第3話
第3話
階段を駆け下りた。
考えるより先に体が動いていた。帝都の舞踏会で鍛えた優雅な足運びなど跡形もない。石段を二段飛ばしで降り、薄い室内履きのまま玄関広間に飛び出すと、すでに守備兵たちが松明を手に集まっていた。
五名。まともに戦えるのは五名だとハインツは言った。その五名が、震える手で錆びた剣を握っている。
「何が来る」
先頭に立つ男——守備兵長のヴェルナーだろう——が振り向いた。四十がらみの精悍な顔に、恐怖ではなく諦観が浮かんでいる。
「グラウヴォルフです。咆哮の重なりから推測して、少なくとも十二。A級魔獣の群れ行動です」
A級。ゲームの知識が瞬時に脳裏を走る。グラウヴォルフ——灰鋼狼。体長二メートル超、牙は鋼鉄を噛み砕き、群れで連携して獲物を追い詰める。帝都の正規騎士団でも一個小隊が必要な相手だ。それが十二体以上。
「守備兵で持ちますか」
「持ちません」
ヴェルナーは簡潔だった。視線が私を一瞥し、すぐに結界の方角へ戻る。帝都の令嬢に期待するものなど何もないという目だった。
「領民を領主館に退避させて。ここの石壁なら多少は——」
「間に合いません。すでに領境を越えています。ここまで四半刻」
四半刻。十五分。
領民の家は領主館から散在している。夜中に全員を集めるには短すぎる。かといって守備兵五名で十二体以上のA級魔獣を迎え撃つなど、死にに行くのと同義だ。
選択肢がない。ゲーム知識にも、前世の知識にも、この状況を切り抜ける方法が見当たらない。
——いや、一つだけある。
胸の奥の鼓動が、さっきから激しさを増している。帝都では微かだった脈動が、今は心臓そのものを揺さぶるほどに強い。指先が熱い。血管の中を熱湯が流れるような感覚が、両腕を駆け上がってくる。
「私が出る」
ヴェルナーが眉をひそめた。
「——何を」
「時間を稼ぐ。その間に領民を館へ」
「正気ですか。あなたは——」
「壊れた器でしょう? 知っているわ」
私は守備兵たちの間を抜け、正門へ歩いた。背中に視線が突き刺さる。止める者はいなかった。止める余裕がなかったのか、止める価値がないと判断されたのか。どちらでも構わない。
正門の外に出ると、夜気が刃のように頬を切った。雪原の向こう、針葉樹林の黒い影の手前に——光る眼があった。無数の、黄金色の眼。地面すれすれの高さで揺れるそれらが、一斉にこちらを向いた。
先頭の一体が月光の下に姿を現す。
灰色の剛毛に覆われた巨体。背中の筋肉が異常に隆起し、開いた顎から覗く牙が、青白い月明かりを反射していた。ゲームの二次元イラストとは比較にならない。生きた獣の圧力が、空気を通して肌を圧迫してくる。
その獣が、咆哮した。
鼓膜を震わせる音圧に、思わず膝が折れかけた。同時に——胸の奥で、何かが砕けた。
物理的な感覚だった。肋骨の裏側で、硝子の器が割れるような鋭い破裂音。そこから溢れ出したのは痛みではなく、光だった。
冷たい、青白い光。
自分の手を見下ろす。指先から光の粒子が立ち上っている。掌の上で渦を巻き、腕を伝って肩へ、肩から胸へ、胸から全身へ。視界が白く染まるほどの魔力が、体の内側から噴き出していた。
これは——何だ。
帝都で測定された私の魔力量は、貴族の中でも下位だった。制御も不安定で、基礎的な火灯しの魔術すらまともに発動できなかった。それが今、全身を覆う魔力の奔流は、宮廷魔術師の——いや、比較にならない。桁が違う。
ゲームの設定にはこんな力は存在しない。悪役令嬢リゼルヴァインは「魔力に難のある公爵令嬢」であって、それ以上でも以下でもなかったはずだ。
先頭のグラウヴォルフが地を蹴った。雪を巻き上げて跳躍する巨体。開かれた顎が私の喉元を狙う。
考えるより先に、体が動いた。
右手を掲げる。指先に集まった魔力が一瞬で凝縮し、形を成す。氷だ。空気中の水分が一瞬で凍結し、長さ二メートルの氷の槍が虚空に出現した。
放て、と思った瞬間、槍は射出されていた。
轟音。氷槍がグラウヴォルフの胴体を貫き、そのまま背後の地面に突き刺さる。巨体が中空で折れ曲がり、悲鳴すら上げずに雪原に叩きつけられた。
群れが一瞬、動きを止めた。
だが獣の本能は恐怖より飢えを選んだ。残りのグラウヴォルフが一斉に突進してくる。右から三体、左から四体、正面に五体。包囲陣形。群れの知性が、私を獲物として認識している。
私は両手を広げた。
制御なんて考えなかった。考える余裕がなかった。体の奥から湧き上がる魔力をただ解放した。指先から、掌から、全身から放射された冷気が雪原を覆い、空気中の水分が一斉に結晶化する。
氷槍が生まれた。一本ではない。五本、十本、二十本——数えることを放棄するほどの氷の槍が、私を中心に放射状に展開された。夜空を埋め尽くす氷の花が月光を受けて輝き、一瞬だけ、辺境の夜が昼のように白く照らされた。
そして——落ちた。
氷の暴風雨が雪原に降り注ぐ。グラウヴォルフたちの咆哮が悲鳴に変わり、一体、また一体と雪に沈んでいく。氷槍は獣の体を貫くだけでなく、着弾点から放射状に凍結を広げ、雪原そのものを氷の大地に変えていった。
十秒だったか、三十秒だったか。時間の感覚が溶けていた。
気がつくと、立っていた。白い息を吐きながら、凍りついた雪原の真ん中に。
動くものは何もなかった。十二体以上いたグラウヴォルフの群れが、一体残らず氷の棺に閉じ込められている。中には原形を留めないほど砕かれた個体もあった。
膝から力が抜けた。雪の上に片膝をつき、荒い呼吸を繰り返す。指先の感覚がない。魔力の残滓が皮膚の表面でぱちぱちと弾け、青白い火花のように散っていた。
「……何、これ」
声が震えていた。自分の声だと認識するのに一拍かかった。
この力はゲームに存在しない。悪役令嬢リゼルヴァインの設定にも、『聖剣のアリシア』のどのルートにも、こんな規格外の魔力は記述されていない。「壊れた器」と呼ばれた私の魔力が——封じられていた? 何に。誰に。なぜ。
背後で足音がした。振り返ると、守備兵たちが正門の前で立ち尽くしていた。松明の炎が、凍りついた顔を赤く照らしている。ヴェルナーの手から剣が滑り落ち、雪の上で乾いた音を立てた。
その向こうに、領民たちの姿が見えた。避難する途中だったのだろう、領主館へ向かう道の上で足を止め、こちらを見ている。女も子供も老人も、誰一人として声を発していなかった。
静寂が、雪原を支配していた。
ハインツが歩み寄ってきた。老執事の目は見開かれていたが、声だけは平静を保っていた。
「リゼルヴァイン様。お怪我は」
「……ないわ。たぶん」
立ち上がろうとして、膝が笑った。ハインツの手が素早く肘を支える。
「ハインツ」
「はい」
「この力が何なのか——私にもわからない」
正直に言った。虚勢を張る気力が残っていなかった。
ハインツは数秒の間を置いて、静かに答えた。
「わからぬものは、明日お調べになればよろしいかと。今夜は——お休みください」
その声に、昨日までとは違う響きがあった。信頼ではない。まだそこまでは届かない。だが、「この人間は見る価値がある」という判断が、初めてそこに乗っていた。
ハインツに支えられて館に戻る途中、ふと振り返った。
月光に照らされた雪原に、氷の槍が林立している。その隙間に横たわるグラウヴォルフの巨体。A級魔獣の群れを、たった一人で殲滅した痕跡が、嘘のように静かに月の光を浴びていた。
胸の奥で、砕けた封印の残骸がまだ微かに熱を持っている。
あの力は呼べば再び来るのか。来たとして、次は制御できるのか。そもそも——なぜ帝都では封じられていたのか。距離が関係しているのか、それとも、この土地そのものに何かがあるのか。
ゲームの知識に答えはない。前世の知識にも。
私は今、どちらの世界の地図にも載っていない場所に立っている。
寝室に戻り、寝台に倒れ込んだ。意識が遠のく直前、窓の外で微かな声が聞こえた気がした。
「——領主様が、守ってくれた」
子供の声だった。あの外套をかけた女の子か、別の子か、わからない。夢うつつの中で、その一言だけが妙に鮮明に耳に残った。
領主様。
まだ誰も、面と向かっては呼んでくれない。
だが——夜の向こうで、何かが変わり始めている。その予感だけを抱いて、私は泥のような眠りに沈んだ。