第1話
第1話
まだ夜が明けきらぬ薄闇の中、わたしの指先だけが、確かに動いていた。
蝋燭の灯りが揺れるたびに、針の先が淡く光る。母が遺してくれた月色の絹——もう何度繕い直したかわからない。袖口のほつれを一針ずつ拾いながら、わたしは息を殺した。この時間だけは、誰にも邪魔されない。使用人たちが起き出す前の、わたしだけの静寂。
公爵家の三階、かつては客間であった小部屋。窓には薄い木綿の布が一枚かかっているだけで、冬の朝は指がかじかんで針が持てなくなることもある。だが今は春だった。庭園の菩提樹が芽吹く気配が、わずかに開いた窓の隙間から届く。湿った土と若葉のにおいが混じった風は、幼い頃に母と庭を歩いた朝の記憶をかすかに呼び起こす。わたしは目を閉じ、一呼吸だけその風を胸に入れてから、また針を動かした。
わたしの名はセラフィーナ・ヴァイセンブルク。公爵家の長女にして、この屋敷で最も早く起きる者。それは勤勉さゆえではない。朝の身支度に、人の三倍の時間がかかるからだ。
令嬢付きの侍女はいない。髪を結うのも、衣装を整えるのも、靴を磨くのも、すべて自分の手でする。継母——いまの公爵夫人が嫁いできてから、もう十年になる。母が亡くなった翌年のことだ。
「使用人の手が足りませんの。セラフィーナさんにはご自分のことはご自分でなさっていただかないと」
幼いわたしに向けられたその言葉を、今も正確に覚えている。微笑みの形をした、最初の拒絶だった。以来、令嬢教育の家庭教師は減らされ、社交の場への同伴は途絶え、季節ごとの新しいドレスは義妹のエリアーナにだけ届くようになった。
わたしに残されたのは、母のドレスが一着。
針に糸を通し直す。月色の絹は、陽の光の下では淡い銀にも見え、燭台の灯りの下では温かな真珠色にも変わる。母がわたしの誕生を祝って仕立てたと聞いた。十六の春に初めて袖を通したとき、丈はぴたりと合った。まるで母が、わたしの成長を見越していたかのように。
あれから三年。繕いの痕はもう数えきれない。肩口の縫い目、裾の補強、背の切り替え——けれどそのすべてを、わたしは元の意匠に溶け込むように縫ってきた。継ぎ接ぎではない。修繕を、装飾に変える。それがわたしの、ただひとつの矜持だった。
最後の一針を結び留め、糸を噛み切る。蝋燭の芯がぱちりと弾けた。窓の外が、ようやく白みはじめている。
今日は、婚約の式典だ。
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鏡の前で、母のドレスに袖を通す。背筋を伸ばし、鎖骨の下でリボンを結ぶ。三年前から変わらない手順。けれど今日は、指先がわずかに冷たかった。
王太子レオンハルト殿下との婚約は、わたしが十四の頃に決まった。母の存命中、両家の間で交わされた古い約定に基づくものだ。殿下とは数えるほどしか言葉を交わしたことがない。社交の季節に顔を合わせても、殿下の視線はいつもわたしの向こう側を見ていた。
それでも構わなかった。婚約は家と家の約束であり、わたし個人の感情が入り込む余地はない。好意がなくとも、務めを果たせばよい。そう思っていた。
廊下を歩くと、義妹の部屋の前を通りかかる。扉が開いていた。
「あら、セラフィーナ姉さま。今日もそのドレス?」
エリアーナが振り返る。新調されたばかりの薔薇色のドレスが、朝の光を受けて眩しかった。肩には繊細なレースがあしらわれ、腰元には銀糸の刺繍が光る。わたしが生まれてから一度も着たことのない類の贅沢だ。
「ええ。わたしにはこれが一番似合うから」
「そう……。お気の毒ですわ」
エリアーナの唇が弧を描く。憐れみの形をした嘲り。わたしはすでに慣れていた。
「お気遣いなく。母の形見ですもの、大切にしていますの」
そう言って微笑み、踵を返す。背中に視線が刺さるのを感じたが、振り返りはしなかった。
階段を降りると、継母が玄関広間に立っていた。公爵夫人にふさわしい深紅のドレスに身を包み、エリアーナと並べば姉妹のように見える。わたしだけが、この家の中で色褪せた存在だった。
「セラフィーナ、馬車は別に手配しました。あなたはフィッツ爺やの荷馬車に同乗なさい」
「かしこまりました、お義母さま」
式典に向かう公爵家の馬車にすら、わたしの席はない。もう驚きもしない。驚かなくなったことだけが、少しだけ、胸の奥に引っかかった。
フィッツ爺やの荷馬車は、厨房の食材を運ぶためのものだった。干し肉と香辛料の匂いの中で、わたしはドレスの裾が汚れないように膝の上にまとめ、背筋だけはまっすぐに保った。
「お嬢さま、申し訳ございません。せめて毛布を」
「ありがとう、フィッツ。大丈夫よ」
老御者の皺だらけの目元に浮かんだ哀しみに、わたしは穏やかに笑いかけた。この屋敷で、わたしを「お嬢さま」と呼ぶ者は、もうこの人しかいない。
荷馬車が石畳の上を揺れるたびに、干し肉の包みがかさりと音を立てた。フィッツは何も言わなかったが、路面の凹凸があるたびにわずかに手綱を引いて衝撃を和らげてくれているのが分かった。わたしは黙ってその背中を見つめた。白くなった髪が風に揺れ、曲がった背中は年々小さくなっている。この人もまた、母の時代から残された最後の一人だった。
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王城の大広間が近づくにつれ、馬車の列が長くなる。貴族たちの紋章旗が春風にはためき、楽師の調べが遠く聞こえてきた。荷馬車は正門ではなく、通用口に回された。わたしは荷台から降り、ドレスの裾を払い、裏手の回廊から広間へ向かった。
回廊を抜けると、大広間の喧騒が一気に押し寄せる。シャンデリアの光が天井の金箔に反射し、百を超える蝋燭が宙に浮かぶように揺れている。貴族たちの衣装は宝石のように色とりどりで、笑い声と囁き声がひとつの大きなうねりになっていた。
その中に、わたしのような色は一つもなかった。月色の絹は華やかさとは無縁で、繕い直した痕は近くで見れば分かる。けれどわたしは足を止めなかった。背筋を伸ばし、顎を引き、静かに歩を進める。母がそうしていたように。
すれ違う令嬢たちが扇の陰で何か囁き合うのが目の端に映った。聞こえないふりをするのではない。聞こえていても、揺るがないだけだ。わたしの靴音だけが、磨かれた大理石の床に小さく正確に響いていた。
広間の正面、一段高い壇上に王太子レオンハルト殿下の姿が見えた。金の髪を整え、正装に身を包んだ殿下は、壇上にいるだけで周囲の空気を変える存在感があった。その隣に——見知らぬ令嬢が寄り添っている。わたしの知らない顔だった。淡い桃色のドレスに身を包み、殿下の腕にそっと手を添えている。まるでそこが自分の居場所であるかのように、自然な仕草で。
胸の奥で、何かがかすかに軋んだ。痛みというには淡く、驚きというには鈍い。名前のつかない感覚が、肋骨の内側にじわりと広がった。
だがそれよりも、わたしの注意を引いたのは別のことだった。広間の空気が、妙にざわついている。祝賀の華やぎとは違う、何か含みを持った視線が、あちこちからわたしに向けられていた。好奇と憐憫が等分に混じった、あの種類の視線だ。貴族社会において、それは誰かの破滅がすでに決まっていることを意味する。そして今、その視線がすべてわたしに集まっている。
唇が乾いた。けれど唾を飲み込む音すら、この静寂の中では誰かに聞かれてしまいそうだった。
「——お揃いですね」
殿下の側近が壇上で声を張る。貴族たちが静まり、楽の音が止んだ。
王太子の視線が、まっすぐにわたしを捉えた。
その目に浮かんでいたのは、婚約者を見る温かさではなかった。冷ややかで、どこか——決意を秘めた光。わたしを見ているようでいて、わたしの向こうにある何かの手続きを見ているような、事務的な冷たさだった。
足元の大理石が、急にひどく冷たく感じられた。靴底を通して、石の冷気がふくらはぎまで這い上がってくるようだった。
わたしは直感した。今日この場で、何かが終わる。
けれど不思議なことに、恐れはなかった。終わるのならば、それでいい。わたしはただ、まっすぐに立っていればいいのだ。母のドレスに守られて、誰にも頭を下げずに。
殿下が口を開いた。
大広間の空気が、針の先ほどの隙間もなく張り詰める。
来賓席の片隅で、見慣れぬ黒衣の青年が、わたしの肩口に視線を止めていたことに——このときのわたしは、まだ気づいていなかった。