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百一回目、微笑む悪役令嬢

第3話 第3話

第3話

第3話

車輪が石畳を噛む音に混じって、天鵞絨張りの馬車の座席にも、細く燐光が這っていた。

`[LOCATION: royal_palace_gate / ETA: 5min]` `[TARGET_ENTITY: ■■■■■■■■]` `[WARNING: unregistered contact scheduled]`

王宮へ向かう車窓越しに、私は指先で手袋の縫い目を数えていた。五、六、七——何度数えても、指腹に返ってくる絹の手触りは確かに私のものだった。九十九回分の『薄皮一枚ずれた現実感』と、百一回目の『自分の身体』を弁別するための、ささやかな儀式だった。

「お嬢様、随分とお静かで」

向かいに座る侍女マリアが、膝の上の手土産の包みを撫でながら言った。舶来の菓子鉢に詰められた黄金色の焼き菓子。『殿下への届け物と、騎士団詰所への差し入れ』——そう父ヴァルトシュタイン公爵を説得するのに、早朝の二時間を費やした。殿下への品を表に立てることで、騎士団長への書状が社交上の『ついで』に見える配置を作った。九十九回分のループで磨き上げた、貴族社会の間合いの使い方だった。

「……考え事をしていたの。気になさらないで」

そう返して、再び車窓に視線を戻す。春の王都の街路樹が、まだ冷たい風に細い枝を鳴らしていた。

九十九回、王宮の門は私にとって『殿下の住まう場所』への入り口でしかなかった。今日からは違う。くぐる理由も、会う相手も、全てが書き換わっている。

`[AUTO_CORRECT: path_deviation_detected]` `[COUNTERMEASURE: crown_prince_will_be_absent_today]`

燐光の文字列が、にやりと笑うように浮かんだ。世界は私を『殿下に会わせない』方向で補正をかけ始めている。——結構。殿下に会いに来たわけではないのだから。

馬車が車寄せで止まり、従僕の手を借りて降り立つ。王宮の石畳は、まだ朝露の冷たさを残していた。靴底から這い上がってくる冷気は、九十九回どれだけ高価な絹靴を重ねても消せなかったものと、寸分も変わらない温度で、私の足首を撫でた。

通された応接の間は、騎士団詰所の奥にある小さな一室だった。壁に掛けられた歴代騎士団長の肖像画が等間隔に並び、磨き上げられた長卓の端に、私は案内の士官に請われて腰を下ろした。

「団長殿は鍛錬場の方におられまして。間もなく、こちらへ」

士官が一礼して退室する。扉が閉まる音が、妙に遠く聞こえた。九十九回、殿下への使いの令嬢として幾度もくぐったこの建物の、けれど私が一度も足を踏み入れたことのない区画だった。

`[ROOM: knight_captain_office / FLAG_TABLE: N/A]` `[SURROUNDING_DATA: sparse]`

レクト・アッシェンバッハが近づくほど、文字列の密度が薄くなっていく。壁の肖像画の額縁を辿っていた燐光が、私の視線の先で次第にかすれ、窓枠に、卓上の燭台に、天井の梁に——ついさっきまで無数に明滅していた世界の注釈が、呼吸を控えるように退いていった。

扉が叩かれた。

「失礼する」

低い声。許しを得るより早く、扉が開いた。

長身。騎士団の礼装ではなく、鍛錬帰りの白いシャツの袖を肘まで捲り上げ、首筋に濡れた布を巻いたままの姿。銀の光沢を帯びた黒髪が、汗で額に貼り付いている。年の頃は二十代後半か、三十を過ぎたばかりか。百回目の大広間で、遠目に捉えただけの男。至近距離で向き合うと、鉄の匂いと、森の下草を踏みしめたような青い匂いが入り混じって、鼻腔の奥を掠めた。

「ヴァルトシュタイン公爵令嬢——セリフィーナ嬢」

彼は名乗らなかった。代わりに、私の名を正確な発音で呼んだ。初対面のはずの相手が、書状に書かれた名前を十分に咀嚼した上で発している、その確かな間合いだった。

「レクト・アッシェンバッハ様。お目通り叶いましたこと、光栄に存じますわ」

私は立ち上がり、九十九回分の所作の蓄積を総動員して、優雅に腰を折った。この瞬間に失敗は許されない。第一印象を完璧に整え、社交辞令の堅牢な城壁の内側に自分を匿う——そのはずだった。

顔を上げると、彼はまだ扉の前に立っていた。卓に近づこうともしない。濡れた布を首から外し、片手で絞るような仕草を見せながら、ただ——私を見ていた。

吟味するように、ではない。

観察するように、でもない。

——見透かすように。

「書状は読んだ」

低く、乾いた声だった。

「『近々、王宮に参上する機会があり、貴殿に一言ご挨拶を』。まあ、筋は通っている。公爵令嬢が騎士団長に顔を繋ぐ理由は、幾らでも作れる」

「恐れ入ります」

「だが」

彼は一歩、卓に近づいた。軍靴が石床を鳴らす音が、部屋の空気を一つ打った。

「本題は、そこにはないだろう」

心臓が一度、大きく跳ねた。息を整える間もなく、彼は卓に手をつき、上体を傾けて私の瞳を覗き込んだ。紫の瞳が、濁りのない灰色の瞳と、真正面で噛み合う。

「——お前、何回目だ」

言葉の意味を理解するのに、二秒、かかった。

その二秒の間に、私の肺は呼吸を止め、指先から体温が引き、背骨を伝って冷気が駆け抜け、そして——九十九回分の孤独が、胸の奥で音を立てて崩れ落ちた。

「……何、を」

かろうじて、声を絞り出した。公爵令嬢として磨き上げた仮面が、ぴき、と微かな音を立てて罅割れる感覚があった。九十九回、どれだけ追い詰められても死守してきた表情の管理が、今この瞬間、彼の一問の前で意味を失っていた。

「何、と聞かれてもな」

レクトはゆっくり身を起こし、首筋の濡れ布を卓の端に放った。

「俺が剣を握って十八年。この部屋に入ってきた瞬間に、大抵の相手の『今の生』の年季は読める。——お前の目には、少なく見積もっても数十年分の死線が重なっている。だが身体は十六、七の娘だ。答えが合わん」

彼は卓の向かいの椅子を引き、腰を下ろした。汗の匂いと、磨かれた鉄の冷たい匂いが、卓を挟んで届いてくる。

「剣士の世界では、死にかけた回数だけ『目』が重くなる。——お前の目は、俺より重い」

私は——笑ってしまった。

笑ってしまったことに、自分で一番驚いた。唇の端が勝手に持ち上がり、乾いた吐息が喉を押し広げ、九十九回誰にも見抜かれなかったものを、初対面の男が鍛錬帰りの汗のまま、剣の経験則だけで言い当ててしまった。

「……百回、ですわ」

気づけば、声が漏れていた。

「百回、断罪されました。そして、百一回目の朝を迎えたばかりですの」

自分の声が、ひどく遠くで響いていた。九十九回分の独白が、ついに他者の耳に届く音になった瞬間の、奇妙な軽さだった。目の縁が熱くなるのを、慌てて扇で覆い隠そうとして——扇を馬車に置き忘れたことに気づき、代わりに手袋の指先をきつく握り締めた。絹の縫い目が爪の下で軋む。

レクトは、驚かなかった。

眉一つ動かさず、ただ、灰色の瞳で私の言葉を受け止めた。

「……そうか」

沈黙が、数秒。

その沈黙の間、彼は何度か自分の掌に視線を落としていた。剣胼胝で硬くなった指の節を、確かめるように握り込み、ほどいた。何かを測っていた。信じるかどうかではなく——彼自身が、その話と自分の中の何かがどう噛み合うかを、身体で検算しているような動作だった。

「信じる、とは言わん」

ようやく、彼は顔を上げた。

「だが、筋は通っている。俺がこの部屋で何度も感じてきた違和感と、お前の言葉は、嘘でつくには繋がりすぎる線で繋がる。——もう少し、詳しく話せ」

『——繋がった』

九十九回、世界に一人きりだった私の声が、初めて誰かの論理に噛み合った。心臓の奥で凍りついていた何かが、ぱきりと小さな音を立てて割れ、そこから温い血が流れ出した。

私は手袋の指先を解き、卓上に両手を揃えて置いた。もう震えてはいなかった。

「レクト様。一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか」

「答えられる範囲ならな」

「貴方様は——御自身のことを、どこまで覚えておいでですか」

束の間、灰色の瞳が揺れた。ごく微かな、しかし確かな戸惑いだった。

「……妙なことを聞く」

「お答え次第では、もう一つ、お話しせねばならぬことがございますの」

彼はすぐには答えなかった。代わりに、窓の外の鍛錬場へ、ゆっくりと視線を移した。若い騎士見習いたちの声が、春の風に乗って薄く届いている。

「俺の記憶は——十八の秋から始まっている。それより前のことは、何一つ、思い出せん」

視界の端で、燐光の文字列が一行、新しく浮かんだ。

`[ENTITY: rect_aschenbach / STATUS: DATA_DELETED]` `[NOTE: not missing—erased]`

——存在しない、のではなく、消された。

私は卓の下で、膝の上の拳を、そっと握り直した。百一回目の賭けが、思っていたよりも遥かに深い場所まで続いていることを、ようやく悟ったのだった。

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