第3話
第3話
馬車の扉を押し開けた途端、潮風が顔を叩いた。
魚を干す煙の匂いと、塩と、それから古びた木造家屋から立ち昇る焚き火の匂いが一斉に鼻を刺す。王都では嗅いだことのない、もっと獣めいて、もっと生々しい匂いだった。私は旅外套の襟を立てて、石畳に足を下ろした。夕暮れの光は紺碧の海に半ば呑まれかけ、桟橋に灯り始めた魔石灯が、波頭に千々に散っている。
「——リーゼ、足元」
エルザの抑えた声に下を見れば、石畳の隙間に魚の鱗が詰まっていた。靴底が銀色にぬらりと光っている。荷袋を抱え直しながら、私は歩き出した。
フェルデンは、思っていたよりも活気があった。荷揚げ場では日に焼けた男たちが木箱を担ぎ、干し網の下では女たちが裂き魚の腹を裁いている。裸足の子供が水桶を抱えて駆け抜け、犬が骨をくわえてその後を追う。鉄を含んだ潮の匂いに、生魚の甘い腐臭と、どこかの小屋で燻される鰯の煙が重なった。
「よそ者だね」
橋のたもとで鱈を下ろしていた老婆が、仲間に向かって平らな声で言った。返事はなかった。けれど、その沈黙が答えだった。
背中に集まる視線の冷たさを、私は懐かしく感じた。宮廷の回廊で受けた、ねっとりと絡むような値踏みの視線とは違う。こちらの視線は、砂利のように乾いている。それだけ、この町の人々は裏表の読めない性分なのだろう。
私は石畳の坂を上った。宿場の御者から聞き出した唯一の手がかり——マルタ婆さんの療養院は、丘の中腹にあるという。
漆喰の剥げた白壁の、二階建ての古い建物だった。玄関に掛けられた木札には、色褪せた墨で『療養院』とだけ書かれている。扉の蝶番が軋み、押し開けた途端、薬草の干し臭と、煮詰まった湯気の匂いが押し寄せた。——それと、血の鉄錆と、汗の饐えた匂い。
土間の奥で、白髪の女が薬研を挽いていた。
「——閉院だよ」
こちらを見もせず、彼女は言った。乾いた声だった。
「おかみさん、マルタ様ではございませんか」
私が口を開くと、ようやく彼女が顔を上げた。七十は超えているだろうか。白く濁った右目と、ぎらりと冴えた左目が、同時にこちらを捉える。
「……様、ときたか。余所者の言葉遣いじゃないね」
しまった。三年の王妃教育が、喉の奥で勝手に口を開いた。私は息を整え、語尾を崩した。
「薬師として、雇われたく参りました。人手が足りないと、宿場で伺いましたので」
「見ての通り、銭は出せんよ」
マルタ婆さんは薬研の柄を置き、土間の棚を顎で指した。棚には欠けた乳鉢、曇った硝子瓶、蓋の合わない土鍋が雑然と並んでいる。瓶の中の薬草は、半分が黒く変色していた。湿気を吸わせたまま放置されたのだ。胸の奥が、ちりりと疼いた。
「銭は要りません。寝床と、食事だけ」
「食事もろくなもんじゃない」
「黒パンと塩漬けで結構です」
マルタ婆さんの左目が、ゆっくりと私の手を捉えた。布紐で括られた髪、焦茶の麻の袖、土で汚れた旅靴——それらを順に見て、最後に私の指先で止まった。インクの染みは落としたはずだった。けれど、紙の端で擦れた薬指の腹の胼胝と、ペン軸の形に窪んだ中指の節は、三年越しに削られた身体の記憶だ。
「まあ、いいさ。邪魔にならなきゃ置いてやるよ。今はそれどころじゃないからね」
そう言って、彼女は顎で土間の奥を指した。——藁布団の上で、小さな影が苦しげに喘いでいた。
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十歳に満たない男の子だった。
頬が林檎のように赤く、唇は乾いて皮が剥けかけている。細い首筋に汗が玉になって浮き、塩をまぶしたように光っていた。枕元に膝をついて額に掌を当てると、指の腹が焼けるように熱い。脈は早く、呼吸は浅い。——四十度近い。瞼の縁が紫がかって窪み、薄く開いた口からは、熟れすぎた果実のような呼気が漏れている。
「漁師の二男坊だ。昼過ぎに網を曳いていて、急に倒れた。熱冷ましの煎じ薬を飲ませたが、効きゃしない」
マルタ婆さんの声が、わずかに震えていた。節くれ立った指が、薬研の縁を無意識に撫でていた。その爪の根元には、古い薬草の汁が黒く染みついていて、彼女がどれだけの年月この子たちの命に触れてきたのかを、無言で物語っていた。
私は枕元の土鍋の蓋を取った。湯気が顔を撫でて、眉根がひそんだ。中身を覗いて、息を呑む。ヨモギの葉が、黒ずむほど煮詰められていた。これでは有効な成分が壊れている。それに——香りが、おかしい。青臭さの奥に、鉄錆に似た粘い匂いが這っている。
「マルタ様、この葉は、どこの」
「敬語はやめな。棚の三段目さ」
私は棚を振り返り、硝子瓶を開けた。蓋の縁が湿気でふやけて、ぬるりと指に張りついた。掌に一枚載せて、指先でそっと擦る。青臭い香りに混ざって、鼻の奥を刺す、ほんのかすかな鉄のような匂い。——枯れかけの株から採られたものだ。薬効はほとんど残っていない。葉脈は褐色に縮れ、指で軽く押しただけで粉になって落ちた。
「この子、塩気のあるものを口にしなかったか」
「……ああ、朝飯に、父親が塩鰯を」
額の熱と、唇の乾き方、それから浅い呼吸。海辺の漁師の子が、塩分過多で熱中りを起こしているところへ、質の落ちたヨモギで胃を痛めた。解熱だけでは足りない。身体から塩ばかりが抜けて、水と糖が追いつかなくなっている。このまま放てば、夜半までもたない。
私は荷袋から『辺境薬草誌』を引き抜いた。十五の私が書き込んだ鉛筆の字が、火影に浮かぶ。——アルニカ、ラベンダー、ゴボウ根。頁をめくる指が、勝手に動いた。
「熱湯を一椀。それから、塩壺と、蜂蜜と、棚の一番奥にあるラベンダーの乾燥花。黒ずんでいないやつを」
「あんた——」
「急いで」
自分の声が、宮廷で誰かに命じていた頃のそれに近くなっていることに、私は遅れて気づいた。けれど今は、取り繕っている暇がない。エルザが動き、マルタ婆さんも無言で棚に手を伸ばした。皺の寄った指先が、迷いなくラベンダーの瓶を選び取る。目は濁っていても、手は覚えているのだ。
私は湯に塩を一つまみ、蜂蜜を匙で半分溶かした。琥珀色がゆっくりと湯に溶け、甘い花の香りが立ち昇る。これで失われた水分と糖分を戻す。ラベンダーは別の碗に入れて、熱湯を注いで蓋をする。蒸気で鎮静させ、熱を冷ます。それから——薬草誌の頁を指で押さえた。ゴボウ根。解熱と利尿。あった。
乳鉢にゴボウ根を削り入れ、ほんの少しのヨモギ——棚の奥に残っていた、まだ緑の残る一枚——と合わせて擦り潰した。木さじで搾り汁を抽き、塩湯の椀に落とす。
「この子の頭を支えて」
エルザが男の子の後頭部を掌で支え、私は匙でゆっくりと湯を流し込んだ。唇の縁から零れた雫を、手の甲で拭う。一匙、二匙、十匙。子供の喉仏が、小さく上下した。
それから、ラベンダーの蒸気の椀を、枕元に置いた。
半刻ほど、誰も喋らなかった。マルタ婆さんの薬研も、土間の火の爆ぜる音も止まって、男の子の呼吸だけが、少しずつ、少しずつ深くなっていった。時折、遠くの桟橋で綱を打つ音が、夜の静けさに点々と穴を空ける。私は子供の手首に指を当てたまま、脈の数を数えていた。百、九十、八十五——。数が落ちていくたびに、自分の肩からも、見えない重しが一つずつ下りていく。
額の熱が、指の腹から引いていくのがわかる。皮膚の赤みが、林檎色から桃色へ、桃色から薄紅へ。唇に血色が戻り、瞼がひくりと動いた。
「母ちゃ……」
男の子が寝言のように呟いた。
マルタ婆さんの喉仏が、大きく上下した。濁った右目から、透明なものが一筋、皺の谷を伝って落ちた。彼女はそれを袖で無造作に拭い、何事もなかったように鼻を鳴らす。けれど拭った袖口が、小刻みに震えていた。
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男の子の父親が礼を言って帰ったあと、土間には薬研を置いた彼女と私だけが残った。火影が、壁に老女の影を大きく揺らしている。
「——あんた、どこでそれを覚えた」
マルタ婆さんの左目が、じっと私を見ていた。
「本で、少し」
「本だけで、塩と蜂蜜と、あの手つきは出てきやしないよ」
私は答えに詰まった。喉の奥で、三年間の王妃教育が、また勝手に名を上げかけている。私はそれを押し戻し、乳鉢の縁を指で撫でた。欠けた陶の縁が、ざらりと指の腹を擦る。
「……昔、ご婦人の傍で、見よう見まねで」
「ふん」
マルタ婆さんは鼻を鳴らした。それ以上は、問わなかった。代わりに、彼女は薬研の柄を私の前に押し出した。
「これ、挽いておくれ。明日から、棚の整理も頼むよ」
私は柄を握った。木の取っ手は、長い年月で擦り減り、掌の形に窪んでいた。その窪みに指を馴染ませたとき、胸の底が、ゆっくりと温かくなった。
夜風が玄関の隙間から吹き込んで、干された薬草の束を揺らした。海鳴りは、相変わらず遠い。
外の桟橋の方角で、犬が一声、長く吠えた。