第1話
第1話
百回目の断罪を、私は欠伸を噛み殺しながら聞いていた。
「——セリフィーナ・ヴァルトシュタイン。汝の数々の悪行に鑑み、我が婚約を破棄する」
王太子殿下の声が大広間の天蓋に反響する。荘厳なステンドグラスを透かした午後の陽光が、殿下の金髪を後光のように照らしていた。見飽きた光景だった。このステンドグラスの聖女像の左目にごく小さな気泡が入っていることも、殿下の右手が宣告の瞬間だけ微かに震えることも、私はもう知っている。空気に漂う白檀の薫香も、磨き上げられた大理石の床に映る自分の影の輪郭さえも、すべてが九十九回前と寸分も変わらない。
九十九回。それだけの回数を、この場所で過ごした。
最初の五回ほどは泣いた。信じられなかった。愛していたのに、と震える唇で訴えた。次の十数回は懸命に回避策を練った。ヒロインと友誼を結び、殿下のお気に入りの菓子を焼き、国外逃亡まで試みた。ある回では国境の検問所まで辿り着いた。夜明け前の冷たい風を頬に受けて、ああ、これで自由になれると思った。けれど次の瞬間にはもう大広間に立っていた。足元から這い上がってくる大理石の冷気と、白檀の香りが鼻腔を満たす感覚で、全てが無駄だったことを悟るのだ。その後の数十回は——もう数えることすら億劫だ。何をしても、どんな手を尽くしても、私は必ずこの大広間に引き戻される。
『断罪される悪役令嬢セリフィーナ・ヴァルトシュタイン』。それが、この世界における私の役割らしかった。
「聞いているのか、セリフィーナ!」
殿下の声が苛立ちを帯びる。ああ、この台詞も九十九回目。次は「この期に及んで反省の色もないとは」と続く。
「この期に及んで反省の色もないとは——」
ほら。
大広間に居並ぶ貴族たちの視線が、憐れみと蔑みを等分に混ぜて私に降り注ぐ。前列に立つオルテンシア侯爵夫人が扇の陰で唇を歪めるのも、その隣のベルンハルト伯爵が気まずそうに視線を逸らすのも、もう何度目だろうか。ヴァルトシュタイン公爵家の令嬢として社交界に君臨した日々が、この瞬間に瓦解する——はずだった。九十九回前までは。
今の私にとって、この断罪劇はただの定時報告のようなものだ。内容は既知、結果は確定、感情を動かす余地はない。絶望すら、九十回を超えたあたりで色を失った。残ったのは、古びた絨毯のような倦怠だけ。
——と。
視界の端に、ノイズが走った。
殿下の背後、大広間の壁面を飾る王家の紋章。その金細工の隙間に、淡い燐光を放つ文字列が浮かんでいる。
『……また、あれ』
以前にも見たことがあった。ループの三十回目あたりから、断片的に——壁に、天井に、ときには人の影に重なるように、読めない文字が瞬いていた。意味のない幻覚だと思っていた。疲弊した精神が見せる妄想だと。
けれど今日は違う。
文字列が、読める。
`[FLAG_CHECK: condemnation_event = TRUE]` `[ROUTE: villainess_seraphina → FORCED_END]` `[AUTO_CORRECT: override_all_player_actions]`
心臓が跳ねた。九十九回のループで初めて、胸の奥に火が灯る感覚があった。指先が冷たくなり、代わりに頭の芯が熱くなる。こめかみの奥で血流が脈打つのを、はっきりと感じた。口の中がからからに乾いて、唾を飲み込む音が自分の鼓膜に響いた。
これは——世界の裏側だ。
燐光の文字列は壁面だけではなかった。目を凝らせば、大広間のあらゆる場所に浮かんでいる。シャンデリアの結晶の間を縫うように、柱の彫刻に沿うように、蛍のような光が明滅を繰り返していた。殿下の頭上には`[NPC: crown_prince / ROLE: condemnation_executor]`、ヒロインの足元には`[HEROINE: lieselotte / AFFINITY: MAX]`、そして私自身の胸元には——。
`[VILLAINESS: seraphina / STATUS: condemned / LOOP: 100]` `[NOTE: all divergence attempts nullified by auto-correction]`
呼吸を忘れた。
九十九回分の記憶が、濁流のように脳裏を駆け巡る。泣いた回。戦った回。逃げた回。媚びた回。殿下に手紙を書いた夜。ヒロインの手を取って友になろうとした午後。毒を盛られる前に厨房を封鎖した朝。全てが無駄だった理由が、今、目の前に記されている。
私が何をしても断罪される。それは殿下の意思でも、ヒロインの策略でもなかった。
この世界そのものが、「悪役令嬢セリフィーナは滅びる」と決めていたのだ。
自動補正。どんな行動を取ろうと、最終的に断罪イベントへ収束するよう、世界の根幹に組み込まれた修正機構。九十九回の努力は、川に逆らって泳ぐ魚のようなものだった。流れそのものを変えなければ、永遠に同じ滝壺に落ちる。どれほど腕を振るっても、どれほど知恵を絞っても、水流は私の身体をやすやすと押し戻し、何事もなかったかのように同じ断崖へと運んでいた。
『——ああ、そういうことだったの』
不思議と、怒りは湧かなかった。むしろ、長年喉に刺さっていた小骨がようやく取れたような、奇妙な安堵があった。理不尽には理不尽の理由がある。それが分かっただけで、九十九回分の霧が晴れていく。肩の力が抜け、呼吸が深くなる。こんなに楽に息ができたのは、最初のループ以来かもしれなかった。
文字列はまだ流れ続けている。膨大な情報の洪水。全てを読み取るには時間が足りない。けれど、一つだけ確かなことがある。
`[CRITICAL: true_branch_point ≠ condemnation_event]` `[TRUE_BRANCH: 90 days before condemnation]`
断罪は終点であって、起点ではない。本当の分岐は、三ヶ月前に存在する。
九十九回、私はずっと終点を変えようとしていた。変えるべきは、始まりの方だったのだ。
そしてもう一つ。ログの海を泳ぐ視線が、奇妙な空白に引っかかった。
大広間にいる全ての人間に、データが紐づいている。殿下にも、ヒロインにも、取り巻きの令嬢たちにも。けれど一人だけ——大広間の隅で壁に背を預け、腕を組んで立つ長身の男。王宮騎士団の礼装に身を包んだその人物の頭上には、何も浮かんでいなかった。燐光が彼の周囲だけを避けるように消え、まるでそこだけ世界に穴が空いているかのようだった。周囲の貴族たちの頭上で瞬く文字列が、彼との境界線できれいに途切れている。光の粒子が見えない壁に弾かれるように、ふわりと弧を描いて散っていく。
`[ENTITY: rect_aschenbach / DATA: NOT_FOUND]`
王宮騎士団長、レクト・アッシェンバッハ。百回のループで、一度も関わったことのない男。攻略対象でもなく、断罪の関係者でもなく、私の物語のどこにも登場しない——いや、登場できないのか。この世界のシステムに、彼のデータだけが存在しない。
それが何を意味するのか、今はまだ分からない。けれど九十九回分の直感が告げている。あの男が、鍵だ。
「——セリフィーナ! 返答はないのか!」
殿下の怒声が、思考を引き戻す。大広間の貴族たちがざわめいている。断罪を宣告された令嬢が、泣きもせず、弁明もせず、ただ微笑んでいるのだから、当然だろう。殿下の蒼い瞳が戸惑いに揺れている。台本にない反応を返された役者のように、次の言葉を見失っている顔だった。
そう——私は今、笑っている。
百回目にして初めて、この大広間で心からの笑みを浮かべていた。
「ようやく、見つけた」
呟きは、私だけに聞こえる小さな声だった。殿下の断罪が完遂され、世界が白く染まっていく。音が遠ざかり、貴族たちのざわめきが水底に沈むように薄れていく。ループの巻き戻りが始まる。次に目を開けたとき、私は三ヶ月前に立っているだろう。
百一回目。今度こそ、終わらせる。
視界が白に呑まれる刹那、大広間の隅に立つ騎士団長と——ほんの一瞬だけ、目が合った気がした。