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婚約破棄、された夜に解き放たれて

第1話 第1話

第1話

第1話

燭台の炎が揺れたのは、風のせいではなかった。

「リーゼロッテ嬢——私はあなたとの婚約を、本日をもって破棄する」

 第二王子エルヴィン殿下の声が、大広間の天井に吸い込まれていった。数百の招待客が一斉に息を呑む気配が、絹擦れの音と共に広がる。シャンデリアの魔石灯が白々と広間を照らし、柱の影までもが凍りついたように動かない。私の隣では、薄紅色の髪をした男爵令嬢が殿下の腕にすがりつき、怯えたように身を震わせていた。その瞳に浮かぶ涙が、あまりにも計算された角度で光っている。

 ああ、そういうことか。

 三年だった。王妃教育に費やした三年。宮廷作法、外交儀礼、領地経営——父の期待と王家の要求に応えるため、私は自分の時間というものをほとんど持たなかった。深夜まで提言書を書き、領地改革の草案を何度も王家に提出した。インクで黒ずんだ指先を手袋の下に隠し、睡眠を削って覚えた六カ国の外交慣例。そのすべてが、今この瞬間、たった一言で灰になった。

 けれど不思議なことに、胸の奥で崩れたのは悲嘆ではなかった。

 ——ようやく、この鎖が解ける。

 身体の芯を、静かな安堵が満たしていく。三年間、気づかぬふりをしていた重さが、肩から滑り落ちるのがわかった。

「殿下」

 私は背筋を正し、大広間に響く声で答えた。

「ご決断に敬意を表します。三年間のご厚誼、謹んで御礼申し上げます」

 完璧な礼を——宮廷作法の教本そのままの角度で。一分の隙もなく。これが私にできる最後の仕事だった。

 エルヴィン殿下の表情がわずかに揺らいだのを、私は見逃さなかった。おそらく殿下は、泣き崩れるか、取り乱すか、あるいは縋りつくことを想像していたのだろう。そのどれも差し上げる気はなかった。

 踵を返す。背中に数百の視線が突き刺さる。絹の靴が大理石の床を打つ音だけが、静まり返った大広間に響いた。どこかで扇を落とした貴婦人の小さな悲鳴が聞こえたが、私の足は止まらなかった。

 一歩、また一歩。私は振り返らなかった。

---

 控えの間の扉が閉まった瞬間、従者のエルザが駆け寄ってきた。

「お嬢様——」

 その声は震えていた。私よりも先に、彼女の目に涙が浮かんでいる。幼い頃から仕えてくれたエルザは、この三年間の苦労を誰よりも間近で見てきた人だ。提言書の清書を手伝い、徹夜明けの私に温かい茶を淹れ、宮廷の陰口から私を庇ってきた。

「泣かないで、エルザ」

 私は手袋を外しながら言った。指先が冷えている。大広間では気づかなかったが、緊張で血の気が引いていたらしい。白絹の手袋の内側が、うっすらと汗で湿っていた。

「お嬢様は悔しくないのですか。三年間、あれほどお尽くしになったのに——あの方は、あんな」

「悔しい、とは少し違うわ」

 壁際の長椅子に腰を下ろす。控えの間にも夜会の楽団の音がかすかに届いていた。弦楽の旋律が薄い壁を通して滲み、それがかえって現実との距離を際立たせる。何事もなかったかのように、宴は続いている。私一人の婚約破棄など、王都の社交界にとっては今夜の余興に過ぎない。

「三年間の努力が無駄だったとは思わない。領地改革の提言書も、外交文書の翻訳も、私自身の力になった。けれどね、エルザ」

 手袋を膝の上に揃えて置き、息をひとつ、吐いた。燭台の炎が、その息にわずかに揺れた。

「——ようやく終わった、と思っているの」

 エルザが目を見開いた。

「殿下との婚約は、お父様とご先代の約束。私に選ぶ権利はなかった。王妃教育も、宮廷での振る舞いも、すべて『グランツ公爵家の娘として当然のこと』だった。でも今夜、殿下ご自身がその約束を破ってくださった」

 窓の外では、王都の夜空に星が散っていた。この街の星は、いつも宮殿の灯りにかき消されて淡い。けれど今夜は、その淡さがどこか優しく見えた。

「これは解放よ、エルザ。殿下には感謝しなければならないわね」

 皮肉ではなかった。少なくとも、半分は本心だった。

 エルザは長い沈黙の後、ハンカチで目元を拭い、いつもの毅然とした表情に戻った。

「——お嬢様がそうおっしゃるなら。それで、これからどうなさいますか」

「公爵邸に戻れば、お父様は体面のために動かざるを得なくなる。王家との交渉、社交界への釈明——グランツ公爵家の名が傷つくのは避けられない」

 私は立ち上がり、窓辺に歩み寄った。硝子に映る自分の顔は、思ったよりも穏やかだった。夜会用に結い上げた銀髪に飾られた真珠のピンが、窓の向こうの星と重なって光っている。この髪飾りも、明日には外すことになる。

「だから、私は消えるわ」

「消える——?」

「公爵令嬢リーゼロッテが王都から姿を消せば、お父様は『娘の行方を捜している被害者』として振る舞える。王家に対しても交渉の余地が生まれる。けれど私が実家に戻れば、それは公爵家が王家と正面から対立するという意思表示になってしまう」

 エルザの表情が変わった。従者としてではなく、私を幼い頃から知る一人の女性として、その瞳が揺れている。

「お嬢様、それはあまりに——」

「辺境へ行きましょう」

 私は振り返り、エルザの手を取った。驚くほど温かい手だった。大広間で凍えた自分の指先との差に、不意に胸が詰まる。

「薬草学の知識がある。どこかの療養院で働けば、身を立てることはできるわ。名は——そうね、リーゼとでも名乗りましょう。ありふれた名前の方が都合がいい」

 エルザは私の手を見つめ、それからゆっくりと握り返した。

「……お供いたします。どこまでも」

「ありがとう」

 それだけ言って、私は再び窓の外に目をやった。この手袋を外したように、公爵令嬢としての衣も脱ぐ。明日にはこの王都を発とう。

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 身支度を整え、控えの間を出た廊下で、私は足を止めた。

 大広間へ続く回廊の柱の陰に、見知った人影があった。宰相府の書記官を務めるハインリヒ卿——お父様の古い友人だ。

「リーゼロッテ嬢」

 低く、落ち着いた声だった。回廊を照らす魔石灯の青白い光が、ハインリヒ卿の白髪交じりの横顔を浮かび上がらせている。

「宰相閣下よりお言伝です。『何も聞いていない。何も見ていない。だが北東の街道は今夜、検問が手薄だ』と」

 私は一瞬、言葉を失った。宰相閣下が——いいえ、おそらくお父様が、宰相を通じて道を開けてくださったのだ。公爵として表立っては動けない。けれどこの一言で、王都を出る私の安全は確保される。

 喉の奥が熱くなった。あの厳格な父が、娘のためにどれほどの政治的貸しを使ったのか。その重さを思うと、まっすぐ立っているのがやっとだった。

「ハインリヒ卿。閣下にお伝えください。『謹んで承りました』と」

 それ以上は何も言わなかった。言えば、きっと声が震える。

 ハインリヒ卿は静かに一礼し、柱の陰に消えた。

 廊下を歩きながら、私は唇を引き結んだ。泣くのはまだ早い。公爵令嬢リーゼロッテ・フォン・グランツとしての最後の夜に、涙は似合わない。

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 宮殿の裏門を抜けると、夜風が髪を攫った。宴の喧騒は遠く、虫の声だけが石畳に響いている。夜気に混じる花の匂いは、宮殿の庭園に咲く月下香だろう。この香りを嗅ぐのも、おそらく最後だ。

 エルザが手配した馬車が、街路樹の影に待っていた。飾り気のない、商人が使うような二頭立て。公爵家の紋章はどこにもない。

「エルザ、一つだけ約束して」

 馬車に乗り込む前に、私は振り返った。

「もう『お嬢様』とは呼ばないで。明日からは薬師リーゼよ」

 エルザが泣き笑いのような顔をした。

「——はい、リーゼ」

 馬車が動き出す。窓から見える王都の灯りが、少しずつ遠ざかっていく。宮殿の尖塔に灯る魔石の光が最後まで見えていたが、やがてそれも丘の向こうに沈んだ。

 北東の街道は、ハインリヒ卿の言葉通り、検問の姿がなかった。馬車の車輪が砂利を噛む音だけが、夜の闇に吸い込まれていく。

 膝の上で組んだ指先に、まだ手袋の跡が残っていた。三年間、一日も欠かさず嵌めていた白絹の手袋。それを外した指先は、思いのほか頼りない。

 けれど——この手で、薬草を摘もう。この手で、誰かの傷を癒そう。王家のためではなく、自分の意志で。

 街道の先に、何があるかはわからない。辺境の港町フェルデンという名前だけを頼りに、私は暗い道を進んでいる。

 不安がないと言えば嘘になる。けれど、あの大広間で膝を折った瞬間に感じた安堵を、私は信じることにした。

 馬車の窓の向こう、東の空がうっすらと白み始めていた。

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