第1話
第1話
「——我が婚約を、破棄する」
その声が大広間の天井に跳ね返り、シャンデリアの硝子片を震わせたとき、私の頭の中で何かが弾けた。
いいえ、弾けたという表現は正確ではない。それは割れた卵から雛が這い出すように、押し込められていた何かが殻を破って溢れ出した感覚だった。記憶。膨大な、この身体のものではない記憶。視界の端が白く霞み、耳の奥で高い音が鳴り続けている。何百という場面が同時に流れ込んでくる——コンビニの蛍光灯、スマートフォンの画面、電車の揺れ、深夜のアパートでコントローラーを握る指先の感触。それらが一瞬のうちに奔流となって、この身体の十八年分の記憶と重なり、溶け合った。
王太子エドワール殿下が玉座の前に立ち、右手を私に向けて突きつけている。金糸の刺繍が施された白い手袋。その指先が微かに震えていることに、私は気づいた。怒りか、それとも高揚か。整った顔立ちは紅潮し、普段は冷静沈着を装うその眉間に、隠しきれない激情の皺が刻まれている。正義を行う自分に酔っているのだと、前世の記憶が冷ややかに告げた。
満座の貴族たちの視線が私に突き刺さる。憐れみ、嘲笑、安堵、好奇——数百の瞳に映る感情は様々だったけれど、一つだけ共通していたのは、誰もが私の崩れ落ちる姿を待っているということだった。大広間に満ちた沈黙は、舞台の暗転を待つ観客席のそれに似ていた。蝋燭の炎が揺れ、壁面の油絵に描かれた歴代の王たちが、まるで見物するように私を見下ろしている。
『ああ——そうか。私は今、断罪されているのだわ』
不思議なほど心は静かだった。溢れ出した前世の記憶が、この場面の意味を残酷なまでに明瞭に教えてくれる。乙女ゲーム。悪役令嬢。断罪エンド。私はその全てを、画面の向こう側から何度も見ていた。
けれど今、私の足はこの大理石の床を踏んでいる。ドレスの重さが肩にかかり、胸元のブローチの金具が鎖骨に食い込んでいる。薔薇の香油の匂いが自分の首筋から立ち上り、頬にかかる巻き髪の一房が汗で肌に張り付いている。足元のヒールの中で、つま先が冷たく強張っていた。これは物語ではない。私の、人生だ。
視線を動かす。殿下の隣に控える少女——聖女ルシアナ。亜麻色の髪を揺らし、大きな翡翠の瞳に涙を溜めて、両手を胸の前で組んでいる。その姿はまるで、嵐に怯える小鳥のようだった。華奢な肩を震わせ、唇を噛み、時折すがるように殿下の袖口に視線を送る——その仕草の一つ一つが、あまりにも完璧に配置されていた。涙の粒の大きさまで計算しているのではないかと思えるほどに。
周囲の貴族たちが同情の吐息を漏らす。可哀想なルシアナ様。悪辣な公爵令嬢に虐げられ、それでもなお庇おうとする清らかな聖女。どこかで婦人が鼻をすする音がした。もう判決は出ているのだ、この大広間では。
私だけが知っている。あの涙が、どれほど精密に計算されたものであるかを。
前世の記憶が教えてくれた。何度もの周回の果てに辿り着いた隠しシナリオ——ルシアナは全てのルートにおいて、糸を引く側の人間だった。断罪の脚本を書いたのは王太子ではない。傍らで涙を流すあの少女こそが、この舞台の真の演出家なのだ。
「セレスティーヌ・フォン・ヴェルテンベルク。そなたが聖女ルシアナに対して行った数々の非道——」
殿下の告発が続く。私がルシアナの持ち物を隠した。私が彼女を階段から突き落とそうとした。私が彼女の食事に毒を盛ろうとした。
どれも覚えがない。当然だ。この身体のセレスティーヌにも、そんな記憶はないのだから。殿下が罪状を読み上げるたびに、周囲から嘆息や非難の囁きが漏れる。毒を盛ろうとした、という下りでは、最前列の伯爵夫人が扇で口元を覆い、隣の令嬢に何事かを耳打ちした。証拠も証人もなく、ただ聖女の涙と王太子の言葉だけで事実が形成されていく。この場が裁きではなく演劇であることの、これ以上ない証左だった。
けれど弁明したところで無意味だということも、私には分かっていた。この場にいる貴族たちの大半は、既に聖女の味方だ。真実がどうであれ、彼らが求めているのは物語の完結——悪役令嬢の破滅という、気持ちのよい結末なのだから。
『ならば、感情で戦うのは愚策ね』
私は深く息を吸った。コルセットに締められた胸が苦しかったけれど、その圧迫感がかえって思考を研ぎ澄ませてくれた。鯨骨の骨組みが肋骨を締め上げ、浅い呼吸しかできない。けれどそのぶん、頭の芯が冴えていく。前世で徹夜明けに飲んだ缶コーヒーの、あの鋭い覚醒に似ていた。
泣き崩れてはいけない。弁明を叫んでもいけない。それはルシアナの台本通りの反応だ。悪役令嬢は取り乱し、醜態を晒し、その姿が聖女の清廉さを一層際立たせる——それが、この断罪劇に用意された筋書き。
ならば、筋書きにない行動を取ればいい。
「殿下」
私の声は、自分でも驚くほど澄んでいた。大広間がしん、と静まる。泣き崩れるはずの令嬢が、背筋を伸ばしたまま口を開いたことに、誰もが面食らっている。最前列の老伯爵が、片眼鏡を押さえ直してこちらを凝視した。
「婚約破棄の件、謹んでお受けいたします」
ざわめきが走った。予想外の反応だったのだろう。殿下の眉が僅かに上がる。ルシアナの涙が、一瞬だけ止まった。ほんの刹那。だがその刹那に、彼女の瞳の奥の歯車が噛み合わなくなる音が聞こえた気がした。
「しかしながら——」
私は殿下ではなく、大広間に居並ぶ貴族たちの方へ視線を向けた。
「本日この場で述べられた罪状は、いずれもヴェルテンベルク公爵家の名誉に関わるものでございます。先ほどの告発が事実であれば、それは私個人の罪ではなく、公爵家の教育と管理の瑕疵ということになりましょう」
父上の顔が視界の端に映る。一瞬の驚き、そしてすぐに理解の光が差した。さすがは公爵家の当主だ。私が何をしようとしているか、察してくださったらしい。その顎が僅かに引かれ、鉄灰色の瞳に鋭い光が宿る。隣に立つ母上は扇の陰で唇を引き結び、微動だにしなかった。二人とも、私の手に賭けてくれている。
「公爵家の名誉が毀損された以上、王家の礼法に基づく正式な調査を要求する権利が、当家にはございます」
大広間が凍りついた。
これは反論ではない。告発への抗議でもない。貴族社会の法と慣習に則った、正規の手続きだ。公爵家の名を汚す告発がなされた場合、被告発側には調査を求める権利がある。それは王家といえども無視できない、この国の礼法の根幹を成す規定。
殿下の表情が強張った。拒否すれば、王太子自らが貴族社会の慣習を踏みにじることになる。背後に控える宰相が僅かに身じろぎしたのが見えた。殿下の耳元に何かを囁こうとして、しかし満座の注目の中では動けず、拳を握り締めている。
「——よかろう」
殿下は歯を食いしばるようにして頷いた。その声は先ほどの高らかな宣告とは打って変わり、低く、押し殺されていた。
その瞬間、私はルシアナの方を見た。
涙に濡れた翡翠の瞳。その奥に、ほんの一瞬——氷のような光が走ったのを、私は見逃さなかった。驚き。そして、計算。台本にない展開を前にした脚本家が、急いで次の筋書きを組み立てようとしている目だった。唇の端が、ほんの一瞬だけ引き攣ったのを見た。次の瞬間にはもう、怯えた小鳥の顔に戻っている。その切り替えの速さに、むしろ感嘆に近いものを覚えた。
『ええ、ルシアナ。あなたの台本には、この展開は書かれていなかったでしょう?』
心の中でそう呟いて、私は静かにスカートの裾を摘み、完璧な礼を取った。膝を深く折り、視線を床に落とす。この身体が十八年をかけて磨き上げた所作が、今は盾になる。礼法を守る者を、礼法の場で害することはできない。
勝負はこれからだ。正式な調査が行われたところで、宮廷の大半が聖女に取り込まれている現状では、私に有利な結論が出るとは思えない。
けれど、構わない。
私が本当に欲しいのは、判決ではないのだから。調査の過程で、この宮廷に巣食う嘘と忖度と沈黙の地図を描くこと——それが、観察者としての私の第一手。
大広間を辞す私の背中に、数百の視線が注がれている。憐れみと嘲りに混じって、ほんの幾つか——戸惑いと、微かな敬意を含んだ目があることに、私は気づいていた。靴音が大理石の床に規則正しく響く。振り返りはしない。背筋を伸ばしたまま、開かれた大扉の向こうへ足を進める。
一つだけ、確認させていただきたく存じます——そう口にしたときの、あの静寂。感情ではなく言葉を選んだ私を、この宮廷は今日初めて見た。
馬車に揺られながら、私は瞼を閉じた。前世の記憶がまだ整理しきれず、断片的な映像が万華鏡のように回っている。石畳の振動が座席越しに伝わり、窓の隙間から夕暮れの風が吹き込んで、汗ばんだ額を冷やした。コルセットを緩めたい衝動を堪え、代わりに手袋を一枚だけ脱いだ。指先が、微かに震えていた。大広間では気づかなかった——いいえ、気づかないようにしていた。この身体は、ずっと怯えていたのだ。けれど一つだけ、確信していることがある。
聖女ルシアナは、必ず動く。台本を修正しにかかる。私という想定外の変数を、どうにかして物語の中に押し戻そうとするだろう。
そのとき彼女が見せる素顔こそが、私の待ち望むものだった。
馬車の窓から、王宮の尖塔が遠ざかっていく。夕焼けに染まったその輪郭が、まるで舞台の書き割りのように見えた。けれど書き割りの向こうに、今日初めて亀裂が入った。この物語の筋書きは、もう元には戻らない。