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追放された氷華公、辺境で覚醒す

第2話 第2話

第2話

第2話

眠れぬ夜が明けた。

結局、咆哮はあれきり途絶えた。結界がかろうじて持ちこたえたのか、それとも獣が気まぐれに去っただけなのか。答えはわからないまま、灰色の朝が窓の外に広がっている。薄い光が石壁を這い、吐く息だけが白く浮かんでは消えた。

身支度を整え、領主館の全容を把握することにした。昨夜のハインツの報告は概要にすぎない。現実を知らなければ、策の立てようもない。

一階の食糧庫を開けたとき、覚悟はしていたが、息を呑んだ。

干し肉が木箱に三つ。黒パンの塊が棚に並んでいるが、端にはすでに黴が浮いている。塩漬けの根菜が樽に二つ。穀物袋は——数えるまでもない。指折り計算するまでもなく、ハインツの「半月分」という見積もりが楽観的だったと知れた。厳密には十日だ。この量で領民全員を養うなら、一週間ももたない。

武器庫はさらに悲惨だった。錆びた剣が壁に架かり、弓は弦が切れたまま放置されている。矢筒の中身は十本に満たない。守備兵十二名と聞いていたが、実際に顔を合わせると、そのうち三名は老齢で、二名は怪我を押して立っているのが明らかだった。

「ハインツ、結界の状態を見たい」

「ご案内いたします。ただ——お心構えを」

領主館の裏手から丘を登ると、領境を囲む結界の起点石が見えた。本来なら淡い青の光を放つはずの魔石が、濁った灰色に変色している。五つある起点石のうち、二つは完全に沈黙し、残る三つも明滅を繰り返していた。

「魔力の補充は」

「前任の領主代行が亡くなられて以来、結界に魔力を注げる者がおりません。自然回復に任せておりましたが、もう限界です」

冷たい風が丘を吹き抜け、起点石の表面に張りついた霜がかすかに軋んだ。耳を澄ませると、石の奥から微弱な振動音が聞こえる。まるで心臓の鼓動が止まりかけているような、途切れ途切れの律動だった。

これがノルドヘルムの現実だ。ゲームでは一行の背景テキストに収まっていた土地の、剥き出しの姿。

——だが、絶望するには早い。

前世の記憶と、ゲームの知識。その二つを掛け合わせれば、打てる手はある。少なくとも、冬を越すだけの手は。

昼過ぎ、領主館の前庭に領民が集まった。ハインツが触れを回してくれたのだろう。だが、集まった顔のどれもが、私を歓迎してはいなかった。

「それで、帝都のお嬢様が何の用だ」

最前列の男が腕を組んで言い放つ。日に焼けた顔に深い皺が刻まれた、おそらく猟師だろう。その後ろで、昨日外套をかけた女の子が兄の手を握って私を見上げていた。

「食料が足りないのは知っている。このままでは十日で底をつく」

ざわめきが走った。半月だと思っていたのだろう。数字を突きつけられた顔が強張る。

「だから何だ。帝都に泣きつくのか? あいつらが助けてくれたことなんざ一度もねえぞ」

「泣きつかない。自分たちでやる」

私は前に一歩踏み出した。

「まず食料。この地域の雪の下には、凍土層の上に冬カブの自生帯がある。領主館から北東に二里、針葉樹林の手前の斜面だ」

沈黙が落ちた。

これはゲーム知識だ。『聖剣のアリシア』のサブクエストで、辺境の薬草採取イベントに付随するフレーバーテキストに書かれていた。冬カブそのものは食用で、この地方の積雪下でも生育する。ゲームでは取るに足らない情報だったが、今この瞬間、それは生死を分ける知識になる。

「馬鹿な。あの斜面は魔獣の通り道だ」

「結界の残存区域を確認した。北東斜面はまだ圏内にある。三つ残っている起点石のうち二つがその方角を覆っている。今なら安全に採取できる」

猟師の男が眉を寄せた。疑っている。当然だ。昨日来たばかりの帝都の令嬢が、この土地の地理を語ること自体が異常だろう。

「次に燃料。針葉樹林の間伐材が手つかずで放置されている。あれを回収するだけで、各世帯の暖房は一月は延びる。さらに——」

私は足元の雪を指さした。

「雪を固めて壁を作る。家屋の外壁に雪壁を積めば断熱になる。寒冷地の基本技術だけれど、この領地ではやっていない」

「……やったことがねえからだ」

「だから、私が教える」

前世の知識だ。北海道の——いや、この世界にそんな地名はない。だが寒冷地で生き延びるための知恵は、前の人生で本を読み漁ったときに頭に叩き込んだ。かまくらの断熱原理、雪の圧縮による保温効果。科学の裏付けがある技術を、この世界の言葉に翻訳して伝えればいい。

「三つ目。水の確保。領主館の地下に井戸があるが、凍結防止の魔術が切れている。これは——私がなんとかする」

最後の一言で、空気が変わった。

魔力の扱いに難がある「壊れた器」。それが帝都での私の評価だ。この領民たちも噂で知っているかもしれない。魔術を使うと宣言したことへの不信が、視線の中に見えた。

けれど、誰も反論はしなかった。反論するほどの余裕すら、この領地にはないのだ。

「……勝手にしろ。どうせ他にあてなんざねえんだ」

猟師の男が吐き捨てるように言い、背を向けた。追従するように、領民たちが三々五々と散っていく。同意ではない。ただの消去法だ。他に縋るものがないから、どうせ駄目だろうと思いながらも否定しなかっただけ。

それでいい。今はそれで十分だ。

「リゼルヴァイン様」

ハインツが隣に立っていた。表情は変わらないが、声にわずかな温度があった。

「冬カブの自生帯は、実在いたします。ただ——ここ数年は魔獣を恐れて誰も近づいておりませんでした。結界圏内であることは、私も確認しておりますが」

つまり、情報は正しいと裏を取ってくれたのだ。

「ハインツ。あなた、ずっと一人でこの領地を支えてきたのね」

「……いえ。支えきれておりません」

その短い言葉に、十年分の重みが乗っていた。前任の領主代行が亡くなってから、この老執事は行政も治安も外交も、すべてを一身に背負ってきた。税は帝都に搾り取られ、補給は途絶え、領民の不満だけが積もる中で。

「これからは一人じゃない」

ハインツが顔を上げた。その目に浮かんだのは、期待ではなく——もっと慎重な、長い冬を知る者だけが持つ種類の光だった。信じたい。だが信じて裏切られることを、この人は何度も経験してきたのだろう。

「明日から動く。まず冬カブの採取班を編成して。猟師の——さっきの男、名前は」

「グスタフです。領内で最も山を知る男です」

「彼に採取班の指揮を頼めるか聞いて。断られたら別の猟師を当たる。同時に、間伐材の回収と雪壁の建設を並行で進める。人手の割り振りはハインツに任せる」

矢継ぎ早に指示を出しながら、私の頭の中ではもう一つの問題が渦巻いていた。

井戸の凍結防止。あれは虚勢ではない。実際にやらなければならない。だが、帝都で「壊れた器」と呼ばれた私の魔力が、果たして使い物になるのか。あの胸の奥の鼓動を感じるたびに、自分でも正体のわからない力が蠢くのを感じる。制御できるかどうかすら未知数だ。

それでも——やるしかない。

十日。猶予は十日しかない。

その夜、書斎で領地の古い記録を読み漁っていたとき、それは来た。

地鳴りのような低音が、足元から這い上がってくる。椅子の脚が石床の上で小刻みに震え、棚に並んだ古い革装の書物が互いにぶつかり合って乾いた音を立てた。

昨夜の咆哮とは質が違った。あれは遠い警告だった。今度のこれは——宣告だ。

窓を開けると、凍てつく夜風とともに、獣の匂いが鼻を突いた。腐肉と硫黄を混ぜたような、吐き気を催す臭気。結界の方角で、淡い灰色の光が断続的に点滅している。起点石が悲鳴を上げている。

「リゼルヴァイン様!」

ハインツが書斎に駆け込んできた。常に冷静だったあの執事の顔から、血の気が引いている。

「北の起点石が——沈黙しました。結界に穴が開いています」

胸の奥で、封印された何かがどくりと脈打った。痛みに似た熱が鎖骨の下から喉元へ駆け上がり、指先がかすかに痺れる。

闇の向こうから、幾重にも重なる咆哮が夜空を震わせる。一匹ではない。群れだ。地を蹴る無数の足音が、雪原を越えてこちらへ迫ってくる。

——来る。

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