第2話
第2話
殿下が一歩、壇上を進み出た。
その靴音は不自然なほどに大きく、磨き上げられた大理石を打った。広間の蝋燭がいっせいに揺らいだ気がしたけれど、揺れていたのはおそらく、わたしの視界のほうだった。
それでも背筋だけは、ひとつも崩さずにいた。母がそうしていたように。
「——セラフィーナ・ヴァイセンブルク公爵令嬢」
わたしの名が、殿下の唇から零れる。婚約の儀ならば「我が花嫁」と呼ばれるべき場面である。それを「公爵令嬢」と呼ばれた時点で、答えはもう出ていた。
わたしは膝を折り、深々と礼を返した。母のドレスの裾が、磨かれた床に小さな扇のように広がる。視線を伏せ、息を整える。鼓動はおそろしく速かったが、指先は冷えきって動かなかった。冷えていてくれて、よかったと思う。震えなかった。
「殿下。お呼びにございますか」
声は、自分でも驚くほど静かに出た。──ああ、わたしは、こういう場でも声を保てるのか。妙な感慨が一瞬だけ胸を掠めていった。
広間には、百合と蜜蝋の匂いが重く溜まっていた。天井の高みで、水晶の燭台がひそやかに鳴っている。その微かな音さえ聞き分けられる気がするほど、耳だけが研ぎ澄まされていた。踵の位置を、母が教えてくれた通りに揃える。肩は絹の重さにゆだねて落とす。呼吸は喉ではなく、腹の奥で静かに回す。——大丈夫、立っていられる。そう自分に言い聞かせる声は、奇妙にも母の声に似ていた。
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「貴卿との婚約を、本日この場をもって破棄する」
殿下の声は冷たかった。広間の千を超える耳に届くようにひと言ひと言を区切って、はっきりと。
貴族たちの息を呑む音が、波のように広がる。──聞こえた音は驚きの形をしていたが、本当に驚いている者は、おそらくこの場にひとりもいない。視線の温度がそう告げていた。
肩口に、扇ごしの囁きがちくちくと刺さってくる。お気の毒に、という形の唇が、口角のほうでは別の言葉を隠している。今朝までセラフィーナ様と呼んでいた口が、もう半歩だけ遠い距離から呼んでいた。
「理由を、お聞かせ願えますでしょうか」
わたしは顔を上げた。声を荒らげない。声を細らせもしない。母から教わった、ただひとつの所作。問うときには、相手の目を見る。
顔を上げて殿下の瞳を覗き込む。そこにあるのは怒りではなく、拍子抜けに似た翳りだった。わたしが泣き崩れることを、この方はたしかに期待しておられた。
殿下の隣で、桃色のドレスの令嬢が小さく身を縮めた。庇うように、殿下が一歩、令嬢の前へと立つ。その仕草の親密さに、広間のどこかで小さなどよめきが起きた。
桃色のドレスは、春の花弁を幾重にも重ねたような仕立てだった。袖口のレースには、王室御用達の工房の紋が小さく織り込まれている。この一着を誂えるのに、わたしの家に残された春の予算を幾つ重ねれば足りるだろう──そんなことを、こういう場面でも考えてしまう自分の性分を、わたしは少しだけおかしく思った。
「公爵令嬢としての品位に欠ける、と再三の報告があった」
「品位、にございますか」
「そのドレスがすべてを語っていよう」
殿下の視線が、わたしの肩口に止まる。三年前の初袖の日から数えて、五度繕い直した縫い目だ。
一度目は十五の夜会で、壁の燭台の鉤に袖口を引っかけたとき。二度目は母の墓に花を供えた帰り、冬薔薇の棘が肩に咲いたとき。三度目、四度目、五度目——繕うたびに、母の匂いが指先に戻ってきた。針を引くと、糸の鳴る音が胸のなかで澄んでいった。夜更けの蝋燭を一本、また一本と替えながら、わたしはこのドレスの中に母を縫い戻していったのだった。
月色の絹を、月色の絹に重ねた。よほど近くで光に翳さなければ、繕いの線は見えない。けれど殿下は、「見えるはず」だと信じて指したのだった。誰かに、そう吹き込まれて。
けれどわたしには見える。繕い目がどこにあるのか、目を閉じていても指先で撫でられる。それは欠損ではなく、わたしが過ごしてきた三年そのものだった。
継母の顔が、来賓席の二列目に見えた。深紅のドレスの胸元で、扇の縁がわずかに揺れた。
勝った、という顔ではなかった。もっと退屈そうな、もう飽きた、という顔だった。駒をひとつ盤の外へ押し出しただけ──その程度の感慨も、あの方には過剰なのだろう。わたしの脇腹のあたりが、ひやりと音を立てて冷える。
わたしは、笑った。
笑った、と自分で思った。実際に笑みの形を作るよりも、そう決めることのほうが先だった。
唇の端を、ほんの一分だけ持ち上げる。怒りでも嘲りでもない、ただ承りましたという合図の微笑だった。爪が掌に食い込んでいたのを、自分でもこのとき初めて気がついた。痛みは、まだ遠くの誰かに起きていることのようだった。
「謹んで、承りました」
もう一度、深く礼を返す。
「殿下のご決断に、異を唱える立場にはございません。長きにわたるご厚誼、心より感謝申し上げます。──どうぞ、お幸せに」
最後のひと言を、桃色の令嬢にも届く声で添えた。皮肉ではない。皮肉に聞こえぬ抑揚を、わたしは慎重に選んだ。皮肉と取られた瞬間に、こちらの負けになる。
殿下が、わずかに目を細めた。怒りではない。当惑だった。きっと、泣くか喚くかすると見越していたのだろう。涙の女を冷静に切り捨てる場面を、頭の中で何度も練習してきたのだろう。その台本が、わたしのひと礼で破れている。
殿下の喉がかすかに動いた。次のひと言を探していらっしゃるのだと分かった。けれど、わたしはもう、台詞を差し上げる立場ではなかった。台本を持たない者のほうが、この広間では強いのだ——そのことに、わたしも今ようやく気づいたところだった。
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退出の許しを乞うつもりで、顔を上げる。
すると、来賓席の片隅にひとつだけ、動かない影があった。
黒衣の青年。年の頃はおそらく二十代半ば。装飾の少ない上着の襟元に、銀の小さな紋章が縫いつけてある。北方の星紋——隣国オルムスの王家の意匠だった。隣国の王太子が来訪していると聞いてはいたが、まさか来賓席に降りているとは。
その青年の視線が、まっすぐにわたしの肩口に注がれていた。殿下が「品位に欠ける」と指した、まさにその縫い目に。
ただし、殿下の目つきとは決定的に違った。値踏みの目ではない。職人の手仕事を覗き込む、ひどく静かで、冷えた、それでいて熱を帯びた目だった。針目の数を、糸の張りを、布と布の重ね方を、ひとつひとつ確かめている目だった。
その目は、わたしではなく、わたしが織り込んだ時間を見ていた。五度の繕いに費やされた夜の長さを、灯りの下で指を刺した回数を、溶けかけた蝋の痕跡までを──布の皺一本から読み取ろうとしているようだった。装身具を値踏みする目にはけっして浮かばない種類の光が、そこにあった。見られている、というよりも、読まれているという感覚のほうが近かった。
わたしと目が合った。
逸らしそびれた、と言った方が近かったかもしれない。視線を返したのは意志というより、反射に似た動作だった。
青年は、軽く顎を引いた。礼ではない。なにかを確かめたという、それだけの動作だった。
しかしその小さな動作の底に、なにかを知っている者の落ち着きがあった。わたしの肩口に縫い込まれた五度分の夜を、同じだけの重さで受け取ったと告げる合図のように見えた。殿下の千の言葉よりも、その顎の一引きのほうが、よほど多くのことを語っていた。
不思議なことに、その一瞬で、足元の冷たさが少し引いた。広間中の千の視線よりも、たったひとりの視線のほうが、よほど確かにわたしを見ていた。
わたしは殿下に向き直り、最後の礼を捧げた。
「では、失礼いたします」
踵を返す。背を向ける——婚約破棄の場で、最初に背を向けるのは、本来切り捨てる側の役目である。けれどわたしは、切り捨てられた側の足で、自分の判断として背を向けた。
大広間を、入ってきた回廊ではなく正面の階段から退出する。フィッツの荷馬車に戻るには遠回りになる。それでもわたしは、正門から出ていきたかった。
磨かれた大理石が、靴底に正確な音を返してくる。広間の沈黙が、わたしの背中を追ってきた。階段の踊り場で一度だけ、銀の手摺りに指を添えて息を整えた。指はまだ冷えていた。冷えたままで、ありがたかった。
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外気が頬を撫でた。春の風は、朝に庭園の窓から入ってきたものと同じ匂いをしていた。湿った土と若葉。母と歩いた庭の朝。
わたしは小さく息を吸い、空を見上げた。
もう、母のドレスを脱ぐ理由はなくなった。婚約が消え、公爵令嬢としての務めが消え、わたしに残されたのは、ただこの一着の絹と、自分の指だけだった。
ふと、肩口が温かい気がして、わたしは無意識に手を当てた。あの黒衣の青年の視線が、今もそこに残っているような錯覚があった。
次にわたしを揺らすものは、もう涙ではない。
石段を一段ずつ、降りていく。──家に戻れば、おそらく継母が待っている。式の顛末は、わたしより先に屋敷へ届くだろう。次に開かれる扉が、わたしを内に迎えるか、外へ押し出すか。
わからなかった。けれど、どちらでも構わなかった。
わたしの裁縫道具は、いつでも旅装の鞄に移せるように、寝台の脇に揃えてある。