第1話
第1話
「婚約を破棄する」
その一言が、私の人生を二つに割った。
王太子殿下の声は冷たく、舞踏会の大広間に響き渡った。天井から吊るされた無数のシャンデリアが、何事もなかったかのように煌々と輝いている。数百の視線が私に突き刺さる。嘲り、哀れみ、そしてほんの少しの愉悦。貴族社会とはそういうものだ。誰かの転落は、別の誰かの娯楽になる。
リゼルヴァイン・ヴァルトシュタイン。公爵家の嫡女にして、今この瞬間から「悪役令嬢」の烙印を押された女。
——ああ、やっぱりこうなったか。
胸の奥で、前世の記憶が静かに囁く。知っていた。この場面を、私は知っていた。乙女ゲーム『聖剣のアリシア』第三章、悪役令嬢リゼルヴァインの破滅イベント。王太子レクトールが聖女アリシアの前で婚約破棄を宣言し、悪役令嬢は泣き崩れて退場する。
泣き崩れる? 冗談ではない。
「——承知いたしました、殿下」
私は完璧な角度で一礼した。背筋を伸ばし、顎を引き、公爵令嬢として恥じることのない所作で。周囲がざわめく。台本にない反応だったのだろう。王太子の隣に立つアリシアが、困惑したように瞳を揺らしたのが視界の端に映った。泣いて取り乱す悪役令嬢を慰める——そういう筋書きだったはずだ。私が崩れなければ、聖女の見せ場もない。
追放先は辺境ノルドヘルム。雪と魔獣に閉ざされた、王国が見捨てた不毛の地。ゲームでは名前すら表示されない背景の土地だ。
馬車が帝都の門を出たとき、私はようやく息をついた。窓の外を流れる景色が、石畳から荒野に変わっていく。護衛はたった二名。それすら、途中の宿場町で帰還命令を受けて去った。
七日間の旅路は過酷だった。道は次第に細くなり、やがて轍すら消えた。冷気が馬車の隙間から忍び込み、吐く息が白く凍る。積もった雪が車輪を軋ませるたび、御者が舌打ちをした。三日目には車軸が氷に噛み、半日を修繕に費やした。四日目の夜には遠くで狼の遠吠えが聞こえ、私は眠れぬまま毛布にくるまって夜明けを待った。
帝都では春の花が咲いていたのに、ここはまだ冬だ。
ノルドヘルム領主館が見えたのは、八日目の昼過ぎだった。
「……これが、領主館」
思わず声が漏れた。屋根の半分は崩れ、壁の漆喰は剥がれ落ち、正門の紋章は風雪に削られて原形をとどめていない。ヴァルトシュタイン家の分家が代々治めてきた土地だと聞いていたが、ここまでとは。
馬車が止まると、領民たちが集まってきた。痩せこけた顔、擦り切れた衣服。そして——その目に宿る、剥き出しの敵意。
「帝都の貴族が来たぞ」
「また搾り取りに来たんだろう」
「あの齢で追放ってことは、よほどの悪事を働いたんだな」
囁きが雪の中に散る。私は黙って馬車を降りた。凍った地面が薄い靴底を通して足の裏を刺す。
領民の群れの端に、小さな影があった。五つか六つの女の子だ。薄汚れた布切れ一枚を体に巻きつけ、唇が紫に変色している。震える手で、隣の——おそらく兄だろう——少年の袖を握りしめていた。少年も大差ない格好だったが、妹を庇うように半歩前に立っている。その小さな肩が、寒さとは別の理由で強張っていた。
私は何も言わず、自分の外套を外した。
帝都で仕立てた、銀狐の毛皮で裏打ちされた上等な品だ。この辺境では私の全財産に等しい。それを小さな肩にかけてやると、女の子が驚いたように目を見開いた。
「あったかい……」
その一言だけだった。周囲の敵意は変わらない。けれど女の子の兄が、ほんの一瞬だけ、私に頭を下げた。
領主館の中は外観以上に荒んでいた。暖炉には灰しかなく、家具は最低限。壁際に積まれた書類の束が湿気で波打ち、廊下の窓ガラスは三枚に一枚が板で塞がれている。出迎えたのは初老の執事が一人。
「お待ちしておりました。執事のハインツと申します」
白髪の男は深く頭を下げた。その背中は曲がり、手は荒れていたが、目だけは濁っていなかった。この人が一人でこの領地を支えてきたのだと、見ればわかった。
「状況を聞かせて、ハインツ」
「……率直に申し上げてよろしいですか」
「回りくどいのは嫌いよ」
ハインツが一瞬、意外そうな顔をした。帝都の令嬢にしては——そう思ったのだろう。
「食料の備蓄は半月分。守備兵は十二名ですが、まともに戦えるのは五名。領境の魔獣除けの結界は劣化が進み、いつ崩壊してもおかしくありません」
半月。たった半月で、この領地は飢える。
ゲームの知識が脳裏を駆け巡る。ノルドヘルム領は作中で語られることのない土地だった。悪役令嬢の追放先として一行のテキストで触れられるだけ。その後どうなったかなど、誰も気にしない。
だが——ここには人がいる。あの震えていた女の子がいる。ゲームの「背景」の中で、確かに生きている人間がいる。
「ハインツ。帝都から物資の補給は」
「三年前から途絶えております。税の徴収だけは欠かさず来ますが」
税は取る。だが何も返さない。
これが王国の辺境政策の正体か。ゲームのシナリオでは、こんな現実は一行たりとも描かれていなかった。
窓の外では雪がまた降り始めていた。灰色の空の下、領民たちの家々から細い煙が上がっている。燃料すら足りていないのだろう、煙は弱々しくすぐに風に散った。
私は窓枠に手をつき、凍てつく辺境の景色を見つめた。
——これは「破滅エンド」だ。
ゲームの筋書きに従えば、悪役令嬢リゼルヴァインはこの辺境で朽ち果てる。飢えか、魔獣か、あるいは孤独に。プレイヤーがエンディングロールを眺めている間に、画面の外で静かに消えていく存在。
だが、私はゲームのキャラクターではない。
前世で三十二年間生きた記憶がある。大学で化学を学び、企業で働き、過労で倒れて——気がつけばこの世界の揺り籠の中にいた。十七年かけて貴族令嬢として育ち、ゲームの知識と前世の知識、その両方を持っている。
そして何より。
帝都では私の魔力は「欠陥品」と呼ばれた。魔力量は測定されるたびに異なり、制御は不安定で、宮廷魔術師からは「壊れた器」と蔑まれた。王太子が婚約を破棄した理由の一つでもある。公爵家の令嬢でありながら魔力の扱いに難がある——貴族社会では致命的な欠点だった。
けれど今、帝都から遠く離れたこの地で、胸の奥に沈んでいた何かが微かに脈動するのを感じる。帝都にいた頃には感じたことのない、深く、熱い鼓動。まるで封じられていたものが、距離を得て息を吹き返すように。
まだわからない。この感覚が何なのか、まだ。
「ハインツ」
「はい」
「明日、領民を集めて。全員に伝えることがある」
「何をお伝えに」
私は窓から振り返り、執事の目を真っ直ぐに見た。
「冬の越し方よ。この領地には、まだやれることがある」
ハインツが目を瞠った。それから——十年以上この地を守り続けてきた老執事の目に、微かな光が宿るのを、私は見逃さなかった。
「……かしこまりました、リゼルヴァイン様」
その夜、寝台に横たわりながら、私は天井の染みを数えていた。
自由だ。
帝都の社交界も、王太子の顔色を窺う日々も、「公爵令嬢らしく」という鋳型も、もうない。ここには何もない代わりに、何の制約もない。
破滅エンド? 結構。ゲームの筋書きなど、書き換えてやる。
——この領地を、私の手で立て直す。
決意は静かだった。涙も、拳を握る劇的な瞬間もない。ただ、胸の奥の鼓動が少しだけ強くなった気がした。
遠くで、獣の咆哮が聞こえた。
領境の方角だ。低く、地を這うような唸り声が、雪原の向こうから風に乗って届く。一匹ではない。幾重にも重なる声が、夜の闇を震わせている。
魔獣だ。
私は寝台の上で身を起こし、凍りついた窓の向こうに目を凝らした。
闇の中で、何かが蠢いている気配がする。結界が劣化しているとハインツは言った。いつ崩壊してもおかしくない、と。
窓ガラスに映る自分の顔が、青白く強張っている。胸の奥の鼓動が、咆哮に呼応するように一際強く跳ねた。
まさか——もう?
咆哮がまた響いた。今度は、明らかに近い。