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氷の公爵は透明な私を見つけた

第3話 第3話

第3話

第3話

馬の背は、思っていたよりずっと高かった。

絡めた指を解かないまま、男は——アシュレイ、と侍女が後で呼んでいたその名も、まだ私は知らなかった——私を鞍の前に引き上げた。花畑が、足の下から一気に遠のく。甘い香りが下へ落ち、代わりに革と馬の汗と、かすかな冷たい鉄の匂いが鼻先に満ちた。鞍の硬い角が太腿の外側に食い込む。横座りに押し込まれた背は、男の胸の布地に預けられ、その心臓の鼓動が、外套越しにはっきり伝わってきた。一定のリズムだった。私の心拍のほうが、よほど乱れていた。

「しっかり、掴んでおけ」

低い声が、耳の真上で落ちた。

腕が、私の腹のあたりに回された。手綱を握るための腕だったけれど、その角度と力は、私を落とさないための抱え込みでもあった。紫に変わっていた瞳の色を、振り返って確かめるだけの度胸はなかった。外套の内側に閉じ込められた空気だけが、馬の揺れに合わせて、少しずつ温まっていった。

花畑を抜けると、景色は丘陵に変わった。丈の低い草原が波を描き、その向こうに針葉樹の黒い帯。奥の岩肌は、伯爵家の領地では見たことのない灰色だった。空気が薄い。息を吸うたびに鼻の奥が冷たく尖り、肋骨の内側がきゅっと縮んだ。半刻ほど走った頃、アシュレイが馬の速度を落とした。丘の稜線の向こう、樹々の切れ目に、灰色い石壁が見えた。壁の向こうに、幾つもの尖塔。頂から細い煙が何本も立ち昇っていて、それは家庭の竈のそれではなく、石造りの建物だけが吐く種類の、もっと重たい煙だった。

公爵邸、という言葉の輪郭が、私の中でそこで初めて形を持った。

門を潜るとき、蹄の音が石畳に反響して、急に大きくなった。

正門の両脇に立つ衛兵が、主の姿を認めて背筋を縦に伸ばした。鎧の金具が鳴る。挨拶の言葉はなかった。視線は頭上を掠め、すぐに外された。彼らもまた、主の瞳の色が戻ったのか戻っていないのか、確かめるのが怖いのかもしれない——そんな不躾な推量が、疲れた頭の隅を過った。

前庭は、静かだった。噴水の水音、剪定された低木の影、砂利を踏む蹄の音。伯爵家のような、朝から駆け回る使用人の賑わいは、どこにもない。足音までもが、壁の内側に押し込められているような静けさだった。

馬が玄関前で止まると、中から人影が流れ出てきた。黒い制服に白い襟。先頭の初老の男性が、私の想像していた執事よりもずっと寡黙な顔で片膝をついた。

「旦那様」

それだけだった。

「——客人だ。西翼の青の間を整えろ。侍女は三人、身の回りひと通りを任せられる者を選べ」

アシュレイが鞍上から簡潔に告げた。執事の眉はほんの僅かに動いたけれど、声にはならなかった。私が「客人」なのだと、そこでようやく認識した。泥のついたスカートの端を、私は指で握り直した。

男の両手が、鞍の上から私を下ろした。子供を抱き下ろす仕草に似ていた。足が石畳に着いた瞬間、膝が一度だけ笑った。半刻の騎乗で固くなった太腿が、まだ自分のものだと信じられない。アシュレイは私の肩に手を伸ばし、触れる寸前で引いた。触れ方の加減を、計りかねたらしかった。

屋敷の玄関は、見上げるのに首が痛くなる高さだった。

天井まで続く白い柱。磨かれた床。踏み出すたびに自分の靴音が何倍にもなって返ってくる。伯爵家の廊下の、雑然とした賑やかさが、ここにはない。代わりに、埃ひとつ落ちていない静寂が、隅々まで張り詰めていた。

案内された部屋に、私は一度、立ち止まった。

「西翼の青の間」と呼ばれていたその部屋は、伯爵家の私の寝室の、四倍近い広さがあった。壁紙は淡い水色。天蓋のある寝台は、枕だけで五つ。鏡台、書き物机、寝椅子、窓際の小卓。どれもが、使い込まれた傷のない、新品のような艶を持っていた。窓はガラス戸で、その外に私専用の小さなバルコニー。奥の扉の向こうに、湯殿と衣装部屋。

「……こんな」

呟きかけて、口を閉じた。

目の前に並んだ侍女たちの視線が、あまりに真剣だったからだ。主は三人と言った。けれど部屋の中には、私を取り囲むように五人が立っていた。一人は若く、もう一人は母と同じくらいの年齢。年配の侍女頭らしき人物が三人の仕事を割り振り、残る一人は扉の外で待機する連絡係。五人で一人の身の回り——伯爵家では、九人家族を四人の使用人で回していた。この人数の意味が、腑に落ちなかった。

若い侍女が、泥のついたスカートに気付いて、そっと近づいてきた。

「お着替えをご用意いたします。お湯もすぐに」

柔らかい声だった。親切さを装った、訓練された声。彼女たちが私に向ける視線は、客人のそれではなかった。もっと静かで、もっと注意深い——見張る、という動詞が最も近かった。扉の外で、もう一人の侍女が音もなく廊下に立った。私が部屋を出ようとすれば、最初に気付くのはあの人だろう。窓の外を、衛兵が二人一組で通った。

自分の置かれた状況の輪郭が、そこでようやく、私の中で像を結んだ。

湯殿で身を清め、侍女が用意した絹の部屋着に着替えた後、私は部屋を出た。

扉の外の侍女は、私の姿を見ると「旦那様は執務室でいらっしゃいます」と、問う前に答えた。問いを先回りして答える。それは親切ではなく、監視だ。それでも、私は歩き出した。

長い廊下には、いくつもの扉があった。どれもが分厚い樫の木で、把手には精緻な紋章。アシュレイの執務室は、廊下の突き当たり、窓から午後の光が斜めに差し込む一角にあった。影のように横を歩いた侍女が、軽く二度ノックした。中からの返事はなかった。それでも扉は、開かれた。

アシュレイは、机に向かっていた。書類の束、鵞ペン、封蝋用の蝋燭。窓から差し込む光が、黒髪の輪郭を縁取っている。紫だったはずの瞳は、こちらへ向けられた瞬間、もう灰銀に戻っていた。曇った湖の底の色。

「座れ」

机の前の椅子を、顎で示した。座ったら、もう動けなくなる気がして、私は立ったまま両手をスカートの前で握り合わせた。絹の布は、まだ硬くて私の指になじまなかった。

「——帰して、ください」

自分の声が、思いのほか細く震えた。

「ここは、私のいるべき場所ではありません。花に触れたら、気がついたらあの花畑にいて……あなたは、あの花畑を『門外不出』だとおっしゃった。ならば、私を、元の場所へ戻す方法も、きっと」

アシュレイは、鵞ペンを置いた。指を組み、机の上で一度だけ、静かにそれを動かした。それから目を上げた。

「戻す方法は、ある」

低い声だった。

「三百年のあいだに、花畑に迷い込んだ者の記録は、当家に残っている。戻した記録も、な」

心臓が跳ねた。指先が冷たくなった。帰れる。元の世界に、戻れる。戻って——

「だが」

続く声が、浮かびかけた息を押し戻した。

「——帰る場所が、あるのか」

瞳が、真っ直ぐに私を射貫いた。

「お前は、花畑で泣いていた。蹄の音が近づくのを聞いて、逃げるより先に膝をついた。泥のついたスカートの裾を気にする暇もなく、誰にも見えない場所で、声を殺して泣いていた。——あれは、帰りたい場所のある人間の、泣き方ではない」

言葉が、喉の奥で止まった。

違う、と言いたかった。ヴェルディエ伯爵家が、私の家だ。父がいる。義母がいる。義姉たちがいる。屋敷の裏手には、母の遺した花壇がある。銀色の花が咲いていた、あの花壇が。

けれど、私の口は動かなかった。

朝の食堂の、冷めたスープが蘇った。八人分の湯気と、一人分の冷めた器。名前を呼び間違える義母の声。壁の装飾のように私を避けて通ったメイドの足音。十二年間、誰の記憶にも留まらなかった顔。——「帰る」という言葉の向こう側に、私を待つ誰の顔も、浮かばなかった。

爪が、掌に食い込んだ。

アシュレイは、それ以上何も尋ねなかった。私の沈黙が答えだということを、この人は最初から知っていた。知っていたから、花畑で私の指のあいだに自分の指を滑り込ませたのだ。どこにもやらない、と言ったのだ。

「……ずるい」

声にはならなかった。唇だけが、形を作った。

アシュレイが椅子から立ち上がった。机を回って、私の正面に立つ距離を詰めた。絹の布越しに、午後の光の温度だけが伝わってきた。

「西翼の青の間は、お前の部屋だ」

低い声が続いた。

「侍女は五人。衛兵は窓側に二組、扉前に一組。食事は好みを聞いて合わせる。本が欲しければ書庫から運ばせる。庭に出たければ言え、私が付き添う」

足りないものがあるかと問われた。けれど、それが問いでないことは、もう分かっていた。あれは、私を閉じ込める檻の、調度の目録だった。

「——今日は、休め」

机の上で、封蝋用の蝋燭が、小さく爆ぜた。

私は答えの代わりに、一度だけ深く頭を下げた。絹の裾が、床の石を擦った。扉まで戻る足取りが、自分のものではないように重かった。廊下に出て扉が閉まる寸前、アシュレイの視線が背中を追ってくるのを、確かに感じた。

部屋に戻ると、侍女が三人、夕餉の支度を整え始めていた。私は彼女たちの脇を抜け、窓辺の椅子に崩れ落ちた。膝に力が入らない。立ち上がって、窓のガラスに額を押し当てた。冷たい。その冷たさだけが、今の私に許された現実だった。

眼下の中庭で、衛兵が規則正しく交代していた。二人一組。

指が、無意識にガラスの上で、あの銀色の花の形を一度だけ辿った。

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