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氷の公爵は透明な私を見つけた

第1話 第1話

第1話

第1話

誰も、私の名前を正しく呼んだことがない。

ヴェルディエ伯爵家の朝は、いつも私を素通りしていく。食堂に並ぶ椅子は九つ。父と義母、義姉が三人、義弟が二人、そして末の妹。数えると八人分の朝食が湯気を立てていて、テーブルの端——私の定位置には、冷めたスープが置かれているだけだった。

表面に薄い膜が張ったそのスープを見つめると、ぼんやりと自分の顔が映る。輪郭のはっきりしない、誰の記憶にも留まらない顔。パンの籠は食堂の中央に置かれていたけれど、手を伸ばせば義姉の視界に入ってしまう。それが怖くて、私はいつもスープだけを黙ってすすった。

「リゼット、おはよう」

声がした。義母のセレナだ。ただし彼女の視線は私ではなく、隣に座る義姉のリゼルに向けられている。名前が似ているから、よく間違われる。いや、間違えているのではないのかもしれない。最初から私など見えていないのだ。

リゼルは「おはよう、お母さま」と花が綻ぶように微笑み返した。その声は食堂の隅々まで柔らかく響いて、義弟たちまでつられて笑った。同じ食卓にいるのに、私だけが硝子の壁の向こう側にいるような感覚。スプーンを握る指先が、じわりと冷えていく。

「……おはようございます」

小さく答えても、誰の耳にも届かない。銀の匙でスープをすくう音だけが、やけにはっきり聞こえた。

食堂を出ると、廊下は朝の光に満ちていた。磨かれた大理石の床に、窓枠の影が長く伸びている。使用人たちが忙しなく行き交い、義姉たちの笑い声が遠くから響いてくる。すれ違うメイドは私の方を一瞥もせず、まるで壁の装飾をよけるように身体を傾けて通り過ぎていった。その喧騒のどこにも、私の輪郭はなかった。

屋敷の裏手に回ると、空気が変わる。正面庭園の手入れの行き届いた薔薇とは違う、少し雑然とした緑の匂い。湿った土と、夜のあいだに落ちた葉が混じり合った、青くて重たい香り。母が遺した花壇は、屋敷の誰にも顧みられない場所にひっそりとあった。ちょうど、私のように。

膝をついて、土に触れる。昨日の雨を含んだ黒土は冷たくて、指先からじわりと体温を奪っていく。爪の隙間に入り込む泥の感触。スカートの裾が湿った地面に触れて重くなるのも気にせず、私は両手で土を掬い、根元にそっと寄せた。それでも構わなかった。ここでは誰の邪魔にもならない。誰の視界も遮らない。母が好きだったという白い小花が、朝露を纏ってかすかに揺れている。名前は知らない。母が生きていれば教えてくれたのだろうけれど、私が五つの時に逝ってしまったから、花の名前も、花壇の手入れの仕方も、全部自分で覚えるしかなかった。

水差しを傾けながら、ふと思う。この花たちは私がいなくなっても咲くのだろうか。たぶん、咲くのだろう。雨が降り、陽が差せば、花は誰の手を借りなくても根を張る。私がここにいる意味など、本当はないのかもしれない。

そんなことを考えながら、いつものように花壇の端から順に水をやっていた時だった。

見慣れない花が、咲いていた。

白でも黄色でもない。月の光を固めたような、淡い銀色の花弁。昨日まで確かになかったはずの場所に、たった一輪だけ。茎は細く、けれど凛と背を伸ばして朝の風に揺れている。周囲の花々が朝日に照らされて暖かく色づいているのに、その花だけは自ら光を放つように冷たく輝いていた。まるで、この花壇に属していないかのように。

水差しを地面に置いた。膝立ちのまま、その花に顔を近づける。匂いがあった。嗅いだことのない匂い——雨上がりの空気に似ているけれど、もっと遠くの、もっと高い場所の風を凝縮したような清冽な香り。花弁の縁はうっすらと透けていて、朝日を通すと内側に細い脈が走っているのが見えた。生きている。確かに土から水を吸い、光を浴びて呼吸している。なのに、どうしてこんなにも——この世のものではないような気配がするのだろう。

「……きれい」

思わず手を伸ばした。指先が花弁に触れた瞬間——世界が、白く弾けた。音が消え、地面の感触が消え、朝の冷たい空気が消えた。何かに引き込まれるような浮遊感だけが、意識の最後に残った。

目を開けると、空が近かった。

見たことのない色をしていた。薄い紫がかった青。雲はなく、ただ澄み切った光が降り注いでいる。頬に触れる風は温かく、甘い香りを含んでいた。

上体を起こすと、視界を埋め尽くすものに息を呑んだ。

花だった。地平線の果てまで、見渡す限りの花畑。白、青、淡紅、金——無数の色彩が風に波打ち、光を弾いている。伯爵家の花壇とは比べものにならない。いや、これまで見た何とも似ていなかった。花の一つ一つが淡く光を帯びていて、まるで地上に星が散らばったようだった。

立ち上がる。足元の草は柔らかく、踏むたびにかすかな香りが立ち上る。振り返っても花畑。左を向いても花畑。空と花の境目が曖昧に溶け合う世界の中に、人の気配は一つもなかった。

ここはどこなのだろう。どうして私はここにいるのだろう。

自分の身体を見下ろした。泥のついたスカート。土で汚れた指先。花壇の手入れをしていた格好のまま、私はこの見知らぬ場所に立っている。背中に感じていた屋敷の石壁の圧迫感がない。見下ろしてくる窓もない。広い空の下で、遮るものが何もないという感覚が、身体の力を不思議なほど抜いていった。

考えるべきことは山ほどあるはずだった。元の世界に戻る方法。自分の身に起きたことの意味。けれど不思議と、恐怖は湧いてこなかった。代わりに胸の奥に広がったのは、もっと静かな感情だった。

——ここでは、誰にも迷惑をかけずに済む。

その思いが浮かんだ瞬間、自分自身に驚いた。見知らぬ場所に放り出されて、最初に感じたのが安堵だなんて。帰りたいと思うべきだった。怖いと叫ぶべきだった。なのに、肩から重荷が降りたような軽さだけがあった。

伯爵家の食堂で、冷めたスープの前に座っていた朝が遠い。義姉たちの笑い声も、私を素通りしていく使用人たちの足音も。ここには何もない。ただ花と風と光があるだけ。それが——こんなにも穏やかだった。

目頭が熱くなった。泣く理由がわからなかった。悲しいのか、寂しいのか、それとも安堵しているのか。たぶん全部だった。誰にも見えない場所でひとりきりでいることに安らぎを覚えてしまう自分が、どうしようもなく哀れで、同時にどうしようもなく正直だった。

しゃがみ込んで、両手で顔を覆った。声を殺して泣くことには慣れている。伯爵家の寝室で、毛布を頭まで被って息を詰めた夜が何度あっただろう。でも今は、声を殺す必要がなかった。聞く者がいないのだから。それなのに喉は勝手に閉じて、嗚咽は押し殺されたまま肩だけを震わせた。十二年かけて身体に染みついた習慣は、こんな場所に来ても私を離してくれなかった。

涙を拭おうとして、指先に土の匂いが残っていることに気づいた。母の花壇の土。それだけが、さっきまでの世界と私を繋いでいた。

風が吹いた。花畑が大きく波打ち、甘い香りがいっそう強くなる。その風に混じって、かすかに——何かの音が聞こえた気がした。遠い蹄の音。地面を伝う振動。気のせいだと思った。ここには誰もいないのだから。

けれど音は止まなかった。

それどころか、少しずつ近づいてきていた。花畑の向こう、光の滲む地平線の際に、小さな黒い影が見えた。揺らぎのない速さで、まっすぐにこちらへ向かっている。

私は花畑の中に立ち尽くしたまま、動けなかった。逃げるべきなのか、隠れるべきなのか。そもそもこの広大な花畑のどこに隠れればいいのか。風が頬の涙の跡を冷たくなぞる。遠ざかっていく蹄の音を期待したけれど、それは叶わなかった。心臓が喉元まで押し上がってくるような圧迫感があった。足の裏から這い上がる振動が、一歩ごとに大きくなる。花々が蹄の音に合わせるように揺れて、甘い香りの中に、馬の汗と革の匂いがかすかに混ざり始めた。

影は見る間に大きくなり、やがて輪郭を持った。黒い馬。その上に、黒い外套を纏った人影。

花畑を踏み分けて近づいてくるその姿は、この穏やかな風景の中で、ひときわ異質だった。

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