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婚約破棄、された夜に解き放たれて

第2話 第2話

第2話

第2話

馬車の車輪が砂利から石畳に変わる感触で、私は肘掛けを握る指先に力を込めた。

「——公爵邸の裏門が、もうじき」

 エルザの抑えた声が暗がりに落ちる。街路樹の枝が窓枠の向こうで揺れて、魔石灯の青白い光が一瞬だけ車内を走った。私は膝の上に揃えた白絹の手袋を、もう一度握り直す。三年間、昼も夜も外さなかったそれを、この一刻後には屋根裏の木箱に仕舞い込むつもりでいる。

 公爵邸の裏門の鍵番は、老いたハンスだった。私が七つのとき、庭の桜の若枝を折って泣いたのを、父に告げずに庇ってくれた男だ。馬車が止まり、エルザが合図の紐を三度引くと、閂の軋む音がかすかに応えた。

「——お帰りなさいませ、お嬢様」

 ハンスはそれ以上は何も問わなかった。こんな刻限に公爵家の紋なき馬車で戻った私を、彼は見なかったことにする。それが、この老いた門番の矜持だった。

 私は帽子を深く被り直し、勝手知ったる敷石を足早に渡った。庭の月下香が、宮殿のそれとはまるで違う匂いで鼻先をかすめる。幼い頃から嗅ぎ慣れた、この家の香り。胸の奥が一瞬だけ引き絞られて、私は呼吸を整えた。

 止まれば、もう歩き出せなくなる。

---

 三階の自室に入った私は、真っ先に書き物机へ向かった。

 扉を閉めた瞬間、部屋の空気がぴたりと止まった気がした。三年ぶりの自室は、出立した日のまま時間が凍っていて、書棚の埃の匂いさえ当時のそれと寸分違わない。私は燭台の芯を立て直し、机の上に一筋の光だけを残した。必要以上の灯は焚かない。使用人たちの誰かが気づけば、この夜逃げは頓挫する。

 ペン先がインク壺の底を叩く音が、深夜の部屋に硬く響く。羊皮紙は、外交文書で使っていた細目の上等なものを一枚だけ抜き取った。父への手紙に、薄っぺらな紙は使えない。

 ペンを握った指先が、一度だけ強張った。書くべき言葉は決めてきたはずなのに、最初の一画が羊皮紙に触れるまでに、私はひどく長い時間をかけた。父の顔が瞼の裏をよぎる。幼い私を肩車して書棚の上段を見せてくれた背。婚約内定の知らせを受けた晩、ただ一言「よく務めよ」とだけ呟いた、あの声の奥の震え。私はそれらを喉の奥に押し戻して、ペンをインクに沈めた。

 短く書いた。

『お父様。

 殿下のご決断により、私は公爵家を離れます。どうか捜さないでください。

 消えた娘として扱ってくださるなら、公爵家に対する王家の体面は保たれましょう。

 宰相閣下のお気遣い、胸に刻みました。ハインリヒ卿を通じて父上のお心を察しております。どうか、それ以上の無理はなさいませぬよう。

 グランツ公爵家の名を傷つけることは致しません。私は私の足で立ちます。

 三年の歳月を見守ってくださったこと、末娘として心より御礼申し上げます。

                                リーゼロッテ』

 書き終えて、私はしばらく羊皮紙を見下ろしていた。インクが乾くまでの数十秒、胸の底が鈍く痛んだ。言い足りない言葉が、喉のあたりで固まって動かない。けれど、それらを書けば書くほど、父は私を捜してしまう。沈黙こそが、この家への最後の贈り物だった。

 封蝋は押さなかった。押せば、公爵家の紋が残る。ただ紙を三つに折り、父の書斎の机の抽斗——私が幼い頃に勝手に物を仕舞っていた、父がそれを知っていてわざと鍵をかけなかった抽斗——の奥に差し込んだ。

 抽斗の奥には、私が七つの頃に落書きした木片や、押し花の欠片がまだ残っていた。父はこの抽斗を、娘の記憶を仕舞う場所として残していたのだろう。その最奥に、別れの手紙を一枚、そっと重ねる。指先が木の底板に触れた瞬間、私は目を伏せた。

 それから、衣裳部屋に向かった。

 燭台を掲げると、並んだ絹のドレスがゆらりと影を揺らす。夜会で肩を覆ったレースの袖、舞踏会のために誂えたビロードの裾、外交の席で纏った国色の上着——これらは、もう私のものではない。

 袖口の一つに指を滑らせると、金糸の刺繍がひやりと冷たい。この一着を纏ったとき、私は隣国の使節の前で完璧な辞令を述べ、父が背後で微かに息を吐いた音を聞いた。あの夜の誇らしさも、肩の凝りも、今夜ここに置いていく。

 奥の抽斗から、下働きのために仕立ててあった麻の上着と、旅用の厚手の外套を引き出した。色は焦茶、糸目は荒い。手のひらが覚えている絹の滑らかさとはまるで違う、ざらりとした繊維の手触りが、指先を通して肩の力を抜いていく。

「お嬢様、こちらの髪飾りは」

 エルザが銀皿を差し出した。真珠のピン、白銀の櫛、夜会用の黒曜石の留め具。どれも、グランツ公爵家の家財だ。

「持っていかないわ。公爵家のものに手をつけて出るわけにはいかない」

「では、旅費は——」

「私が宮廷翻訳で得た報酬が、まだ手つかずで残っている。あれだけを持っていきましょう」

 エルザが小さく頷いた。六カ国の外交文書を訳して得た、数枚の金貨と百枚ほどの銀貨。この三年の間で、ただ一つ、私が『私のもの』として積み上げたものだった。

 鏡の前で、結い上げた銀髪をほどく。鼈甲の櫛を一本ずつ抜き、象牙のピンを外し、最後の一本を銀皿に置いたとき、指先に微かな震えが走った。背の半ばまで流れ落ちた髪を、粗い布紐で一つに束ね直した。

「……これでいい」

 鏡の中には、もう公爵令嬢はいなかった。焦茶の麻を纏い、布紐で髪を束ねた、名もない一人の女だけがこちらを見返していた。その女の瞳の奥に、けれど、まだ消せない光が宿っているのを、私は見つけてしまう。——矜持ではない。意志だ。

 最後に、書棚から一冊だけ本を抜いた。『辺境薬草誌』——十五のときに王妃教育の一環で写本した、自分で綴じ直した厚い手稿。余白には、当時の私が書き込んだ調合比率が鉛筆で残っている。アルニカ、ヨモギ、ラベンダー、ゴボウ根——植物の名が、黒ずんだ鉛筆の線で並んでいた。

 この一冊が、これから私を生かす。

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 夜明け前の街道は、霧が低く垂れ込めていた。

 王都の外壁を抜けて半刻、私は窓から外を見た。宮殿の尖塔——三年間、朝に晩に眺めたあの灯り——が、丘の稜線に淡く滲み、やがて霧に溶けた。消えるまで、私は息を詰めていた。

 消えた瞬間、ようやく息が吐けた。

「——エルザ」

「はい、お嬢様」

「『お嬢様』は、今夜が最後よ。明日からはリーゼと呼んで。あなたがお嬢様と呼び続ける限り、私は公爵令嬢のままになってしまう」

 エルザは一瞬、唇を噛んだ。それから深く頷いた。

「……リーゼ」

 その名が、私の耳に静かに落ちた。ありふれた、辺境にも王都にも転がっている名。初めて聞いたはずのその響きが、不思議と馴染む。たぶん、私が永く押し込めていた名前だったのだろう。

「道中、一つだけ確かめておきたいの」

「なんでしょう」

「私が持っているのは、何かしら」

 エルザが怪訝そうな顔をする。私は膝の上の『辺境薬草誌』を指先で叩いた。

「爵位は棄てた。お父様の財は持ち出さなかった。剣も使えない。残っているのは、三年の王妃教育で私が『自分のために』学んだ薬草学だけ」

「……充分にございます、リーゼ様」

「『様』もいらないわ」

 エルザが苦笑した。けれど、その目はまだ濡れていた。

 街道は、北東へ真っ直ぐ伸びていた。王都を囲む青い麦畑が、やがて痩せた草原に変わり、草原が石の目立つ荒野に変わった。一日、二日、三日——宿場ごとに馬を替え、私たちは北東へ、北東へと進む。

 宿場での食事は、固い黒パンに塩漬けの豚、薄い葡萄酒。公爵邸の白磁の皿とはまるで違う、木の椀に盛られた質素な食事だ。初日は喉を通らなかったそれが、三日目には当然のものになっていた。身体は、慣れる。

 御者が一度だけ、振り返らずに問うた。

「奥様方は、どちらまで」

「フェルデンまで」

 私は答えた。『奥様方』という呼び方が、胸の中で静かに落ち着いた。もう令嬢ではない、けれど一人の女として扱われる——その位置が、思いのほか居心地よかった。

 馬車の揺れに身を任せながら、私は『辺境薬草誌』を開いた。アルニカの項に、十五の私が書き込んだ字が残っている。『打撲・切創に有効。ただし妊婦禁忌』。あの頃の私は、まさかこの知識一つで生計を立てることになるとは思っていなかった。

 けれど——この一冊だけが、今の私の武器だ。

 剣を持たず、爵位を持たず、名も持たない。

 それで、十分だ。

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 五日目の黄昏、馬車が丘の頂上で停まった。

 御者が初めて振り返った。

「——あれが、フェルデンで」

 窓の外を見た私は、息を呑んだ。

 荒野の果てに、暗い紺碧の海が広がっていた。その手前、岬の付け根の窪地に、無数の灯りが瞬いている。漁港の篝火、家々の窓、桟橋の魔石灯——それらが互いに寄り添うようにして、一つの光の群れを作っていた。

 海風が馬車の中まで吹き込んで、初めて嗅ぐ潮の匂いが鼻を刺す。鉄を含んだ、少し生臭い、けれど懐かしさに似た何かを含んだ匂い。

「あれが、私の新しい居場所」

 呟いた声は、海鳴りに攫われた。

 エルザがそっと私の手を握る。馬車が再び動き出し、坂道を下る車輪の音が、潮騒に混ざって高く鳴った。

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