第2話
第2話
足音が止まった瞬間、俺の喉が音を立てて鳴った。
唾を飲み込んだだけだ。それだけのはずだった。けれど暗闇の向こうで、同じタイミング、同じ音量で、誰かが唾を飲み込み返した気配があった。蛭川のカメラのライトが届かない数歩先の闇——そこに何かが立っている、と頭の芯が告げる。形は見えない。輪郭も判らない。ただ、空気の密度が、その一点だけ少し重い。
「あ、あれ、なんかおかしくね?」
サブの一人がへら、と笑った。笑いの語尾が震えていた。蛭川がカメラを下げる。さすがに芸人めいた台詞も出てこない。ライトが二つに割れて、扉の闇と俺の顔を交互に舐めた。
「……海老沢、おい」
蛭川の声が、初めて素のトーンに戻っていた。
「冗談、お前が仕込んでんじゃねえだろうな」
「仕込めるわけ、ないですよ」
俺の声は、思ったより掠れていた。
佐久間が俺の袖を握る指を、更に強く握り直す。痛い、と感じる。けれどその痛みが、今はありがたかった。誰かの体温が——たとえ氷のように冷たくとも——皮膚の上に触れている事実だけが、まだ自分が生きている人間側にいることの根拠だった。
「戻ろう、戻ろうって、これマジで撮れ高じゃないって」
サブのもう一人がうわずった声で言いながら、後ずさりを始めた。蛭川は迷う素振りも見せず、すぐに踵を返した。プライドより撤退判断が早いのは、こいつが配信で生きてきた人種だからだろう。引き際だけは、いつだって自分の都合で計算できる。
俺たち四人は、来た通路をほとんど駆け出すように戻った。背中で、扉の向こうの呼吸音はまだ続いている気がした。けれど、振り返ることが出来なかった。振り返った瞬間、こちらを見ているものと目が合う——その一点だけが、扉そのものより怖かった。
通路の角を二つ曲がり、踊り場に出る——はずだった。
蛭川の足が止まった。
「……は?」
俺もそこで足を止めた。
来た時に確かに上ってきた、コンクリートの階段が、ない。
地下三階の踊り場は、確かにここのはずだった。割れた蛍光灯のシェード、壁に貼られた色褪せた防火管理者の名札、床に踏みつけられたままの煙草の吸殻——その全てが、来た時のまま残っている。
ただ、上へ昇る階段だけが、消えていた。
代わりに、踊り場の正面、コンクリートの壁が、そこにあった。新しい壁ではない。来た時に確かに見上げた、上階へ続く吹き抜けの空間が、まるで最初からなかったかのように、ぴたりと壁で塞がれている。継ぎ目もない。塗り直した跡もない。ただ、最初からそういう構造として、そこに在った。
コンクリートの表面には、来る時に確かに視界の端で擦過した黴の斑紋まで、寸分違わず同じ位置に張り付いている。けれど、その黴の縁が、よく見るとほんの少しだけ新しく湿って見えた。たった今、誰かが指でなぞって押し付け直したように。手を伸ばして触れる勇気は、誰にもなかった。
「いやいや、待て待て待て」
蛭川がカメラを壁に向ける。ライトが照らす。何度も上下に振る。サブ二人が同時に呻いた。
「マジでねえ」「階段、消えてる」「冗談だろ」
佐久間が俺の腕の中でへたり込みかけ、俺の腕を支えに立ち直った。声にならない呼吸が、首筋に当たって熱い。けれど、熱は表面だけで、その奥は氷のように冷たかった。
俺はライトを動かさず、ただ壁を見つめていた。
正確には、壁の中央——胸の高さに、何かが浮き上がってきていた。
最初は染みかと思った。湿気で滲んだ赤茶色の汚れ。けれど、それは時間をかけて、文字の輪郭を取り始めた。コンクリートの内側から、誰かが鉄錆の指で、ゆっくりとなぞって描いているように。一画ずつ、慎重に。まるで、こちらに読ませることを目的として。
赤錆の滲みは、文字の輪郭の外側にも、毛細血管のような細い筋をじわりと伸ばし始めていた。一画書かれるたびに、コンクリートが微かに鳴く。きしり、きしり、と乾いた木のような音が、踊り場の床にまで伝わってくる。佐久間の指先が、俺の袖の上で小刻みに痙攣した。蛭川のサブが「うわ、うわ」と意味のない音だけを漏らし続けていた。
「脱、出、口」
声に出して読んだのは、佐久間だった。
赤錆で刻まれた三文字が、俺たちの目の前で完成した瞬間、文字を縁取るように、四角い扉の輪郭がコンクリートに浮かび上がった。鉄製の扉だ。蝶番も、取っ手も、リベットも、ある。けれど、ついさっきまでそこは、一枚の壁だったはずだった。
扉が、壁から生えていた。
兄のメモが頭の中で反響する。「地下に脱出口があるらしい」。「脱出口を見つけたら、絶対に開けるな」。
地下に脱出口は造られない、と俺はずっと思っていた。地下は逃げる場所ではないからだ。けれど今、目の前のそれは、確かに「脱出口」と名乗っている。出るための扉ではなく——閉じ込めるための扉が、自らをそう名乗っている。逃げ場のふりをして、誰かを誘うために。
「これ、撮れてる、撮れてるよ蛭川さん」
サブの一人が震える声で言った。声には恐怖と、それを上回る興奮が混じっていた。視聴者の数字に変換できる絵が、目の前にあるという興奮。蛭川が一瞬、頬の筋肉を吊り上げた。プロの判断が戻ってきたのが、横顔だけで判った。
「これ、伸びるな」
蛭川がカメラを構え直し、俺の前に出る。
「サブ、二台目回せ。引きの絵と、扉のアップ、両方欲しい」
「いや、蛭川さん、これ、開けないよな?」
サブのもう一人が、後ずさりながら声を裏返した。蛭川は答えず、扉に近付いていく。靴の踵がコンクリートを擦る音が、踊り場に響いた。
俺は反射的に手を伸ばしかけて、止めた。止めたのは恐怖ではない。蛭川を止めたところで、奴は俺の手を払い除けて、もう一度カメラを向けるだけだ。「底辺ライターが邪魔した」というシナリオを与えるだけだ。三年間、何度も繰り返してきた光景だった。
「やらせだろ、これ」
蛭川が扉の前で振り返り、カメラに向かって笑った。さっきまでの素のトーンは、もうどこにも残っていない。笑顔は綺麗に作り直されていた。
「絶対やらせだって。どっかの怪談系ユーチューバーの仕込みだろ。もしくは——」
奴がこちらを見た。視線が、俺の顔を素材として品定めする目だった。
「底辺ライターが、必死で打った仕込み、な」
サブが慌てて笑い声を作った。佐久間だけが、俺の腕を握る指の力を、痛いほど強くした。
蛭川の手が、扉の取っ手にかかった。
腐食した鉄に、奴の指が触れる。視聴者には絶対に見えない角度で、奴の指先が一瞬だけ震えた——のを、俺は見た。それでも奴は、カメラのレンズには笑顔だけを向けていた。
「いきます、開けます。さあ、何が出るか——」
カメラのライトが扉を白く焼く。佐久間の呼吸が止まる。サブ二人がじりじりと半歩、後ろへ下がる。俺は、自分の靴の中で、足の指が勝手に床を掴んでいるのを感じていた。逃げる準備を、身体が先にしている。けれど頭は、奇妙なほど凪いでいた。
——兄も、ここに立ったのだろうか。
三年前のあの日、兄も同じ踊り場で、消えた階段を見上げ、生えてきた扉の前に立ったのだろうか。誰かに押されたのか、それとも、自分から取っ手に手をかけたのか。メモに「絶対に開けるな」と書き残しておきながら、それでも開けてしまったのか。
舌の奥の錆の味が、また甘くなった。
蛭川が取っ手を引いた。
最初、扉は動かなかった。
蛭川が眉を歪め、両手で取っ手を握り直す。「重っ」と呟いた声に、芸の余裕はなかった。サブが慌ててライトの角度を直す。佐久間が「やめて、もうやめて」と俺の袖を引く。けれど、俺は止めなかった。止めるべきだったのに、止められなかった。三年間、止められなかったように。
軋み一つ立てず、扉が、こちらへ開いた。
風が来た。
地下三階の湿気とは違う、もっと深い場所の——錆と、腐った肉と、雨に濡れた古い紙の匂いを、混ぜ合わせたような風だった。それが俺たちの顔を撫で、佐久間が小さく嗚咽を漏らした。
扉の向こうは、闇だった。けれど、ただの闇ではなかった。
闇の中で、何かが、笑っていた。
声ではない。空気の震え方が、笑っていた。
蛭川が、カメラを構えたまま、半歩、扉に近付いた。