に叩く音がした。ルイーズの声で「お嬢様、お父様がお越しでございます」と告げられる。私は手帳を閉じ、抽斗に滑り込ませた。鍵を回す音と、入室を許す返事が、ほとんど同時になった。

 扉から入ってこられた父上は、夜会服から朝の上着に着替えていらしたが、目の下には濃い隈が残っていた。一睡もなさらなかったのだろう。ふだんは威厳を崩されぬ父上のお身体が、肩のあたりでほんのわずかに傾いて見える。夜会の緊張と、その後の折衝と、そして恐らくは娘の唐突な振る舞いへの戸惑い——それらが一晩のうちに堆積した重みを、私はいま、静かに受け止めねばならない。ルイーズが音を立てぬよう扉を閉める気配を背後に感じながら、私は席を立ち、父上に椅子を勧めようと手を伸ばした。手には、封蝋の押された一通の書状を携えていらした。

「セレスティーヌ。宮内卿から早馬で返書が届いた」

 その声に、私は背筋を伸ばした。窓辺で、東の空がいよいよ橙から薔薇色へと移ろい始めている。

「調査は——受理された」

 一瞬、胸の奥が小さく弾んだ。けれど次の言葉を聞く前に、私は父上のお顔の翳りに気づいた。

「だが宮廷は、既に聖女の味方だ。委員推挙の権利は認められたが、宮内卿が示した第一候補の名を見れば、向こう側が何を企てているか、嫌でも見える」

 父上は書状をそっと机に置かれた。私の指先は、まだそれに触れる勇気を持たない。書状の封蝋に押された王家の紋章が、朝の薄明の中で、滴る蜜のように赤く光っていた。

この話はいかがでしたか?

最新話です

次の更新をお楽しみに!

第3話 - 観察者の悪役令嬢 | Novelis