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氷の公爵は透明な私を見つけた

第2話 第2話

第2話

第2話

蹄の音は、もう地面からではなく、胸の内側から響いていた。

花畑の中に立ち尽くしたまま、私は両手でスカートの裾を握りしめていた。泥で重くなった布地が、冷たい汗を吸って指に絡みつく。逃げようと一度、足を半歩引いた。けれど踏み出した先の草が柔らかすぎて、体重が沈み、膝がかくんと折れた。立ち上がり直す間に、黒い影はすでに目の前まで迫っていた。

馬が、止まった。

風を切って走っていたはずなのに、最後のひと呼吸だけで速度を落とし、前脚を深く沈ませて停止した。訓練された獣の、一分の無駄もない動きだった。湿った革と馬の息の匂いが、甘い花の香りを押しのけて鼻先に届く。馬の首筋には白い泡が浮いていて、蒸した肉のような熱が距離を超えて伝わってきた。

上に乗った人影は、降りなかった。

見上げた。首が痛くなるほどの角度。黒い外套の裾が、馬の腹まで覆って風に重く垂れている。その肩の高さ、鞍上からこちらを見下ろす視線の位置。——高い。私の頭の二倍近い場所から、刃のような視線が落ちてきた。

灰銀。

そう呼ぶほかない色だった。曇った鏡のような、冬の湖の底のような、温度のない銀。瞳孔の縁だけがわずかに黒く、奥には光が届いていない。その瞳が、私の泥まみれの指先から泣き腫らした目元までを、一拍で検分した。

「——何者だ」

声は低かった。怒鳴ってはいない。むしろ抑えられていた。抑えられているのに、花畑の空気がそれだけで硬く張り詰めた。

私は口を開こうとして、喉が鳴っただけだった。

「ここが何処か、分かって踏み入っているのか」

馬上の人は、重ねて問うた。言葉の端は静かだが、鞘から半分だけ抜いた刃のような緊張があった。私は両手を胸の前で合わせ、首を横に振った。首を振る動きだけで、頬に残っていた涙の粒が顎を伝って落ちた。その涙を、男の視線がたしかに追った。

「……分かりません」

やっと、そう答えた。自分の声が、風に吹き消されそうなほど細かった。

「屋敷の、花壇で——水をやっていて。銀色の花に、触れたら」

続きが出てこなかった。触れたら、という言葉の次に続く事実を、自分の口で認めるのが怖かった。触れたら、私はここにいた。触れたら、私は伯爵家から消えていた。そして消えてしまったことに、何の痛みも覚えていない自分がいた。

男は返事をしなかった。代わりに、馬を一歩だけ前へ進めた。

花が、蹄の下で折れた。甘い香りが一段濃くなった。私は後ずさろうとして、背後の花々に足を取られた。尻餅をつく寸前で、スカートの裾を強く踏みつけた自分の右足に救われた。転ばずに済んだ。けれど顔を上げれば、馬の鼻先は、もう私の胸の前にあった。

「この花畑は」

男の声が、少しだけ低くなった。

「三百年のあいだ、門外不出だ。北領公爵家の封が解けぬ限り、人が足を踏み入れることは許されない。ましてや花の一輪、摘んだ者は——」

そこで、言葉は途切れた。

鞍上の男が、手綱を握り直した。革の鳴る音がした。私は、その手を見ていた。長い指、骨ばった関節、節の太い手首。剣を握り続けてきた手の形だと、本能で分かった。その手が、私を捕らえるために下りてくるのだろうと思った。

けれど、男は動かなかった。

凍り付いたように、私の顔を見つめていた。

風が、ひと息ぶん止まった。

花畑の音も、馬の呼吸も、私自身の心拍も、すべてが薄い膜の向こうに押しやられた。男の灰銀の瞳の奥で、何かが揺れた。水面に小石が落ちるのに似ていた。最初は波紋ひとつ、それから同心円が広がって、瞳の色そのものが震え始めた。

銀が、退いていく。

鈍い冬の色が、端のほうから少しずつ溶けていくのが分かった。氷の張った湖面が朝日に炙られて、外周から薄く割れていくときの、あの静かな崩れ方に似ていた。瞳の奥で、何かが堰を切ったように溢れ出そうとしているのに、男自身がそれを抑え切れていない——その葛藤までもが、灰銀の縁にじわりと滲んでいた。睫毛が一度、かすかに震えた。男は息を呑み、それから細く長く吐き出した。吐息の白さが、冷たい花畑の空気に溶けて消えた。代わりに滲んできたのは、もっと深い色だった。宵闇の帳が下りる直前の空の——薄紫。夜の縁に残る最後の青と、血の通った温度が混ざったような、紫。

紫はゆっくりと虹彩の中心まで染め上げ、瞳孔を取り囲み、やがてその目全体を塗り替えた。

男の口が、かすかに開いた。

「——ようやく」

息のような声だった。怒鳴りつけるつもりで用意されていたはずの喉から、別の言葉が零れてしまった、という響き。

「ようやく、見つけた」

私の心臓が、一度だけ大きく跳ねた。それから、打つのを忘れた。

見つけた——誰のことだろう。自分のことではないと、最初に思った。私が誰かに見つけられるはずがなかった。伯爵家の食堂で八人に囲まれていても見つからなかった人間が、この見知らぬ世界の、見知らぬ男に、一瞬で見つけられるなどあり得ない。

けれど、男の紫の瞳は、ほかの誰でもなく私だけを映していた。

馬から、降りる気配がした。

革の軋む音と、ブーツが草を踏む鈍い音。低く、重たい音だった。一歩ごとに花の茎が折れる微かな悲鳴が、足元から立ち昇ってくる。それでも男の歩幅は乱れなかった。大きな影が馬体の向こう側から回り込み、私の真正面に立った。見上げる角度が少しだけ楽になった。それでも、胸の高さが私の鼻先くらいあった。

外套の裾が、花の頭を撫でた。男は片膝を落とした。

視線の高さが、合わされた。

逃げるべきだった。私の頭は、まだ朝の食堂の冷たいスープを覚えていた。見知らぬ者を恐れる理性は、ちゃんと残っていた。なのに身体は動かなかった。男の膝が私の膝のすぐ前にあって、その距離が、花畑の広さよりも遠くて、屋敷の九人家族の食卓よりも近かった。

男の右手が、ゆっくりと持ち上げられた。

私の手首を掴むのだと思った。振りほどかれないように、一息に握られるのだと。

けれど、男の指は、私の指のあいだに滑り込んできた。

人差し指と中指のあいだ、中指と薬指のあいだ、薬指と小指のあいだ。ひとつひとつ、順番に。確かめるように、それでいて躊躇いを許さない速度で。指先が私の指の付け根の薄い皮膚をかすめるたびに、産毛が逆立つような微かな痺れが手首まで駆け上がった。節の太い指が、私の細い指を飲み込むように絡み合い、掌と掌が合わされた。手袋を外した、素肌の手だった。掌の中央には、剣だこの硬い盛り上がりがあり、指の腹には、手綱を握り続けてきた者特有の、薄く乾いた皮膚の質感があった。熱くも、冷たくもなかった。ただ——生きている人の、動いている血の温度だった。指の付け根の脈が、私の脈とすぐに揃った。揃ったというより、揃えられた、という感覚に近かった。

爪の先に、泥がまだ残っていた。母の花壇の土。それが男の白い肌に黒い線を残した。男は、それを気にもしなかった。むしろ、汚してくれて構わない、とでも言いたげに、握る力をほんの僅かに強くした。

「逃げるな」

紫の瞳が、至近距離で私を見つめていた。

「どこにも、やらない」

私は声を失ったまま、繋がれた自分の指を見下ろした。逃げ場がない、と理解するのに、その一秒は長すぎた。

花畑の向こうで、再び風が吹いた。

甘い香りが揺れ動き、男の黒い外套の裾を持ち上げ、私の涙の乾いた頬をもう一度なぞっていった。その風に乗って、ずっと遠くから、鐘の音が届いた。低い、重たい鐘。花畑の外——この景色の外側に、確かに存在している街の気配だった。

男は鐘の方向へ、一瞬だけ視線を投げた。紫の瞳の奥に、測るような光が戻った。

「——北領公爵邸まで、馬で半刻だ」

絡めた指を、解こうとはしなかった。代わりに、もう片方の手で馬の手綱を引き寄せた。大きな黒い馬体が、私たちの横に従順に寄り添った。

「歩けるか」

問いに形は似ていたけれど、それは問いではなかった。私がうなずいても、首を横に振っても、答えはもう決まっていた。繋がれた指の力が、ほんのわずかだけ強くなる。逃げるなという声の続きを、言葉ではなく握力で聞かされた気がした。

泥のついたスカートを、風が一度、高く煽った。母の花壇の土は、もうこの紫の瞳の主の掌に移ってしまっていた。

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