Novelis
← 目次

百一回目、微笑む悪役令嬢

第2話 第2話

第2話

第2話

冷えた絹の枕に頬を埋めたまま、私は指先で燐光の文字列をなぞっていた。

『TIMESTAMP: T-90』

天蓋の布地に文字が浮かんでいる。今朝、目覚めた瞬間から、私の視界にはずっとこれが点滅し続けている。九十九回のループでは断片的にしか見えなかったものが、百一回目の朝は——大理石の天井を覆い尽くすほど鮮明だった。

ヴァルトシュタイン公爵邸、三階西翼の主寝室。羽毛布団に沈む手首の重さも、窓から差し込む早春の薄い光も、九十九回繰り返してきた『断罪の三ヶ月前』そのものだ。白檀ではなく、庭園から流れ込む鈴蘭の香りがあることも、侍女のマリアが薔薇水の盥を抱えて扉の前で足踏みしている気配も——全てが既知の朝。

けれど、今日だけが違う。

「お嬢様、そろそろお着替えを」

マリアの遠慮がちな声が扉越しに届く。私はゆっくりと身を起こした。絹のネグリジェが肩を滑り落ちる感触さえ、文字列の明滅に比べれば遠い。

「……もう少し、一人にしてちょうだい」

声を出せたことに、まず驚いた。九十九回のループで、この台詞を吐いたのは一度もない。『断罪の三ヶ月前』のセリフィーナは、いつも急いで着替え、急いで朝食に向かい、急いで婚約者に手紙を書いていた。——王太子殿下に、好かれようとして。

今日はその全てを捨てる。

鏡台の前に座り、銀縁の手鏡を取り上げる。そこに映る自分の顔——艶やかな銀髪、冷ややかな紫の瞳、白磁の肌。十六歳。まだ殿下との婚約が華やかな噂として社交界を飾っていた頃の、完璧な公爵令嬢の相貌だ。

けれど鏡の表面には、私の顔の上に重なるように、びっしりと文字列が走っていた。

`[FLAG_TABLE: seraphina_route]` `[FLAG_01: tea_party_attendance = TRUE]` `[FLAG_03: library_encounter_with_heroine = DAY_14]` `[FLAG_04: garden_confrontation = DAY_28]` `[FLAG_12: tea_spill_incident = DAY_45]` `[...続きは八十一項目]`

指先が震えた。冷えた鏡面を撫でると、文字列は指の下で微かに波紋のように揺れる。指腹に伝わるのは、ただの磨き上げた銀の冷たさ。なのに視覚の中でだけ、水面のように歪んで戻っていく。この乖離こそが、九十九回の私を狂わせかけた『薄皮一枚の異物感』の正体だったのだ。フラグ管理テーブル。これが、九十九回分の努力を嘲笑い続けた装置の正体か。

ゆっくりと、項目を追っていく。

『図書館で彼女と遭遇(十四日目)』『庭園で彼女を詰問(二十八日目)』『茶会で彼女に紅茶をかける(四十五日目)』。断罪までの九十日に、八十一の『悪役令嬢らしい所業』が自動で積み上がる仕組み。私が実行しようとしまいと、世界は周囲のNPCを動かし、最終的にこれらのフラグを点灯させていく。

『——脚本を、強制的に書き戻されていた』

三十七回目のループを思い出す。ヒロインに紅茶をかけないよう、茶会そのものを仮病で欠席した。結果、侍女の一人が彼女のドレスにインクを飛ばし、私が命じたと証言した。あの時の侍女の蒼白な顔を、私はずっと『裏切り』と解釈していた。彼女が証言する間、唇が小刻みに震えていたこと、瞳だけが私に助けを求めていたことも、ようやく別の像を結ぶ。違ったのだ。あれは——世界の補正だった。

`[AUTO_CORRECT: if player_action ≠ flag_condition → reassign_nearest_NPC]`

条件を満たさない行動を取れば、最も近いNPCに役割を肩代わりさせる。八十一番目のフラグ、つまり断罪イベントに至るまで、世界は執念深く私を『悪役』へ押し戻し続ける。五十六回目で国境を越えた朝、街道の辻馬車が突然ヒロインの親族の馬車に変貌していた謎も、これで解ける。距離を取っても、身分を捨てても、走る限り世界の方が私に追いつく。九十九回分の全ての失敗が、この一行で説明されてしまう。

咽頭の奥に、乾いた笑いが迫り上がった。

「……見事なものだわ」

手鏡を置き、立ち上がる。絨毯に素足が沈む感触が、久しぶりに『私のもの』に感じられた。他人の脚本を演じさせられていた肉体が、ようやく自分の重さを取り戻した心地だった。

九十九回、私は流れに逆らって泳いでいた。今日からは、川そのものの形を変える。

改めて、文字列の全体を眺める。フラグ管理テーブルの下層には、関係人物の一覧が広がっていた。名前、身分、ヒロインとの好感度、婚約者候補フラグ——社交界名鑑を、世界が裏側から再構築しているかのようだった。

その中に、一つだけ——異質な欠落があった。

`[ENTITY_LIST / SORT: court_rank]` `……` `[COURT_KNIGHT_CAPTAIN: ■■■■■■■■]` `[DATA_CORRUPTED / NULL_REFERENCE]`

文字化けした項目が一行、ぽつんと挟まっている。騎士団長の席。名前が、表示されない。

私はゆっくりと、その文字化けを指先でなぞった。鏡面の視線を追うように、他の項目が一瞬だけ輝度を落とす。まるで、世界そのものがその一行を『見せないように』しているかのようだった。胸の奥で、心臓が一度だけ大きく跳ねた。絹のネグリジェの胸元が、その鼓動に合わせてわずかに揺れるのを、鏡越しに自分で見てしまった。

『レクト・アッシェンバッハ』

昨日まで——百回目の断罪劇に立っていたセリフィーナが、大広間の隅で目撃した男。王宮騎士団長。百回のループのどこにも登場しなかった、攻略対象ですらない男。そして——データが存在しない男。

百回目の断罪で、彼とだけ目が合った。あの視線の質を、私は今でもはっきり覚えている。憐れみでも軽蔑でもなく、観察する者の眼差しだった。百の絶望をくぐり抜けた令嬢を、彼は対等な人間として見た。ただ一人だけ。

『あの男を、敵にしてはならない』

九十九回分の直感が叫んでいた。そして同時に——味方に引き込めれば、自動補正の外側に立てる、とも。

データが存在しない、ということは、フラグ管理テーブルの適用外、ということだ。彼の行動は世界の脚本に書き込めない。世界は彼を制御できない。ならば、彼と共に動く限り、私の行動の一部も——少なくとも彼と関わる領域では——補正を免れる可能性がある。

考えながら、手鏡の縁をきつく握り締めていた。銀細工の薔薇の彫刻が掌に食い込み、鈍い痛みが走る。その痛みが、奇妙に心地よかった。九十九回分の痛みはどれも『脚本どおりの痛み』だったのに、今この掌の痛みだけは、私自身が選んで握った結果だ。三ヶ月後の大広間で、私は初めて『想定外』をこの世界に叩きつけなければならない。その『想定外』の芯になるのが、レクト・アッシェンバッハという空白の男だ。

けれど——危険でもある。

データが無いということは、敵に回ったときの行動予測もできない、ということ。九十九回分の経験則が、彼に対してだけは通用しない。誤算が誤算を呼び、三ヶ月を棒に振る可能性すらある。

それでも。

「——賭けるわ」

鏡の中の自分に、小さく頷いた。紫の瞳の奥で、九十九回分の倦怠がゆっくりと溶けていく。代わりに灯ったのは、燐光の文字列と同じ色の、澄んだ光だった。

扉の向こうで、マリアが再び気配を濃くした。

「お嬢様、失礼いたしますね」

静かに扉が開き、薔薇水の盥と共に侍女が入ってくる。九十九回繰り返してきた朝の所作。水面に浮かぶ薔薇の花びらが、彼女の足取りに合わせて小さく揺れ、甘く湿った香りが部屋に満ちる。けれど今日の私は、彼女が歩み寄るより先に口を開いていた。

「マリア。今日、お父様にお時間をいただきたいの。それと、王宮への定期便の出立時刻も教えてちょうだい。騎士団の詰所宛に、私から一通、届けたい書状があるの」

盥を置きかけた彼女の手が止まる。眠たげな注文を聞くはずの時間に、明瞭な声で予定を告げられ、戸惑った顔をしている。ヴァルトシュタイン公爵令嬢が、婚約者でもない騎士団長に直接書状を出す——それ自体が、既に社交界の常識を外れる第一歩だ。

文字列の海の中で、新たな一行が明滅した。

`[WARNING: unregistered action detected]` `[CORRECTION_ATTEMPT: pending...]`

世界が、動き出す。

私は鏡に背を向け、書斎机に向かって歩き出した。羽ペンを握る指に、百一回目の朝の確かな熱が戻っていた。

この話はいかがでしたか?

↓ スクロールで次の話へ