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月色の絹は、綻びを知らない

第3話 第3話

第3話

第3話

屋敷に戻ったのは、夜が完全に暮れてからだった。

 正門前ではなく、例のごとくフィッツの荷馬車で通用口に回った。式典の顛末は、もうこの屋敷のすみずみまで届いているはずだった。継母もエリアーナも、玄関広間に姿を見せなかった。すれ違う小間使いだけが、普段より深く腰を折り、すぐに目を逸らした。哀れみと、自分に累が及ぶのを避けようとする距離の置き方とが、同じ会釈の形に折りたたまれていた。廊下の燭台の炎は、わたしの足音を追うように一度ずつ揺れ、揺れた分だけ壁に伸びた影が短く縮んだ。

 わたしは三階の自室へ上がり、月色の絹を脱いで寝台の上に広げた。皺を指先で伸ばす。袖口の繕いは、大広間の冷たい床の上でも崩れてはいなかった。五度目の補強は正しかった。自分の仕事を自分で確かめる手順を、わたしは毎晩欠かさない。

 蝋燭を二本灯して、裁縫道具の位置をもう一度確かめた。糸車は三巻き。針は七本。小鋏は母の形見の一振り。銀のボタンが小瓶の底でかすかに鳴る。旅装の鞄は、寝台脇にそのまま。扉の前に靴を並べ、鞄の口の紐を結び直しておく。

 いつでも出られる。

 そう確かめてから、寝台の端に腰を下ろした。ふくらはぎの冷たさが、今になって戻ってくる。大広間で石の冷気を吸い上げたところが、じわりと震え始めた。膝の上に両手を重ね、指先を腹のあたりへ押し付ける。息を腹の奥で回す。母の声が、耳の奥で言っていた。冷えは、走らせずに留めなさい。

 窓の外の菩提樹が、夜風で小さく鳴った。

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 夜明け前、扉を叩く音がして、目を覚ました。

「お嬢さま……旦那さまと奥さまが、南の応接間でお待ちでございます」

 小間使いの声は、震えていた。朝一番の用件が居室ではなく応接間である時点で、話の輪郭は決まっていた。

 わたしは身を起こし、月色の絹を再び身につけた。母の一着を纏わぬまま、継母の前に立つつもりはなかった。

 南の応接間は、この時刻、陽が斜めにしか入らない。継母は深紅のガウンのまま、卓の向こうの椅子に浅く腰掛けていた。父の姿は奥の肘掛椅子にあった。先代の当主と比べ、父はいつも半歩遅れて来る人だった。迷いではなく、決めるのを先送りにする形の半歩。卓の上の茶器は湯気を失って久しく、磁器の縁に冷めた水面がぴたりと張りついていた。誰も口をつけなかった朝の茶は、この家の会話の代わりだった。

「セラフィーナ」

 継母が名を呼ぶ。扇を閉じる音がひとつ。

「昨日の顛末は、聞きましてよ。殿下に破棄された令嬢を、この屋敷に置いておく理由は、もうこの家にはありませんの」

 わたしは黙って、礼を返した。頭を下げる角度を、母の教えた通りに保つ。深すぎず、浅すぎず、相手に媚びぬだけの傾き。

「養う義理はない、と申し上げているの。分かって?」

「承りました、お義母さま」

「荷は、裁縫道具と、そのドレスだけ。手切れ金は──」

「結構にございます」

 言葉が、思ったより早く喉から出た。自分の声の輪郭が、昨夜より一段、はっきりしていることに、わたし自身が少し驚いた。

「結構?」

「お義母さまからいただくものは、何もございません。母が遺してくれた物を、この手に持って出ます。それだけで十分にございます」

 継母の扇の骨が、卓の縁でかすかに軋んだ。勝者の顔から、わずかに当惑が零れるのを、わたしは見た。見届けてから、もう一度、礼を深くした。金銭で縛ろうとした手を、空振りさせた。それだけのことが、この屋敷で生まれて十八年、ようやくわたしに許された最初の反撃だった。

「──では、失礼いたします」

 父のほうへは、視線を向けなかった。向けたところで、父の返してくる半歩の遅れを受け止める余力が、今朝のわたしにはもう残っていなかった。背中で扉を閉じたとき、掌が汗ばんでいるのに初めて気づいた。

 応接間を出て、自室へ戻る。鞄の口を解き、中身をもう一度量る。月色の絹の替え、肌着、くし、銀のボタンの小瓶、裁縫道具ひと揃い、母の手紙を束ねた革紐の一束。積み直して、ふたを閉じる。この鞄で、行けるところまで行けばいい。

 階段を降りる。広間にはもう、継母の姿はなかった。けれど二階の欄干の影に、桃色の朝着が一枚、ひらりと揺れた。

「姉さま、本当にお出かけですの」

 エリアーナの声は、昨日、扇の陰でわたしを指した他の令嬢たちの声と、同じ抑揚だった。

「ええ」

「どちらへ?」

「まだ、決めていませんの」

「まあ……お気の毒な」

 わたしは振り返らなかった。振り返る手間を、振り返らないことに使うほうが、ずっと美しい立ち去り方だと、母が教えてくれた。

 大扉が開く。玄関前の石畳に、フィッツが立っていた。帽子を胸に当て、白髪を深く下げている。

「お嬢さま」

「街道まで、お願いできますか」

「もちろんにございます」

 老御者の声は、涙ぐんでいた。けれどその皺の底には、決然とした光が一粒だけ残っていた。

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 街道の三つ目の石標のところで、わたしは荷馬車を降りた。

「フィッツ、ここで結構よ」

「なりませぬ。せめて宿場町まで──」

「ここから先は、わたしの足で歩く距離ですの。あなたを屋敷から離し過ぎれば、あなたの居場所まで危うくなってしまうわ」

 老御者は、言葉を呑んだ。両手で帽子の縁を握り直し、深々と頭を下げた。

「どうぞ、お気をつけて」

「ありがとう、フィッツ」

 わたしは荷馬車の荷台から、革の鞄を下ろした。鞄は思ったより軽く、思ったより重かった。

 荷馬車が街道の彼方に消えるまで、わたしは見送った。老いた背中が春霞に溶けていく。帽子の白い縁が最後の光になって、ひと揺れだけ、返事のように揺れた。

 それから石標の側に腰を下ろし、裁縫道具を開いた。

 街道の端には、去年の霜で折れた柳が一本、倒れたままになっていた。その根元に、旅装の布の切れ端が幾つか風に絡んでいる。商人の馬車が落としていった麻布だろう。わたしは立ち上がり、端切れを拾い集めた。泥のついたところを小鋏で落とし、陽の当たる石の上に広げる。埃を払い、布の目を指で撫でて、糸の向きと太さを確かめる。麻の縦糸が粗く、横糸は少しだけ細い。脚絆にするには縦を内側へ回したほうがいい──指先が勝手に判断して、鋏の刃を当てる位置を決めた。刃が布を噛むときの小さな手応えが、掌にほのかな熱を返してくる。道具が、わたしを知っていた。わたしより先に、わたしの次の一手を覚えていた。

 母のドレスの裾は、道中で汚れれば汚れるほど、絹の艶を失っていく。わたしは月色の絹の裾を、内側へ折り込むことにした。内側へ折り込み、麻の端切れを添え木のように縫い付ける。表からは月色のまま、内側だけが質素な旅装に変わる。絹の裾を切ることも考えた。けれど、切ってしまえば元には戻せない。戻せるように繕う。それが母から受け継いだ、ただひとつの流儀だった。

 針を布に通すたび、昨夜の冷気が指先から抜けていく。糸を引くたび、広間のざわめきが遠ざかる。石標の影が少しずつ東へ伸びていく。うぐいすが二度鳴いて、どこかの畑で鍬の音がした。世界は、わたしが婚約者を失った朝にも、平常の拍子で動いていた。そしてそのことが、今のわたしには救いだった。

 手首の内側に、朝の風が触れた。湿った土と若葉の匂い。春は、昨日と変わらない速度で芽吹いていた。わたしが変わったのではない。わたしの居場所が、ようやく正しく狭まっただけだった。

 家ではなく、手の中に。

 針を止め、石標の文字を指で確かめる。隣国オルムスまで、あと二十里。

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 布を畳み、鞄の口を結び直す。立ち上がると、ふくらはぎの冷たさは、もうどこにもなかった。

 街道の向こうから、蹄の音が近づいてきた。一頭ではない。四頭、揃いの歩調。旅人のものにしては、あまりに整いすぎていた。

 わたしは鞄を肩に担ぎ直し、道の端へ寄った。砂埃の先に、黒い外套の肩が見えた。肩の縫い目が、見覚えのある落ち方をしていた。昨夜、大広間の片隅でわたしの肩口に視線を置いた、あの青年の襟に縫われていた紋と、同じ北方の星紋。

 馬の蹄が、わたしの前で止まる。

 先頭の騎士が下馬し、片膝をついた。手袋の上に、一枚の封書が載っている。封蝋には、隣国オルムスの王家の紋。

「ヴァイセンブルク嬢。我が主より、お届け物がございます」

 受け取った封書の重みが、掌に小さく沈んだ。春の風が、月色の絹の裾を、内側から静かに押し上げた。

 わたしは、まだ封を開かなかった。開く前に、この風の匂いを、もう一度深く吸い込んでおきたかった。

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